仏涅槃会 ― 2008/02/15 22:08
『釈迦』(瀬戸内寂聴著 新潮文庫)
今日は、涅槃会(ニルヴァーナ)という事で、こういった本をゆっくり読んでみるのも良いかなと思う。
実際には、この他、『ブッダ最後の旅』(中村元訳)等大般涅槃経の翻訳も重要になる。
寂聴さんの釈迦もやはり、大般涅槃経から多くを取材されている。
独特なのは、主にアーナンダの目を通してブッダの最後の日々の姿を描写している点で、第3者の視点導入で聖人の生涯を描くというのは、案外に近代文学的なのではないだろうか。
例えば、遠藤周作の『イエスの生涯』では、語り手の存在は規定のこととして、あたかも作者の目を通したかの様にイエスの生涯を描いている。この場合は、独特の神聖・威厳が生まれるが、同時に人間性の描写が希薄となる嫌いもある。
『釈迦』では、アーナンダの目を通した生身の姿が描かれている。チェンダーのキノコ料理にあたって大量の下血に衣服が汚れながら背負われて最後の旅を続ける釈迦の姿や、女人の目を通した釈迦像もアンバパーリーや尼僧院での比丘尼の生活を通して描かれていく。
女人にとってブッダの教えはなんであったのかと言う事も大きなテーマ。
アーナンダやダイバダッタ、アンバパーリーやその他の女性達の人物造詣も、見事でなにやら淫靡な雰囲気も感じられる。この辺りの描き方は、さすが、こういった文章の大家であった瀬戸内晴美の片鱗を窺わさせられる。
寂聴のブッダの弟子達の人物造形の方法やイメージは、手塚治虫のブッダに非常に近い。
特に王舎城の悲劇の場面等の描写は、酷似していると言っても良い位。手塚のブッダは、寂聴さんの『釈迦』よりも15年前に書かれた作品である。片方は劇画であり、小説ではないので剽窃といった様なものではないが、少なくとも密接な影響を感じるのは私だけではないだろう。
アーナンダは釈尊の没後の姿まで描かれ、阿羅漢果をついに釈迦の生前に得る事が出来なかったと想定されている。
これは、アーナンダの視点を通して釈尊の生涯を描いているのだから、あくまでも人間の視点で描かれなければならないと言うコンセプトから敢えて、その様な設定にされたのだろう。
アーナンダの覚りの場面も描かれている。大きな衝撃に見舞われる様な描かれ方がされているが、私には、覚りというものは、そのようなものではないと直感する。
手塚の描いた釈尊の覚りは、修行成就とその後の2段階に分けて描かれている。最初の覚りは、チベット仏教の如来像の思想に似たものであり、私は、この様な事を覚られたのではないと思う。
寂聴さんも、未だ覚りの体験をされた事がないのだろうか。
中村元訳のブッダ最後の旅で一番、私にとって謎となった事は、釈迦が入滅される時に瞑想に入られる。一度は、非想非非想の境地に域に到達されてから、再び戻られてから息を引き取られるのは、何故だろうかと言う点である。
この問題についても寂聴さんの『釈迦』を読んでも回答は得られない。それは、あくまでも人間としての釈迦の生涯を描いているからだと思う。
釈迦の入滅は、あくまでも仮の肉体が滅んだに過ぎないからだ。
今日は、涅槃会(ニルヴァーナ)という事で、こういった本をゆっくり読んでみるのも良いかなと思う。
実際には、この他、『ブッダ最後の旅』(中村元訳)等大般涅槃経の翻訳も重要になる。
寂聴さんの釈迦もやはり、大般涅槃経から多くを取材されている。
独特なのは、主にアーナンダの目を通してブッダの最後の日々の姿を描写している点で、第3者の視点導入で聖人の生涯を描くというのは、案外に近代文学的なのではないだろうか。
例えば、遠藤周作の『イエスの生涯』では、語り手の存在は規定のこととして、あたかも作者の目を通したかの様にイエスの生涯を描いている。この場合は、独特の神聖・威厳が生まれるが、同時に人間性の描写が希薄となる嫌いもある。
『釈迦』では、アーナンダの目を通した生身の姿が描かれている。チェンダーのキノコ料理にあたって大量の下血に衣服が汚れながら背負われて最後の旅を続ける釈迦の姿や、女人の目を通した釈迦像もアンバパーリーや尼僧院での比丘尼の生活を通して描かれていく。
女人にとってブッダの教えはなんであったのかと言う事も大きなテーマ。
アーナンダやダイバダッタ、アンバパーリーやその他の女性達の人物造詣も、見事でなにやら淫靡な雰囲気も感じられる。この辺りの描き方は、さすが、こういった文章の大家であった瀬戸内晴美の片鱗を窺わさせられる。
寂聴のブッダの弟子達の人物造形の方法やイメージは、手塚治虫のブッダに非常に近い。
特に王舎城の悲劇の場面等の描写は、酷似していると言っても良い位。手塚のブッダは、寂聴さんの『釈迦』よりも15年前に書かれた作品である。片方は劇画であり、小説ではないので剽窃といった様なものではないが、少なくとも密接な影響を感じるのは私だけではないだろう。
アーナンダは釈尊の没後の姿まで描かれ、阿羅漢果をついに釈迦の生前に得る事が出来なかったと想定されている。
これは、アーナンダの視点を通して釈尊の生涯を描いているのだから、あくまでも人間の視点で描かれなければならないと言うコンセプトから敢えて、その様な設定にされたのだろう。
アーナンダの覚りの場面も描かれている。大きな衝撃に見舞われる様な描かれ方がされているが、私には、覚りというものは、そのようなものではないと直感する。
手塚の描いた釈尊の覚りは、修行成就とその後の2段階に分けて描かれている。最初の覚りは、チベット仏教の如来像の思想に似たものであり、私は、この様な事を覚られたのではないと思う。
寂聴さんも、未だ覚りの体験をされた事がないのだろうか。
中村元訳のブッダ最後の旅で一番、私にとって謎となった事は、釈迦が入滅される時に瞑想に入られる。一度は、非想非非想の境地に域に到達されてから、再び戻られてから息を引き取られるのは、何故だろうかと言う点である。
この問題についても寂聴さんの『釈迦』を読んでも回答は得られない。それは、あくまでも人間としての釈迦の生涯を描いているからだと思う。
釈迦の入滅は、あくまでも仮の肉体が滅んだに過ぎないからだ。
最近のコメント