ブーちゃんカメラの完成!2008/07/20 17:20

 ボディーにガンメタルのプラカラーを塗装したが、むしろ汚くなってしまって失敗。
 もともとのEXEMODE210に内蔵されていたファイダーを上部につけた。これもプラパテで接合したが、パララックス補正等結構、苦労した。
 右下、ウルトラワイドヘリアーをBESSA-Rに装着したところ。ライカスタンダードの方がキマルと思ったが、なんと広角専用ファインダーがスタンダードの本来のファインダーと干渉して使えない。(はずせるのだが面倒くさい)
 作例は、右上はウルトラワイドヘリアーで撮影。右下は、ELMAR50㎜での望遠撮影。
 ピントが目測なので何枚も失敗してしまうのが難点。
 まぁ、自分だけのデジカメというのが出来た様な感じがするが、出来てしまえば、こんなものかなーという感じ。

ナラトロジーとディスクールの関係2008/07/20 22:36

 今日の暑い午後は、ナラトロジーとディスクールの関係について、なんとなくずっと考え続けていた。
 というのは、先日の深沢先生の四条センターでの講演で、言語コミュニケーションと声の質的位相(声の大きさ、性質、表情)が話し手と聞き手の距離によって異なる話を聞いて、自分の卒論でも取りあげた「源氏物語音読論」と少し関係があるかなと思ったからだ。

 ①近くの相手に伝える声の表情は単調だが、印象的で記憶に残りやすいという。
 ②中くらいの距離の声は、聞き取りやすく、自然の表情を伝えやすい。また、話の内容 から色々なイメージを浮かべやすい。
 ③遠くからの相手に伝える場合は、当然、声を届かせる為に大きな叫ぶ声になりがち、 それも1つの煽動効果等がある。

 私は玉上先生の源氏物語音読論を取りあげる傍らで、『国宝源氏物語絵巻』は、もともとは、絵巻物として制作されておらず、言葉を書いた原稿と絵画の部分は、別冊になっており、絵巻の東屋の構図を見た限りでは、②の位置関係で、姫君に物語を読み聞かせている。

 また、深沢先生の講演で次に興味を持ったのは、相手の顔が見える時とそうでない時には、心理的な効果の違いから、話し方、語り方も変わる聞き手も心理も変わってくるという点である。

 昨日の実験で感じたことは、相手の顔が見えないのに話しかけてくる場合は、凄く緊張して、神経をかなり集中させる点である。この時、ワッと脅かしたら、心臓麻痺を起こす位驚いたかも知れない。

 また、相手の顔が見えないので、話の内容に集中しやすいだろう。

 図は、源氏物語の絵画的側面から見た、ナラトロジーとディスクールの構造を図式化したものである。

 ディスクールには、叙述のみならず、絵冊子付き作品であれば、その絵画の部分も含まれる。

 源氏物語のナラトロジーの構造は非常に複雑なものだがここでは、簡略にしてある。

 その最大の特徴は、ディスクールの中に、ナラトロジーが埋没していることである。更に、合わせ鏡を見る様に、過去の話や発話内容、手紙等では、ナラトロジーが重層的な構造を持つ場合もある。

 伊勢物語や大和物語、その他の源氏物語より規模が小さい作品では、この様な複雑な構造を持つことはない。

 視点導入の文章もディスクールの中で、特にナラトロジーの部分に含まれていると考えられる。

 源氏物語の作品としての享受(演奏)が、再現性を持たずに1回性の場合は、「作品の音読・朗読(媒介者)は必要なく、直接、絵を見ながら、ナラトロジー自身(作者自身の語り)に従って、構図に描かれている視点・視線を追体験すれば、それでディスクールが理解出来る。

 しかし、源氏物語は、その後、何度も繰り返し再生されることが目的に制作され、ナラトロジーは、文章として記述されているので、その場合、作品の朗読・音読者は、ディスクールの中のナラトロジーの「ヨリシロ」(音声再生者)としての役割を演じる必要がある。

 ヨリシロは、自分の「カオ」を消すか、全く違う「仮面」を被らなければならない。

 当日、拝見した深沢先生の「カオ」は、①講演の前に挨拶した時、②講師として、③朗読者としての「カオ」を使い分けられていた。

 万葉集の世界を表現しようとしている「カオ」がこれまでみたことないような遠くから来たマレビトの様な印象があった。
 
 神聖な存在の「ヨリシロ」としての「仮面性」は重要だ。

 だから東屋の巻では、朗読者の視線は、決して、絵に見入っている姫君には、向かないことに注意したい。

 ところが、「絵巻・絵画」は、図の様に、作品の朗読者・ヨリシロ、ナラトロジーを超越して、作品のディスクールの直接、融合している。

 つまり、物語の作者が目にしていたのと同じか、もしくは、意図とした映像がここには描かれている。

  つまり、源氏物語が、「作り物語」として、ディスクールとナラトロジーをヨリシロを媒介して、何度も再生可能なメディアとしての役割を発揮するには、「絵巻・絵画」が必須条件だった。

  ところで、特徴ある一見無表情に見える引目鈎鼻の人物描写は、何故だろうか。

 それは、作品の人物の表情に位相を持たせてしまえば、この「超越した仮面性」の特質を失ってしまうからだ。

 これは、アジアで様々な宗教的な演劇や影絵等の演技でも、登場人物の表情が一つの仮面性を持って演じられている点と共通する。
  『源氏物語絵巻』を音読と鑑賞は、ある種の宗教的な儀式性を持っていたと考えたい。
 
 源氏物語も、概ね深沢先生の②の距離から、「仮面性」を持って、聞き手に話しかけることを前提に、視覚的な場面表現の文章が叙述されているのだと思う。

 こうして、源氏物語の場面に何故、視点導入の文章が多いのか一つの謎が解けたような気がする。

 もし、源氏物語が、定家本や河内本以降の時代の様に、本文だけを読む享受方法で制作されたなら、綿密な視点導入の文章に拘る必要は無いし、ナラトロジーの部分もこの様な複雑な構造である必要はなかったろう。

 例えば、渋澤龍彦氏の「空飛ぶ大納言」という小説がある。(ちくま日本文学18巻)

 ここでは、かなり視覚効果がある様な場面が描かれるが、視点導入効果を持つ叙述は行われていない。

 また、中世に擬古的な物語が幾つか描かれ、視点導入風な文章も見られるが、既に、本質的な意味も失われている。

 この様な源氏物語享受の中で、混乱を見せてくるのが、大島本等青表紙系の諸本で例えば、夢浮橋の末尾の部分等の諸本でかなり異同が見られるのは、源氏物語が音読、絵画鑑賞という本質を失い、黙読中心になっていった為にナラトロジーの本来の意味が理解されなくなったことが影響しているのだろう。

 室町末期の三条西家の日記等を見ると、お正月等に初音の巻等を音読したり、あるいは、幾つかの写本には、音読する場合の区切りや声点等の書き入れがあるが、元々平安時代後半に源氏物語制作された時代の鑑賞形態を採っていたとは考えがたいと思うがどうだろうか。