「還愚痴」という生き方 ― 2010/04/03 20:34
「法然を語る」は、最終の第12回の録画をみた。前回は、法然上人と女人についての番組だったが、録画をみている最中に叔母の逝去の知らせをうけて、中断したままであった。
最終回は、法然上人と現代ということで、「還愚痴」という生き方と、現代社会での精神と身体の関係について、町田先生は、「現代人は身体と心が離れてしまっているので、なにやら満たされない生き方を強いられている。還愚痴とは、そういったこだわりを捨てて、素直に心と身体が生きたい様に生きれば、自ずから一体となり、過去への拘りも捨てて、阿弥陀如来と一体になったような充実感が得られる筈。」
つまり、極楽往生の為の念仏ではなくて、阿弥陀如来と一体になることを目指す姿勢であるという。
これは、町田先生の考え方なので、私は、やはり、極楽往生というものが存在し、その為のお念仏であると考えているので、その様な考えには賛同しかねる。そうでなければ、何も法蔵菩薩の四十八の本願等、どうでもよくなってしまうと思う。
大乗の教えには、過去・現代・過去の三世においてあらゆる生命は仏性を有して、時空を超えてつながっているという考え方もあるようで、それを広義に受けとると、過去・現在・未来を阿弥陀仏を共有しているというか、同一感覚を持っているというような考え方がなりたつのか。
念仏を唱えることで、これらの同化が成し遂げられ、この間、なくなった叔母も、あるいは、祖父母も、同じ場所にいるような安心感、充足感が生じるのも事実ではあるが。
人は、やはり、極楽浄土で、蓮の花の上に赤ん坊の様な無垢の心で、化生して、仏になるために、往生を願う念仏を唱えるのだと思う。
「法然上人と現代社会」というテーマで論じるならば、たとえば、共生(ともいき)という考え方や男も女も貴賤上下なく平等とか、福祉(慈悲)という考え方、あるいは、浄土宗がグローバルな宗教として、日本よりもむしろ欧米で、「専修念仏」が見直されていること、あるいは、奈義山菩提寺の風景を映し、あるいは、そこにロケをして、鎌倉の昔と現代の時代の隔たりの中で、幼児の勢至丸の姿等をオーバーラップさせて感動的な終わりにして欲しかった。
やはり、この番組でも佛大での授業でも感銘を受けたのは、御消息にうかがわれる円光菩薩と呼ばれる法然上人の生の人間像、その飾らなく、実直な人柄の中に、やはり、阿弥陀仏につながる仏性・神性を宿しておられるという神秘的な側面(法然伝や絵巻に描かれた姿)とのかかわり等についても論じて欲しかった。
とにかく、法然を語るも今回で終了となり、第8回を除いてすべて視聴したが、いろいろと考えさせられることも多かった。
そういえば、サンテレビの「仏像大好」も飛鳥大仏と、中宮寺の菩薩像で最終回になってしまった。
今年は、平城遷都1300年ということで、こちらに話題がいってしまっている。「大仏開眼」というTVドラマがやっているがつまらないと思う。韓国のプロダクションで制作したら、きっと豪華絢爛で面白いものができたかも。
最終回は、法然上人と現代ということで、「還愚痴」という生き方と、現代社会での精神と身体の関係について、町田先生は、「現代人は身体と心が離れてしまっているので、なにやら満たされない生き方を強いられている。還愚痴とは、そういったこだわりを捨てて、素直に心と身体が生きたい様に生きれば、自ずから一体となり、過去への拘りも捨てて、阿弥陀如来と一体になったような充実感が得られる筈。」
つまり、極楽往生の為の念仏ではなくて、阿弥陀如来と一体になることを目指す姿勢であるという。
これは、町田先生の考え方なので、私は、やはり、極楽往生というものが存在し、その為のお念仏であると考えているので、その様な考えには賛同しかねる。そうでなければ、何も法蔵菩薩の四十八の本願等、どうでもよくなってしまうと思う。
大乗の教えには、過去・現代・過去の三世においてあらゆる生命は仏性を有して、時空を超えてつながっているという考え方もあるようで、それを広義に受けとると、過去・現在・未来を阿弥陀仏を共有しているというか、同一感覚を持っているというような考え方がなりたつのか。
念仏を唱えることで、これらの同化が成し遂げられ、この間、なくなった叔母も、あるいは、祖父母も、同じ場所にいるような安心感、充足感が生じるのも事実ではあるが。
人は、やはり、極楽浄土で、蓮の花の上に赤ん坊の様な無垢の心で、化生して、仏になるために、往生を願う念仏を唱えるのだと思う。
「法然上人と現代社会」というテーマで論じるならば、たとえば、共生(ともいき)という考え方や男も女も貴賤上下なく平等とか、福祉(慈悲)という考え方、あるいは、浄土宗がグローバルな宗教として、日本よりもむしろ欧米で、「専修念仏」が見直されていること、あるいは、奈義山菩提寺の風景を映し、あるいは、そこにロケをして、鎌倉の昔と現代の時代の隔たりの中で、幼児の勢至丸の姿等をオーバーラップさせて感動的な終わりにして欲しかった。
やはり、この番組でも佛大での授業でも感銘を受けたのは、御消息にうかがわれる円光菩薩と呼ばれる法然上人の生の人間像、その飾らなく、実直な人柄の中に、やはり、阿弥陀仏につながる仏性・神性を宿しておられるという神秘的な側面(法然伝や絵巻に描かれた姿)とのかかわり等についても論じて欲しかった。
とにかく、法然を語るも今回で終了となり、第8回を除いてすべて視聴したが、いろいろと考えさせられることも多かった。
そういえば、サンテレビの「仏像大好」も飛鳥大仏と、中宮寺の菩薩像で最終回になってしまった。
今年は、平城遷都1300年ということで、こちらに話題がいってしまっている。「大仏開眼」というTVドラマがやっているがつまらないと思う。韓国のプロダクションで制作したら、きっと豪華絢爛で面白いものができたかも。
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