言語体験の共有化によってコミュケーション成立した安らぎが得られる2011/02/13 23:19

今日は、俳句童子の元町句会が開催された。
合計で17名位だったかな。盛況であった。
句会には、以前、下津井で参加したが、この時は、100名を超える人数で通常の句会とは言い難いものであった。
今回は、人数を含めて一般的な句会であったと思う。
左右両眼合計30個を越える目玉が元町近辺の様々な事物を観察し、俳句に詠んだ。
1名当たり7句の出句であったから、合計100句を超える俳句が作られたことになる。
大変な数である。


俳句の場合は、季語とか表現上の決まりごとがあるが、参加者それぞれ、独自の視点から俳句を詠んでいる。
当然であると思う。

「唯識」の立場からみれば、それぞれの網膜に焼き付いて、神経を通って脳が認識し、言語中枢を指摘し、学習の記憶を探り、それに適合した詞句を当てはめ、文字として書き留めているのである。

同じ物体・マテリアルをみても、実は、それぞれが別々の刺激が網膜によって生まれている筈だが、実は、それは、その段階で、「見えた」とは言えないのである。

ところが、生まれて初めて両親や身近な人から「言葉」を教わったその日から刺激がイメージを獲得して、認識が規範化される過程を経て、他の人間との共有が可能になり、「普通の人が見えている様にみえて」、同じ刺激体験の共有によって、コミュニケーションの成立に至るのだと思う。
つまり、観察の対象となるマテリアルが存在していなくても規範化とその学習を通して体験の共有化が可能になる訳である。

☆☆☆
今日僕は、

○春の海トランペットの音高く

とあんまり感心できないけれども、なんとか作った句を提出したが、それでも、こんな拙い句をとってくれる人がいて、感謝・感激である。

でも、「春の海」も「トランペット」も、その音も、それぞれ違う認識がされていた。
春の海とか、トランペットの音のイメージに対して、私とはかなり異なった認識がされているので、それなりに面白かった。
言語認識の規範性というのは、一定の恣意性を伴うものであるから当然である。

でも、この人は、他の人の様に、「何故、春の海なのか。」「トランペットでなくたってクラリネットでも良いではないか。」という否定期的な見方ではなくて、「春の海にはトランペットが似つかわしい」という認識で僕と一致したのである。

非常に嬉しかった。句が評価されることで、「唯識」の垣根を越えて、それぞれの認識の共有が実現したのである。

そうなると、誰かに抱き留められた様な不思議な安心感と安らぎを覚えるのである。

実際、句会では、厳しい批評が行われ、論評されている本人は、針の筵の上に座っている様なものであるが、それでも、句会に出席し続けるというのは、句の評価者・理解者によって、言語体験の共有化によってコミュケーション成立した安らぎと快感が得られるからである。