河童の嘆き2010/07/31 20:41


 先日の河童忌では、この芥川龍之介の晩年の作品を読んだが、難解であった。

 この短編の原型という原話形は、日本の古典の数々の説話にみられる異境訪問譚であろう。

 つまり、古くは、古事記にみられる黄泉の国説話、あるいは、時代は下って、浦島太郎、あるいは、物語では、宇津保物語の俊陰等にみられる。

 説話の場合は異境訪問に、作家(説話にはもともと考えにくいことだが)の意図は、みられず、伝説、あるいは、民族の創意と呼ばれるものだろう。

 しかし、芥川が昭和時代を迎えた近代小説にこの様な手法をとったのは、やはり、それなりの意図があったろう。

 上高地から穂高に登山の途中に主人公は、河童の国に迷い込んでしまう。昏睡して倒れていた彼を河童の医者が丁寧に手当をする。そこは、人間世界の縮図さながらである。

 表現は、暗喩に満ちていて非常に判りづらいが、印象では、鳥獣戯画等の世界にみられる感じ。

 鳥獣戯画では、恐らくこの作品が書かれた古代から中世の転換期の世相が様々な暗喩をもってイコノグラフィアを構成している。

 公家の文化から武士の文化に移ろう中で、様々なおかしな社会現象が生まれた。旧来の秩序は失われ、あべこべの世界(武士が威張り、公家が従属する)が出現している。

 芥川の作品で、描かれた河童の世界は、大正時代というリベラリズムから、昭和という日露戦争時代に逆戻りのアナクロの世相の中で、希望を奪われた人間世界があたかも「水底の鏡」の様に映し出されていく、自由恋愛とフェミニズムは、河童の無邪気さとも捉えられるが、既に、この作品が描かれた時代は、それを自由に表現できない状況に変わりつつある。それを皮肉る為に河童の世界でもやはり言論弾圧が起きて河童の民衆の反感を得る描写も描かれる。

 芥川の描いた河童の世界の文体は非常に理解しづらい。読者は、譬喩・暗喩の連続なので、それぞれの言葉の裏の意味をつなぎ合わせて河童の世界像を組み立てていかねばならないのである。アナグラム的な表現さえもみられる。

 これとは対照的に、主人公が人間世界に戻ったところでは、平易な文章で表現されており、そこに水道の水を伝ってひょっこりと現れる河童の姿には、実像がなく影として描かれている。

 芥川の晩年の作品の文体のわかりにくさは、彼の初期・中期の作品とは対象的である。この文体の変化を彼の精神病(分裂症)の影響だとの見方もあるが、私は、それは間違っていると思う。

 言論弾圧が厳しさを増す中で、社会批評とか、時代の閉塞感と人間の絶望といったテーマをわかりやすく、直接的に表現出来る時代は、とうに去っていたのである。

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