人生の終焉2009/02/22 15:57

 生涯教育のコストの話を書いていて、大学院時代に黒田先生の講義を受けたことを思いだした。

 それ以来、孝子伝の図像、資料を収集し続けている。図は、京都大学蔵の船橋本孝子伝と陽明本孝子伝の翻刻本文である。(孝子伝注解、下は、後漢時代の画象石で、老莱之に相当する部分だという。)
 
 図と本文は、老莱之という人の話だが、年齢が90歳なのに父母がいるという。
(なんで、こんなに年をとっているのに両親が健在なんだろう。不思議だなと思っていると。」
「常に嬰児となり、自ら戯れて以て親の心を喜ばしむ」
(子泣き爺の様に赤ん坊のふりをして、親を面白がらせることで、どうして、長生き出来るんだろう。)
「父母在りては言に老を称せず。」
(子供が何時までも幼いので、両親も自分たちが年を経たことに気がつかないのである。)

 まるで私の家の様だ。私は、50歳近いが自立出来ず、赤ん坊の様なパラサイターである。親は、自分たちが年を経ていることに気がつかない。
 いいや、そんな風に行かないのが、孝子伝と異なることで、経済力もない、独身の息子が老いて体調が悪くなった両親の面倒をみることが出来ない事態がやって来ようとしている。

 生涯教育というのは、年代によって考えることが変わってくるのだと思う。通信の大学院に入って、黒田先生の教えを受けることが出来たのは幸いだったが、残念ながら、その時は、老両親の介護とかそういったことは、思いもよらなかったが、今になれば、こういった話に興味が向く様になっている。老いた両親の介護で、趣味を活発に団体活動を含めて活発にやっていた人が、殆ど姿を見せなくなったりする。

 ライフステージ、それは、すなわち、①学歴学位取得→②ちゃんとした就職→③結婚→子供→④家→⑤老両親の介護と看取り→⑥老後の生活設計の流れの⑤と⑥がいきなり私の身にのしかかろうとしている。

 人生の試練・難関の中で、相当大きいものだと思う。老両親の介護を通じて、自らの人生の終焉・死と向き合う様になる過程でもある。

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