ブルックナーが最後に思い描いていた音楽2008/03/23 23:40

 ブルックナー交響曲第9番ニ短調(補筆・再構成されたフィナーレ付き)
 ブルックナーが最後に未完成で残した交響曲第9番ニ短調のフィナーレを完成させたのがこのCDである。
 指揮者は、ヨハネス・ヴィルトナーで最近は、オペレッタ等の指揮者として若手ながらも頭角を現して来ている。地味なタイプだが、オーストリア出身であり、アメリカ的な指揮ではなく、伝統的なヨーロッパタイプの指揮法を手堅く見につけていることが演奏からも知れる。
 ブルックナーとは、どの様な作曲家だったのかとか作品等については、この私が以前、作成したWEBに挙げてある。
http://www.asahi-net.or.jp/~ZZ2T-FRY/bruckner1.htm
 交響曲第8番の第1稿(これも凄い版である。)を1887年に作曲を終えたのに、このままでは初演できないと拒否されたのですぐさま改訂作業を開始、ようやく第2稿を完成し、初演が大成功に終わる。更に第3番の第3稿に着手、更に更に第1番のウィーン稿と前作の改訂作業に追われ、1887年末には、スケッチに取りかかっていた交響曲第9番は、1894年ようやく第3楽章まで完成された。その後、体調を崩したりしている内に、1895年にフィナーレに着手したが、とうとう人生最後の日の午前中まで作曲を続けていたのが、午後にお茶を飲んだ後に気分が悪くなり、そのまま永眠。
 こうして、作品は、永遠に未完成のまま残された。机の上にバラバラに残された遺稿の大部分を組み合わせれば、殆ど完成に近い段階であったと言う。遺品を整理する段階で、遺稿は幾分散失の憂き目にあっている。
 断片のスケッチは、モーツアルトのレクイエムよりは遙かに多く、フラグメントというよりもオーケストレーションの段階までいっていた。
 マーラーの10番(クック補筆完成版)よりも幾分、情報の欠落が見られる程度といったのが本当の有様なのではないか。
 スケッチ断片については、ウィリアム・キャラガン補筆の完成版(ヨアフ・タルミ指揮オスロフィル)や近いところでは、アルノンクールがウィーンフィルと共に解説演奏したライブ版が残されている。アルノンクールが残された断片の演奏にとどまり、補筆版の演奏を避けたのは、私が後述する理由によるものだと思われる。
 主題の提示、展開部(壮大のフーガの作りかけ、これも一部欠落があるのではないかと見られるが、その様な指摘は論文を読む限りではされていない。)、主題の再現部へのブリッジの部分で一部欠落、主題の再現部の内、第3主題(テデウムの「御身に捧げ奉るだったか」その旋律にオブリガートが入ってくるところで中断)
 コーダについては、第1楽章の第1主題等を組み合わせたスケッチの断片が残されているが、最後までは書かれておらず、この部分は、補筆者の判断・創作によるしかない。
 フィナーレの構成は、序奏→第1主題の生成→経過句→第2主題→第2主題の展開と第3主題の生成(フガート)→経過句→主題の再現→壮大なコーダと言う、ソナタ形式とバロックの大フーガが合成された様な、第5番のフィナーレはフーガの単一楽章に近いが、これは、フーガがソナタ形式の壮大な世界の一部に組み込まれてしまったと言う、未曾有の壮大な規模の作品が出現する筈だったのだろう。
 残念な事に手元にファクシミリの断簡しかない(印刷譜でも良いのでフルスコアが喉から手が出る程欲しい。)が、マーラーの10番等のスケッチに比べて非常に難解である。これは、ブルックナーの作風が、パッチワークみたいな方法なのであるのが影響しているのか。
 補筆完成版は、私が記憶しているところでは、
①ロジェスト・ヴェンスキー指揮ソビエト文化省管弦楽団(サマーレ=マツーカ版?)
②タルミ指揮オスロフィル(ウィリアム・キャラガン版)
③エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団。(サマーレ・マツーカ版)
④クルト・アイヒホルン指揮リンツ・ブルックナー交響楽団。(サマーレ・マツーカ版に一部、フィリップス・コールスが手を加えた版)
⑤ヨハネス・ヴィルトナー指揮ウェストファリア・ニューフィルハーモニー(サマーレ・マツーカ版に一部、フィリップス・コールスが手を加えた版)
⑥これ以外に実演として、ワルター・ヘルヴェヘ指揮ロイヤル・フランダース管弦楽団のいずみホールでの実演を聞いている。
 演奏は、④と⑤は、版に差がないので、アイヒホルンかヴィルトナーの両者の解釈と指揮者の個性によるが、やはり、④の方がゆったりとしており、晩年のブルックナーの作品らしい響きを出している。⑤は、むしろ同じ調整を持った交響曲第3番に似た様なクール&クリアなソノリティがある。演奏としての完成度は、どちらもそれ程大差無い。ヘルヴェヘの場合は、レクイエム演奏の大家でもあり、もっと宗教的な響きを期待したが、⑤に近いものであった。
 ③は、同じサマーレ・マツーカによるものだが、音の厚味が足りず、コーダの部分も後年の版に比べて音の厚味が不足しており、些か、貧相な演奏だ。①も同様な傾向の上にロシア的な金管楽器があらゆる美観を犠牲にしている。
 サマーレ・マツーカ版の最大の長所は、コーダーが壮大な点である。
 最後にテ・デウムの音型が光背を帯びて輝く様に終わるのは、実に感動的である。しかし、ブルックナーの他の交響曲のコーダーは、全て、幾つかのリズム音型が核ととなり、和声で脚色される方法なので、こんな音楽学校の和声楽のテキストに書かれている様な和音が拡大する様な終わり方はしなかった筈だ。また、特に第3楽章で見られた不協和音がこのフィナーレでは全く出てこないのも不思議だし、気がかりな点である。
 不協和音が、人間的な苦しみを表すとすれば、フィナーレは、「神の世界」を描いているので、全ての和声が解決するという解釈になるのだろうか。私は違うと思う。残されていないフガートの中間部(展開部)で不協和音との闘争が描かれる筈だったのだと思う。
 また、音に厚味を加えすぎているところと極端に薄い部分のアンバランスが気になる。
 また、ティンパニーが複合拍子のリズムで叩かれるところがあるが、ブルックナーは、その様なリズム諸法を如何なる作品にも残しておらず、精々がトレモロ奏法によるべきだろう。ブルックナーは、あの保守的なウィーンフィルのティンパニー奏者を想定していたと思われるので、出来るだけ、難しい奏法は避けたと思われる。
 また、展開部のフガートも情報が欠落している為もあるが、例えば、バスをユニゾンでなぞるとか、交響曲第5番の諸法を使えば、かなり、厚味とスケールがあるのにと残念だ。実際には、この部分は、コーダ同様に補筆が必要であり、フガートは主題が終わって、オルゲルプンクト的な低音処理、やがて、それが、不協和音へと変わっていく。闘争の苦しみの中から、劇的な第3主題が混沌とした中から形成され、この新たな主題がフガートに組み合わさって声部が拡大、ゲネラルパウゼを経た後で、また、フガートの主題が戻って来て、更に第1主題へのアーチの部分につながるのだと思う。
 おそらく彼は、即興でオルガンを弾いていて、この部分が一番、手腕を示したかったので、最後まで、後半の部分を未完で残してしまった。作曲の秘密を人に知られたくなかったのかも知れない。(彼の頭の中には、恐らく、それは、素晴らしい完成されたフーガが響いていたのだろう。)

 こうした点を考えるとこの未完のフィナーレには、肝心な部分が書かれていないのかも知れない。

 ②のタルミ指揮オスロフィルは、ウィリアム・キャラガン版によるもので、これは、サマーレ・マツーカ達が入手していたファクシミリに比べて情報量は、更に少ない。半分想像(創作)で書き上げられたフィナーレである。それにしても1人の力でここまで最初の完成版を仕上げた努力は大変なものであったろう。演奏は、やはり、3番のフィナーレ風で響きは薄く速い。最初にこの補筆完成版を聞いた時にブルックナーの最後の交響曲として、こんな薄味の作品を期待していなかっただけに失望したが、同時に、「そうかも知れない」と思った。ブルックナーは、若い時に書いた1番や3番の改訂作業を行っていたので、創作にも影響を受けたのである。演奏の質は、ノルウェイのオーケストラとは思えない程高度なものである。響きの厚味と凄み、透明さを兼ね備えている。私は、朝比奈やクナの様な鈍重なブルックナーは好まない。シューリヒトの演奏の方が好きである。キャラガン版の場合は、テデウムの主題が出てくる後半のオブリガートの部分を何とか切り抜けた後で、交響曲第3番の様な「突進型」のコーダを作曲した。
 これは凄い!!テデウムの主題がトランペットで高らかに奏される。誰かの批評には、マーラーの交響曲の様なちぐはぐさを感じると書いてあったが、圧倒的な勝利の凱歌で終わる。また、第8番の第2楽章、第4楽章のフィナーレの付点リズムが複雑に組み合わされ、和声の終始法もブルックナーを良く研究している。キャラガン版を最も見直した方が良い。フガートの部分をブルックナー以外の作曲家が完成させる事は到底無理で、この作業と敢えて決別した潔さが補筆作品の成功に結びついている。