自分自身とのコミュニケーション2006/07/06 19:47


前回書いた社会学に関する文章で、「自己と他者」で認識されるユニバースと言う文章を書いたが、例えば、コミュニケーション障害の場合にはどうなるのだろうか。

この件について佛教大学の臨床社会学のスクーリングで、幼い頃に重い病気を患って、母親を通してしかコミュニケーションが出来ない少女のケースが取り上げられた。

この少女(ユキという)にとって「病」そのものがシンボル化されて、更に、このシンボルを通してようやく母親とコミュニケーションが成り立ち、更に、母親を通して家族→外界との接触がようやく成り立っている。

健常者に比べて非常狭い閉ざされた世界である。しかし、少女の世界は、この限られたコミュニケーションを通して維持されている。

閉鎖的なコミュニケーション環境の中で、少女は、自己を映す鏡(心の中で)に写った「自分」との対話(内的なコミュニケーション)を行い、結局、自己憎悪と言った状況を産み出してしまう。

少女の心の中は、①愛と融合への欲求、②コミュニケーション阻害(母親)への憎しみ、③自己への嫌悪感で満たされている。

少女の愛と融合への欲求を満たしてくれるものは、音楽・概念化された自然の安らぎしかない。(図参照)

スクーリングでは、ユキをどうすれば、救い出せるのか言った事が話し合われたと記憶しているが、結局、結論は出せず、ディベートに終わってしまった。

興味深いのは、人は、コミュニケーションが決定的に阻害されても、限られた外的情報から、あらゆるものを感じ取ろうとし、それを元に自己像を作り上げ、自分自身とのコミュニケーションを通じて世界を認識する点である。

これは、普通の人でも同様で、社会からの役割期待に応えている自分を常に思い浮かべ、外界への行動やコミュニケーション、更にそのフィードバックへの対応をシミュレートしている訳である。

この点が、前回とりあげたロボットの場合と異なる点であると思う。ロボットには、この様な自己像を築く事は出来ないだろう。

参考文献:『ユキの日記 病める少女の20年』 みすず書房 笠原嘉編

コメント

トラックバック