アミターバ ― 2007/05/23 10:03

浄土系の現代仏教文学と言うジャンルになるのか。
古来、仏教文学は、仏伝(釈迦の生涯の伝記)や本生譚(釈迦の前世の物語)、あるいは、阿闍世王に関連する説話等、釈迦の周囲の人物の伝記を説話形式で描いたものであり、過去現在因果経の様にお経になっているものもある。
その後、高僧伝や極楽往生の奇跡等を描いたものも現れるが、殆どが説話や口承文芸の形式である。この状況は、江戸時代にも入って続けられるが、明治期に至って廃仏毀釈の流れもあり、衰退して行く。
仏教文学のあり方は、説話だけではなく、信仰のあり方や仏の姿や存在をテーマにした作品も範疇に入る。釈迦の生涯を描いた作品もいくつか見られ、むしろドイツの文学者の作品等は優れていると思う。
現代において、宗教文学・仏教文学のあり方はかなり異なって来ている。人々の関心が、神や仏の存在よりも自らの実在に移っているからである。でも、自らの存在を突き詰めて考えると、「死んだらどうなるのか?」と言うテーマと言うか疑問に当たる。
チベットの「死者の書」をテーマにした作品が幾つか現れた事で、臨死体験が関心を呼ぶ様になる。「死者の書」は、「臨死」から蘇生までを段階的に描いている。
登場人物の慈雲か誰かが述べていた様に、仏教が「葬式仏教化」してしまって、私たちの死生観との関係が希薄化している。これは、浄土宗でも同様である。
臨死体験への関心を通じて、私たちは仏教や、浄土教と再び新たな価値観の中で、つながりを求める様になって来ているのかも知れない。それが現代仏教(浄土)文学の新しい潮流になろうとしているのだろうか。
アミターバとは、手元の仏教学辞典によると、サンスクリット語で「限りない寿命のあるもの。無量光。」と説明されており、アミターユスは、「限りない寿命のあるもの、無量寿」の意味であると書かれている。
この小説には、来迎仏や極楽往生、ひいては、阿弥陀如来の事等も書かれていない。中心のテーマは、アミターバとアミターユスである。
末期ガン(肝臓がん)でまもなく生涯を終えようとする老母、娘、婿達との関係の中で、婿の慈雲がアミターバについて、日常何気ない会話の中で、E=MC2(アインシュタインの特殊相対性理論)を説明。その正否は判らないが、結局、万物が膨大の光エネルギーが形を変えて存在している事と、アミターバを関連づけている。
この世界は、物質循環で成り立っており、光エネルギーも物資循環の形で永遠に存在し続ける。この事とアミターユスを関連づけて説明している。「私」の臨死体験の前半は自らの経験なのであるが、やがて光につつまれるにつれて遊離する様になり、臨終する自分の姿や娘・婿達の姿を外部から観察する様になっていく。
不思議な少女に導かれて、別の世界に旅立って行く.....
説話を読み説教を聴聞するだけの姿勢から自らの体験へ視点を変える事。これが、現代仏教のトレンドなのかもしれない。
古来、仏教文学は、仏伝(釈迦の生涯の伝記)や本生譚(釈迦の前世の物語)、あるいは、阿闍世王に関連する説話等、釈迦の周囲の人物の伝記を説話形式で描いたものであり、過去現在因果経の様にお経になっているものもある。
その後、高僧伝や極楽往生の奇跡等を描いたものも現れるが、殆どが説話や口承文芸の形式である。この状況は、江戸時代にも入って続けられるが、明治期に至って廃仏毀釈の流れもあり、衰退して行く。
仏教文学のあり方は、説話だけではなく、信仰のあり方や仏の姿や存在をテーマにした作品も範疇に入る。釈迦の生涯を描いた作品もいくつか見られ、むしろドイツの文学者の作品等は優れていると思う。
現代において、宗教文学・仏教文学のあり方はかなり異なって来ている。人々の関心が、神や仏の存在よりも自らの実在に移っているからである。でも、自らの存在を突き詰めて考えると、「死んだらどうなるのか?」と言うテーマと言うか疑問に当たる。
チベットの「死者の書」をテーマにした作品が幾つか現れた事で、臨死体験が関心を呼ぶ様になる。「死者の書」は、「臨死」から蘇生までを段階的に描いている。
登場人物の慈雲か誰かが述べていた様に、仏教が「葬式仏教化」してしまって、私たちの死生観との関係が希薄化している。これは、浄土宗でも同様である。
臨死体験への関心を通じて、私たちは仏教や、浄土教と再び新たな価値観の中で、つながりを求める様になって来ているのかも知れない。それが現代仏教(浄土)文学の新しい潮流になろうとしているのだろうか。
アミターバとは、手元の仏教学辞典によると、サンスクリット語で「限りない寿命のあるもの。無量光。」と説明されており、アミターユスは、「限りない寿命のあるもの、無量寿」の意味であると書かれている。
この小説には、来迎仏や極楽往生、ひいては、阿弥陀如来の事等も書かれていない。中心のテーマは、アミターバとアミターユスである。
末期ガン(肝臓がん)でまもなく生涯を終えようとする老母、娘、婿達との関係の中で、婿の慈雲がアミターバについて、日常何気ない会話の中で、E=MC2(アインシュタインの特殊相対性理論)を説明。その正否は判らないが、結局、万物が膨大の光エネルギーが形を変えて存在している事と、アミターバを関連づけている。
この世界は、物質循環で成り立っており、光エネルギーも物資循環の形で永遠に存在し続ける。この事とアミターユスを関連づけて説明している。「私」の臨死体験の前半は自らの経験なのであるが、やがて光につつまれるにつれて遊離する様になり、臨終する自分の姿や娘・婿達の姿を外部から観察する様になっていく。
不思議な少女に導かれて、別の世界に旅立って行く.....
説話を読み説教を聴聞するだけの姿勢から自らの体験へ視点を変える事。これが、現代仏教のトレンドなのかもしれない。
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