4分でカンコーヒー1杯分のコスト(生涯教育単価)2009/02/22 11:10

FZ28で撮影
最近は、カルチャースクールが活発となっている。私が昨年9月末まで在籍した佛教大学の教授である斎藤英喜先生のホームページにもさりげなくカルチャースクールの宣伝が掲載されている。

先生は、大学と離れたところでWEBを開設されているので、個人的な営業活動を行うことは自由である。
http://nopperi.at.infoseek.co.jp/room/saito-room.htm

今年の4月から大阪のNHK文化センター(大阪第4ビル24階)で、「日本神話の世界」が開講されるので、申し込むことも、考えたが、6回(1回当たり90分)で1万5750円で、1回当たりの単価は、約2600円、1分当たりの単価は、30円となる。

4分でカンコーヒーが1本飲める計算となる。また、安物の立ち飲みで1回消費されるコスト(ビール1本、お湯割り2杯、アテ2点)とほぼ同等である。

佛教大学に学士入学して、スクーリングの1年当たりの科目数は、約16科目、1科目当たり9000円で、9コマ(たしか70分1コマ)であったと思う。

単価を計算してみると、授業料が約15万円、スクーリング代が、14万4000円、雑費等を含めて年間30万円。私の様に人文学科の単位を全部修得した場合には、テキスト履修はただ単にお金を払うだけ(単位認定はされない)なので純粋にスクーリング代にこれだけコストがかかると計算して、1コマ当たりの単価は、2100円程度となる。1分当たりでは、30円。

「ああ、よく計算されているなぁ~」で、カルチャースクールや大学の講座の1分当たりの単価は、30円で計算出来る。

これは、佛教大学の通信(人文系)に学士入学した場合にかかってくるコストであり、実際には、スクーリング以外にテキスト履修(テキストは自弁)、単位認定試験の受験と会場使用料等、佛大通信等の補助教材費も含まれているので、単価は下がってくる。

大学院のスクーリングの費用は、年々上昇しており、私の時は、たしか1単位当たりの単価が4000円だったのが今では3倍以上に上昇している。(専門的なので、それだけコストがかかるという計算なのだろう。)

つまり、テキスト履修科目及びスクーリング科目を全て生涯教育講座として見なすと、30円よりは単価は下がってくる計算となる。

佛教大学には、四条センターがある。あそこでは、1日1科目受講毎に1回千円の受講券を券売機で購入して受講する。(まるで、安物の散髪屋さんみたい。)

時間は、90分位なので、1分当たり単価は、10円強と非常に安い。

もっと安いのは、公共図書館及び図書館の講座の利用、府県等の公共自治体が運営する講座、あるいは、大学の公開講座等で、原則無料である。私が受講している京都e-Learning塾も無料である。

内容は、「やはり、ただやから仕方がないなぁ。」といったものから、カルチャー教室よりも内容が面白いもの等様々で良いものに当たると凄くお得である。

本等を自分で購入して自学する場合のコストについて考えていると、専門書が一冊当たり安い物で3000円、私の場合は、電車読書で1日、2時間とすると、週5日計算で10時間、1分当たりの単価は、5円である。しかし、それは、指導を受けないので、ロスが大きいので、やはり10円前後と計算しておいた方が無難だろう。

こうして考えると、結構、お得なのは、佛教大学四条センターの講座で、一般の方でも自由に冷暖房空調が効いた教室で受講が可能。講義が終わると、三井物産ビルの地下でお酒を飲んだり出来るので楽しい。(お酒代の方が高かったりして。)

ついでに、お得なのは、意外と、佛教大学の通信本科生(3回生編入)だろう。スクーリング単価だけだとカルチャースクールと変わらないが、例えば、国立博物館の自由観覧、細見美術館無料利用、図書館の利用(地方在住者には、実費での送本サービス有りで、近頃はやりのインターネットでのビデオレンタルに近い)、学友会行事に参加すれば、カルチャースクールで2日分の単価、すなわち5千円以上のコストが浮く計算になる。

どれがお得なのか、それは、個々のライフスタイルにもよるが、カルチャースクールで高いお金を払う位ならば、もっとコストを下げる工夫をした方が良いカモ。


写真は、火縄銃(岡山城で撮影、カメラは、FZ28)

人生の終焉2009/02/22 15:57

 生涯教育のコストの話を書いていて、大学院時代に黒田先生の講義を受けたことを思いだした。

 それ以来、孝子伝の図像、資料を収集し続けている。図は、京都大学蔵の船橋本孝子伝と陽明本孝子伝の翻刻本文である。(孝子伝注解、下は、後漢時代の画象石で、老莱之に相当する部分だという。)
 
 図と本文は、老莱之という人の話だが、年齢が90歳なのに父母がいるという。
(なんで、こんなに年をとっているのに両親が健在なんだろう。不思議だなと思っていると。」
「常に嬰児となり、自ら戯れて以て親の心を喜ばしむ」
(子泣き爺の様に赤ん坊のふりをして、親を面白がらせることで、どうして、長生き出来るんだろう。)
「父母在りては言に老を称せず。」
(子供が何時までも幼いので、両親も自分たちが年を経たことに気がつかないのである。)

 まるで私の家の様だ。私は、50歳近いが自立出来ず、赤ん坊の様なパラサイターである。親は、自分たちが年を経ていることに気がつかない。
 いいや、そんな風に行かないのが、孝子伝と異なることで、経済力もない、独身の息子が老いて体調が悪くなった両親の面倒をみることが出来ない事態がやって来ようとしている。

 生涯教育というのは、年代によって考えることが変わってくるのだと思う。通信の大学院に入って、黒田先生の教えを受けることが出来たのは幸いだったが、残念ながら、その時は、老両親の介護とかそういったことは、思いもよらなかったが、今になれば、こういった話に興味が向く様になっている。老いた両親の介護で、趣味を活発に団体活動を含めて活発にやっていた人が、殆ど姿を見せなくなったりする。

 ライフステージ、それは、すなわち、①学歴学位取得→②ちゃんとした就職→③結婚→子供→④家→⑤老両親の介護と看取り→⑥老後の生活設計の流れの⑤と⑥がいきなり私の身にのしかかろうとしている。

 人生の試練・難関の中で、相当大きいものだと思う。老両親の介護を通じて、自らの人生の終焉・死と向き合う様になる過程でもある。

マートンのアノミー論の検証(自殺率との時系列での関係)2009/02/22 16:19

 社会の絶望的な状況が、アノミー的状況に結びついていく

 図は、佛教大学通信教育の応用社会学科で、苦心して、僅か1週間で書かなければならなかった基礎社会病理学のレポートである。
 佛大では、スクーリングレポートは、終了日から10日以内、提出しないと単位が貰えない。
 これは、実は、スクーリングよりも難関である。

 それは、ともかく、自殺の研究は、私にとって、ディルケムやマートンの著作について興味を持つきっかけにとなった。
 結局、社会状況の変化が自殺の増加には、密接な関わりをみせているが、果たして、その因果関係をどの様に実証していけば良いのだろうか。
 失業率、犯罪の発生率変化の2要素に自殺率の変化と比較して、時間軸のズレに気がついた。
 これがマートンのアノミー論の検証につながっていくのである。
 自殺の増加というのは、そのまま社会状況が悪くなるから増えるというのでは、なくて、「これから深刻な社会、経済的不安が起こる。」という時系列の位置上に現れてくるのである。
 これから数年間について、どの様なデータを収集し、サンプリングを行っていくことで貴重な学術データを得ることが出来るかもしれない。