京都人の自己意識 ― 2006/10/09 18:48

「京都学」という言葉があるけれども、今、京都と言う地域は本当に面白い事になりそうだと思う。
京都人、大阪人、神戸っこ、同じ関西弁を話していても、それぞれの文化的気質はかなり異なる。
また、生育環境によっても「文化観」、「言葉観」は異なる。私は、「おおきに」と言う言葉がなかなか言えず、30歳を過ぎた頃にようやく口に出来る様になった。(ウチの家は商売人やないよって。)
京都人の文化気質の特色として、「自己意識」が強い事が考えられる。「ヨソさんはどないに思うてはりますやろか。」と言う意識は、恐らくは、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和の時代の流れ中で、町衆のご近所とのつき合いの中で常に意識されて来た事だと思う。
面白いのは、近代メディア文明が発達してからは、この様な意識が同じ京の町衆以外の「ヨソさん」にも向けられ始めた事である。
21世紀の地域政策・公共政策の変化の中で、まちづくり、地域振興と言う事が焦点を浴びているが、同じ関西圏の中で、京都はまちづくりと言う点で最も先進的役割を果たしている。
観光地と言う土地柄もあるが、これは、やはり、長年培われて来た住民意識が大きいと思う。
10月7日(土)佛教大学四条センターで、この大学が力を入れている総合研究所主催による「京都の未来~発想の転換」と言う公開講演会が開催された。
佛教大学は、浄土宗と言う宗教環境の中で、単一性、均質性を帯びた学術展開の傾向があると思われがちであるが、それがどっこい実は、非常に学際的な面白さがある。
「ヨソさん」の大学では、文学部の中でも学科が違うだけで蛸壺的に、仕切られがちであるが佛大の総合研究所は、社会学、文学、教育学、浄土宗研究が、融合して1つのテーマを追求すると言うユニークな組織である。
この総合研究所が主催した京都の未来発想の転換では、最初に社会学公共政策学科の関谷先生が、中京区のマンション建設ラッシュの中で、これまでの町衆主体のコミュニケーションから、新旧の垣根を越えた新しいコミュニケーションが新しい地域社会が作り出す可能性がある事、教育学の橋本先生は、学校教育の現場に京都弁を取り入れたら、生徒達との本音のコミュニケーションが実現し、新しい教育の可能性が実現しないか。近代文学の三谷先生は、川端康成の文学作品の中で、山紫水明と言う文化的風土の中で、常に新しい変化を模索しつづける京都人の気質を指摘、浄土宗僧侶の安達先生は、これまでの観光寺院から「本当の佛教とは何ぞや」と言う一般人の疑問を解決してくれる身近な修行道場をつくる事で新しい展開が出来ないかと言う、それぞれが非常に斬新なアイデアや発想に満ちた「京都観」が披露された。
当日の四条センターには、ご年輩の方が多かったが、多くの人は京都市内から来場された為に、地域意識は、非常に強く、講演内容への反響も大きく、質疑応答を通じてライブコミュニケーションが実現していた。
これまで四条センターの講演やセミナーには、何度と無く通っていたが、「本音」の質疑応答が出たケースは今回が初めてであった。
私は、残念ながら京都に生まれ育った人間ではないので、例えば、橋本先生の京都弁と標準語による授業では、京都弁の方が本音のコミュニケーションが実現出来ると言う説明には、全て共感し得なかったが、地元の京都の人には、大きな同調を受けていた。
京都と言う「内輪の文化」は、近郊の大阪や兵庫の人でも入って行けない面がある。だから、「京都の未来」を論じる場合には、「内輪」の論じ方と「ヨソ行き」の論じ方があると思う。
今回の講演では、「京都に生まれ育ったのが当然。」と言う恐るべき集団原理の中でのコミュニケーションが実現していたので、他の地域の人には入って行きづらい点もあったのではないだろうか。
この「体感」の違いを分析する事が、京都と言う地域性を客観的に分析する手がかりになるのではと感じた。
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