とうとう壊れてしまった ― 2006/07/06 09:00
世間、一般の人達は、屋外でメールしたり、WEBをみたりするのにどの様な機器を使っているのだろうか。
自分の場合、携帯は持っているが、Iモード料金が高い上に、携帯専用のWEBしか見る事が出来ないので、モバイル端末を愛用して来た。ウィンドウズCEのOSが入ったカシオペアシリーズは、最初の機種から使って来て、昨日まで、カシオペアBE-500と言う機種をこの4年間使い続けて来た。これに、コンパクトフラッシュのインターフェースに挿入して使用するウィルコムのPHSを組み合わせて使用している。固定料金なので、インターネットは使い放題だし、ノートパソコンにも利用できるので、通信速度は遅いものの、手放せない通信環境だと思う。
昨日、喫茶店で、BE-500を鞄から出してみて唖然とした。液晶が見事に砕け散っている。割れた面を見ると液晶パネルの薄い事!その前にカバーが破損して裸で鞄に入れていたのだが、これ程、液晶パネルがもろいものだと思わなかった。
BE-500は、とうに開発元のCASIOにも見捨てられた可哀想な製品だが、出先でのメールのやりとりや、WEB閲覧、そして、OUTLOOKと連動したスケジュール管理に活躍して来た。値段の割に役に立ち、バッテリーが使えなくなった最近では、外部のポータブル電源を接続して、使い続けて来た愛機である。
こうして、モバイル環境を失った私は、途方に暮れている。ヨドバシの店員に聞くと、この様な端末は、現在、殆ど利用者がないらしい。ウィルコムの例の機種とザウルスしかないと言うが、どちらもハードの価格は、高価である。BE-500は、たしか2万円位で購ったと思うが、その倍以上の値段を出しても使用できる機能は変わらないので、結局、BE-500を修理するか、中古品を探す以外に方法はないようだ。
自分の場合、携帯は持っているが、Iモード料金が高い上に、携帯専用のWEBしか見る事が出来ないので、モバイル端末を愛用して来た。ウィンドウズCEのOSが入ったカシオペアシリーズは、最初の機種から使って来て、昨日まで、カシオペアBE-500と言う機種をこの4年間使い続けて来た。これに、コンパクトフラッシュのインターフェースに挿入して使用するウィルコムのPHSを組み合わせて使用している。固定料金なので、インターネットは使い放題だし、ノートパソコンにも利用できるので、通信速度は遅いものの、手放せない通信環境だと思う。
昨日、喫茶店で、BE-500を鞄から出してみて唖然とした。液晶が見事に砕け散っている。割れた面を見ると液晶パネルの薄い事!その前にカバーが破損して裸で鞄に入れていたのだが、これ程、液晶パネルがもろいものだと思わなかった。
BE-500は、とうに開発元のCASIOにも見捨てられた可哀想な製品だが、出先でのメールのやりとりや、WEB閲覧、そして、OUTLOOKと連動したスケジュール管理に活躍して来た。値段の割に役に立ち、バッテリーが使えなくなった最近では、外部のポータブル電源を接続して、使い続けて来た愛機である。
こうして、モバイル環境を失った私は、途方に暮れている。ヨドバシの店員に聞くと、この様な端末は、現在、殆ど利用者がないらしい。ウィルコムの例の機種とザウルスしかないと言うが、どちらもハードの価格は、高価である。BE-500は、たしか2万円位で購ったと思うが、その倍以上の値段を出しても使用できる機能は変わらないので、結局、BE-500を修理するか、中古品を探す以外に方法はないようだ。
自分自身とのコミュニケーション ― 2006/07/06 19:47

前回書いた社会学に関する文章で、「自己と他者」で認識されるユニバースと言う文章を書いたが、例えば、コミュニケーション障害の場合にはどうなるのだろうか。
この件について佛教大学の臨床社会学のスクーリングで、幼い頃に重い病気を患って、母親を通してしかコミュニケーションが出来ない少女のケースが取り上げられた。
この少女(ユキという)にとって「病」そのものがシンボル化されて、更に、このシンボルを通してようやく母親とコミュニケーションが成り立ち、更に、母親を通して家族→外界との接触がようやく成り立っている。
健常者に比べて非常狭い閉ざされた世界である。しかし、少女の世界は、この限られたコミュニケーションを通して維持されている。
閉鎖的なコミュニケーション環境の中で、少女は、自己を映す鏡(心の中で)に写った「自分」との対話(内的なコミュニケーション)を行い、結局、自己憎悪と言った状況を産み出してしまう。
少女の心の中は、①愛と融合への欲求、②コミュニケーション阻害(母親)への憎しみ、③自己への嫌悪感で満たされている。
少女の愛と融合への欲求を満たしてくれるものは、音楽・概念化された自然の安らぎしかない。(図参照)
スクーリングでは、ユキをどうすれば、救い出せるのか言った事が話し合われたと記憶しているが、結局、結論は出せず、ディベートに終わってしまった。
興味深いのは、人は、コミュニケーションが決定的に阻害されても、限られた外的情報から、あらゆるものを感じ取ろうとし、それを元に自己像を作り上げ、自分自身とのコミュニケーションを通じて世界を認識する点である。
これは、普通の人でも同様で、社会からの役割期待に応えている自分を常に思い浮かべ、外界への行動やコミュニケーション、更にそのフィードバックへの対応をシミュレートしている訳である。
この点が、前回とりあげたロボットの場合と異なる点であると思う。ロボットには、この様な自己像を築く事は出来ないだろう。
参考文献:『ユキの日記 病める少女の20年』 みすず書房 笠原嘉編
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