引き続きお休み ― 2008/11/10 11:32
風邪がとうとう週を越して長引いている。別に運動もしていないのに筋肉痛になっている。やはり、インフルエンザかも知れない(医者は違うといっている。)
最初は、熱はそれ程でない(しょっちゅう酒を飲んでいるので、37℃台では、気づかないことが多い。昨年の今頃も顔が腫れ上がり、40℃出ていた時も気づかずに「何か風呂に入っている様な感じかな。」とうろつき回っていた程。)昨日の朝は、熱が下がって、「シラフの時ってこんなにスッキリしているんだとか。」と感心したりしていたが、夕方になると熱が出てくる。下がったと思ったらぶり返すのがパターンで大変。
喉の痛みの後、鼻水が爆発的に出てから、咳に替わって、この咳が胸から出る感じなので、息苦しい。でも、大分、楽になってきた。
折角、カメラを新調したのに撮影にも行けない。
最初は、熱はそれ程でない(しょっちゅう酒を飲んでいるので、37℃台では、気づかないことが多い。昨年の今頃も顔が腫れ上がり、40℃出ていた時も気づかずに「何か風呂に入っている様な感じかな。」とうろつき回っていた程。)昨日の朝は、熱が下がって、「シラフの時ってこんなにスッキリしているんだとか。」と感心したりしていたが、夕方になると熱が出てくる。下がったと思ったらぶり返すのがパターンで大変。
喉の痛みの後、鼻水が爆発的に出てから、咳に替わって、この咳が胸から出る感じなので、息苦しい。でも、大分、楽になってきた。
折角、カメラを新調したのに撮影にも行けない。
4つの歌をめぐって ― 2008/11/10 21:30
風邪なのか、今日も夕方になると高熱が出たが、今は嘘の様に下がっている。季節外れの冬の様な寒さで、一日中、ブラームスの室内楽を先日アップした真空管プレイヤー・アンプの組合せで聞く。
ブラームスでない時は、シューベルトの晩年のピアノソナタをケンプのピアノで聴く。
今回は、とにかくブラームスだ。
この程度の装置では、ピアノ独奏や室内楽が一番で、最初は、シェリング(Vn)とルビンスタイン(p)のバイオリンソナタ、その後、ボザールトリオのピアノ四重奏曲集、ジャック・ランスロのクラリネット五重奏曲、クラリネットソナタ、チェロソナタ、ポリーニとイタリア弦楽四重奏団のピアノ5重奏曲、ホルン三重奏曲等、ピアノソナタ以外の大抵の曲を聴いた後で、最後にたどり着くのが、歌曲集「4つの厳粛な歌」でキャサリーン・フェリアの独唱の古いモノラル録音である。
この4つの厳粛な歌は、ブラームスの最晩年の作品で、この後にオルガンのコラール曲集を作曲した後、肝臓癌で亡くなる。
この作品も人生の終わり・死を扱っている。特に第1曲の人の子らに臨むところは、旧約聖書のソロモン「伝道の書」に拠る詩編が元に作曲されている。映画「ベニスに死す」で死の影が忍び寄る主人公が、この歌が歌われているのを聞くことで死の宣告を受ける場面で使われている。
人生の最後を4つの歌で締めくくるのは、この他にもR・シュトラウスの「4つの最後の歌」で、これも晩年のヘルマン・ヘッセが庭仕事をしながら考えた人生の終わりの詩集から引用されているが、シュトラウスの曲は、こんな最後の作品(やはり彼の最後の作品)でも外面的な華やかさ、明るさがあり、薔薇の花が散っていくような、そして死を肯定的というか前向きに捉える様な東洋的な終末観が描かれており、阿弥陀経を思わせる様な綺麗な透き通った迦陵頻伽を思わせる様な金色に響く小鳥の囀りで締めくくられている。
ところが、ブラームスのこの曲は、どうだろう。
第3曲「死よ、苦痛な死を」とある様に、苦渋に満ちた死に臨む人間の宿命を地味な旋律で歌い上げている。
ブラームスの曲はピアノ伴奏だし、アルト独唱というのも如何にも渋い感じである。
キャサリーン・フェリアは、この数年後に僅か41歳で癌の為に世を去る。電話交換手をしていて歌手として見いだされたという。
彼女の歌は、下手くそだ。現在では、大学の声楽科にも合格しないだろう。きっとソルフェージュで落第だ。
高音はかならず上擦るし、安定していない。それでも声の質は素晴らしいし、何よりも、歌詞の内容が活きており、質の良い朗読を聞くようだ。
朗読と言えば、昔、フィシャー・ディスカウのクラスで、ハイネの原詩によるリートクラスの講義で、やはり、原詩の朗読から授業を開始する。1語1句の意味をたわいない花の可憐さを歌った歌詞でも、その暗喩を含めて、歌の意味を噛みしめて朗読するところから始める。
この花の青さは、実は夜の暗さを表し、更に夜の暗さがイメージさせるものは...等の言葉の説明である。
メロディーと歌詞の自然な結びつきというのは、ちょうど、絵巻と詞書の結びつきの様なもので、言葉の意味を良く理解して、作曲され、歌われ、描かれた世界は、多彩な魅力に満ちている。
フェリアーの良さもこうした点にあるのかも知れない。
ブラームスのこの作品は、こうしたアプローチが最も適している。R・シュトラウスの作品では、ヤノビッツやシントワとカラヤンベルリンフィルの様な華麗な組合せで演奏されるが、ブラームスの作品は、実に、この様に素朴で、心の奥底に響く表現を必要としている。
ブラームスでない時は、シューベルトの晩年のピアノソナタをケンプのピアノで聴く。
今回は、とにかくブラームスだ。
この程度の装置では、ピアノ独奏や室内楽が一番で、最初は、シェリング(Vn)とルビンスタイン(p)のバイオリンソナタ、その後、ボザールトリオのピアノ四重奏曲集、ジャック・ランスロのクラリネット五重奏曲、クラリネットソナタ、チェロソナタ、ポリーニとイタリア弦楽四重奏団のピアノ5重奏曲、ホルン三重奏曲等、ピアノソナタ以外の大抵の曲を聴いた後で、最後にたどり着くのが、歌曲集「4つの厳粛な歌」でキャサリーン・フェリアの独唱の古いモノラル録音である。
この4つの厳粛な歌は、ブラームスの最晩年の作品で、この後にオルガンのコラール曲集を作曲した後、肝臓癌で亡くなる。
この作品も人生の終わり・死を扱っている。特に第1曲の人の子らに臨むところは、旧約聖書のソロモン「伝道の書」に拠る詩編が元に作曲されている。映画「ベニスに死す」で死の影が忍び寄る主人公が、この歌が歌われているのを聞くことで死の宣告を受ける場面で使われている。
人生の最後を4つの歌で締めくくるのは、この他にもR・シュトラウスの「4つの最後の歌」で、これも晩年のヘルマン・ヘッセが庭仕事をしながら考えた人生の終わりの詩集から引用されているが、シュトラウスの曲は、こんな最後の作品(やはり彼の最後の作品)でも外面的な華やかさ、明るさがあり、薔薇の花が散っていくような、そして死を肯定的というか前向きに捉える様な東洋的な終末観が描かれており、阿弥陀経を思わせる様な綺麗な透き通った迦陵頻伽を思わせる様な金色に響く小鳥の囀りで締めくくられている。
ところが、ブラームスのこの曲は、どうだろう。
第3曲「死よ、苦痛な死を」とある様に、苦渋に満ちた死に臨む人間の宿命を地味な旋律で歌い上げている。
ブラームスの曲はピアノ伴奏だし、アルト独唱というのも如何にも渋い感じである。
キャサリーン・フェリアは、この数年後に僅か41歳で癌の為に世を去る。電話交換手をしていて歌手として見いだされたという。
彼女の歌は、下手くそだ。現在では、大学の声楽科にも合格しないだろう。きっとソルフェージュで落第だ。
高音はかならず上擦るし、安定していない。それでも声の質は素晴らしいし、何よりも、歌詞の内容が活きており、質の良い朗読を聞くようだ。
朗読と言えば、昔、フィシャー・ディスカウのクラスで、ハイネの原詩によるリートクラスの講義で、やはり、原詩の朗読から授業を開始する。1語1句の意味をたわいない花の可憐さを歌った歌詞でも、その暗喩を含めて、歌の意味を噛みしめて朗読するところから始める。
この花の青さは、実は夜の暗さを表し、更に夜の暗さがイメージさせるものは...等の言葉の説明である。
メロディーと歌詞の自然な結びつきというのは、ちょうど、絵巻と詞書の結びつきの様なもので、言葉の意味を良く理解して、作曲され、歌われ、描かれた世界は、多彩な魅力に満ちている。
フェリアーの良さもこうした点にあるのかも知れない。
ブラームスのこの作品は、こうしたアプローチが最も適している。R・シュトラウスの作品では、ヤノビッツやシントワとカラヤンベルリンフィルの様な華麗な組合せで演奏されるが、ブラームスの作品は、実に、この様に素朴で、心の奥底に響く表現を必要としている。
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