釈迦の悟りは、もともと自明の真理であったのだ2009/09/24 23:39

「ブッダの教え~その後」

 佛教大学生ならば、誰もが受講する「ブッダの教え」であるが、学生の全てが、みんな理解しているのだろうか。

 先生の説明を鵜呑みにして理解したと思っているだけの人が多いと思う。私等、未だに、四聖諦の内、苦諦と集諦は、おぼろげながら「理解」しているつもりだが、「滅諦」、「道諦」については、理解が出来ないままだ。

 「ブッダの教え」も「法然上人の生涯と思想」、「仏教学概論」の全ての仏教科目の成績評価が低かったが、理解していないものを理解出来た様に答案に書ける程、私は器用ではない。

 釈迦が説く集諦というのは、結局のところ、諸法無我、つまり、アートマン(我)は、存在せず、輪廻しないことを述べている。

 全ての現象は、発生から止滅までの過程が直線的、連続的、不可塑的に進行していく。輪廻はしないが、やはり業を産み、苦の原因となる。

 滅諦は、原因からシーケンシャルに運動していく現象の動きを絶つことで、苦しみを絶つことが出来て解脱に至ることが出来ると釈迦は述べていると私はなりに理解している。

 恐らく間違いだと思うが。
 
 教科書の説明では、五蘊から生じる煩悩が渇愛につながっていき、人々を苦しみに導く。渇愛をさける為には、中道の生き方以外にないと、そうして八正道の生き方を目指すことで、苦しみから逃れることが出来るという。

 しかし、どうだろうか。

 岩波文庫の『ブッダ最後の旅』や、瀬戸内寂聴さんの『釈迦』等を読んでも、死ぬ間際まで、渇愛と肉体的な苦しみに喘ぐ釈迦の姿が描かれている。

 アーナンダの視点でそれらの光景は、描かれるが、実際に釈迦の最後は、現在、どこでもみられる80歳前後のご老人の臨終のありさまであり、なんら、正覚者としての威厳に満ちたものではない。

 聖書マタイ伝にはイエスのゴルゴタの丘への歩みの様子が描かれているが、「本当に聖人ならば、奇跡を起こしてみよ。乞食の王様よ。」と兵士に嘲られ、鞭打たれる様子が描かれる。

 彼も生身の人間の苦しみを露呈するが、これは、キリストの原罪と贖罪の象徴としての姿を描いている訳で、教義に即し必然性がある。

 しかし、ブッダの苦しみは、結局、正道を歩んでも肉体の苦しみから逃れられず、苦しみを我慢している老人の様子そのものである。

 老人特有の消化器不全から来る腸の炎症で腸閉塞の発作を起こし、一応は軽快するが、やがて患部が化膿し、下血が起きて、それによってショック死するという過程が、実に写実的に描かれている。

 鍛冶屋のチュンダーには、たしかに釈迦の言う通り、なんらの罪もない。病気の原因と理由は、ブッダじしんにある。

 だから、納得して諦めれば、苦しみもさるのだ。死の苦しみと恐怖から逃れる為に、禅定に入る。

 しかし、この禅定という修行自体、ブッダが、その効果を否定したことではなかっただろうか。そこには、1人の思想家の孤独な死の姿が描かれている。

 松田先生が見せてくれたスリランカの釈迦の時代の仏教のあり方を忠実に伝えている村落で、臨終者に立ち合う僧が出てくるが、「人が生きて、死ぬ事は、当然であるので、何一つ恐れるものはない。安心して逝きなさい。」と説教するが、これで人間が死の苦しみから救われるとは私には思えない。

 当然、ここには阿弥陀の来迎等は存在しない。諦めて死を受け入れることが救いなのだと言う。

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 大乗仏教的な観点からみれば、ブッダの涅槃の姿さえもが、1つの現象に過ぎず、そもそも「空」である。覚者、如来としてのブッダは既に別のところにいる。

 その真理は、全宇宙或いは、宇宙を越えた真理自体を支配し、あらゆる時空には、仏性が示した現象としてのブッダが何人もおられ、同じ様に衆生が救済されている。

 釈迦の悟りは、もともと自明の真理であったのだ。

 この場合は、人のカタチをしたブッダが人を救うのではなくて、如来の真理に包含・摂取されることにより、人は苦しみから救われるのであると、「究極の救済」が説かれているのだろう。

 しかし、これも私には信じることは出来ない。

 何故ならば、その真理は、完全に私たちの感覚や認識を越えているので、確かめようがないからである。

 「苦しみから逃れられたと自覚出来ない救いのあり方」言い換えれば、「極楽往生を遂げても、そのことが、浄土では、既に自覚されない救いのあり方」をあなたは信じることが出来るだろうか。

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