平安末期の源氏物語絵巻詞書本文と似ているなー2008/07/21 21:19

 国文学研究資料館の伊井春樹教授が発表した鎌倉期の源氏物語写本である「大沢本」が発見されたというニュースに、この暑さも吹っ飛んだ。早速、インターネット検索してみると
http://www.asahi.com/culture/update/0721/TKY200807210222.html
で報道されており、本文の内容が判読出来る写真も公開されていたので、早速、手元の源氏物語大成(大島本底本)及び私が現在、作成を進めている源氏物語本文データベースと照合して解読を進めた。
 僅か1時間位で急いで読み進んだので、間違いもあるかも知れないが、次の通り解読出来た。

人にものかたりなとし給
かくまいり「A①なれきこえ」うけ給へる
事の「②としころといふへくなり
にける」こよなくものとをて
もてなさせ給うらめしさを
なむかかるみすのまへにて人つ
ての御せうそくほのかにきこへ
つたふる事よまたこそならはね
いかにふるめかしきさまに人々
ほほゑみ給らんなとはしたなく
なんよはひつもらすかるらかなり
しほとにほのすきたるかたにをもな
れ「③なるかは」か「B④うゐうゐしくは」おほ
えさらまし。さらにかくすくすくしく
をれてとしふる人は「⑤よに」たくひ
あらしかしとてけにあなつり
にく「⑥し」さまし給へれはされはよと
「⑦けに」になかなか「⑧の」御いらへきこえいて
む「⑨に」はつかしくつきしろ「⑩に」
かかる御うれへきこしめししらぬ
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なんかたち心地はせかとありて「Cみな
いとすくれたりける」三の君二ら
うきみはひんかしのをととにそ「とり
わき」かしつき給院も「こと(異)より」み
なれ給ていとらうたくしたまふ
この御なからひのこといひやるかた
なし(なにはの浦に)

 上段が、見開きの写真が載っている写真で下段は、巻末の「なにはの浦に」との書き入れがある本文である。いずれも少し、源氏物語を読んだことがある人であれば一目瞭然だと思うが夕霧巻である。写本と同じ改行を施してあり、判読出来た漢字の部分はその様に改めてある。踊り字は、書き改めてある。
 A、B、Cの異文はたしかに別本系の陽明文庫本、國冬本、保坂家本等と共通する異文である。
 伊井教授は、別本系と分類されたが、その様に分類するには、あまりにも独自異文が多い。
 ということは、別本系の祖本となった本の影響を確かに多く受けているが、別本系のどの系統の本文か位置づけるには、相当、困難な作業を伴うと思われる。つまり、かなり、系統の異なった本文が混雑している可能性がある。
 私の研究で国宝源氏物語絵巻の詞書を校合して分類したが、それによるとやはり別本系の保坂家本、國冬本、横山家本等との類似点を見いだしたが、どの系統の本だと位置づけるには、更に調査しなければならない。
 しかし、興味深いのは、少なくとも平安末期・院政期の本文と極めて類似した性質を持っていることがこのサンプルの研究で明らかになった点である。大沢本を含めて、別本系の本文を更に系統・分類を行えば、平安末期から鎌倉初期にかけて、つまり、青表紙・河内本が生まれる前の源氏物語の本文に遡れる可能性がある。
 今回、大沢本の写本の写真が発表されたが、これによると、やはり、升形本の形態であり、京都文化博物館での千年紀展に展示された保坂本と比べて華麗・豪華な装幀だが、形態は非常に似ている。これが、源氏物語本文の本来の姿なのだと思う。
 定家によって植え付けられた源氏物語本文の先入観を一度、ぬぐい去って、客観的にデータ解析に取り組むことが研究の成功につながると思う。

◎なにはの浦にの書き入れについての見解

 「なにはの浦に」の書き入れが何を意味するのかは、判然としない。

 当該箇所は、夕霧巻の締めくくりとして、子孫の繁栄を思わせる叙述となっている。

 夕霧の父親である光源氏の子孫繁栄という考え方で見れば、澪標巻の難波の浦の表現が注目される。

澪標巻
「難波の御祓などことによそほしう仕まつる。堀江のわたりを御覧じて、「いまはた同じ難波なる」と、御心にもあらでうち誦じたまへるを、御車のもと近き惟光うけたまはりやしつらむ、さる召しもやと例にならひて懐に設けたる柄短き筆など、御車とどむる所にて奉れり。をかしと思して、畳紙に、
 (源氏)みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しなとてたまへれば、かしこの心知れる下人してやりけり。駒並めてうち過ぎたまふにも心のみ動くに、露ばかりなれど、いとあはれにかたじけなくおぼえてうち泣きぬ。
(明石)数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ田蓑の島に禊仕うまつる御祓のものにつけて奉る。日暮れ方になりゆく。
 つまり、この大沢本の書写者もしくは、この本の所有者が、光源氏の子孫の繁栄につながる話末表現の叙述として澪標巻を想起し、まめ男夕霧の子供が反映する有様をオーバーラップしようとしたのだと思う。
 源氏物語では、「難波の浦」は、子孫繁栄の象徴としての大きな意義があるからだ。
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追補:後の調査で、これは、梅枝巻で、明石中宮の入内準備の折、草紙の執筆を行うことになり、仮名論議となる部分に、難波の浦の記述が見つかった。こちらを採る方がより妥当な解釈だと考えられる。
 以下は、その部分の概略である。

 光源氏の柏木の筆跡への批評は、「ことことしうかしこげなる筋をのみ好みて書きたれど、筆の掟て澄まぬ心地して、いたはり加へたるけしきなり。歌なども、ことさらめきて、選り書きたり・・・・」と批評される。

 その後、息子の宰相中将(夕霧)の筆跡については、「宰相中将のは、水の勢ひ豊に書きなし、そそけたる葦の生ひざまなど、難波の浦に通ひて、こなたかなたいきまじりて、いたう澄みたるところあり。また、いといかめしう、ひきかへて、文字やう、石などのたたずまひ、好み書きたまへる枚もあめり。」
 との評価を受ける。ここであの悲劇的な生涯の終わり方をする柏木と末永く生き続ける夕霧の性格が筆跡にも表れていることが指摘される。

 そして、夕霧に自身の結婚について光源氏は教訓を話す。

 その後、夕霧と雲井雁との馴れ初めの場面へとつながっていくのである。

  夕霧巻では、夕霧と落葉宮との浮気について描かれるが、それは、夕霧と雲井雁の「御なからひのこと」についての言及である。

 「なにはの浦に」という一節を持って来て話末表現としたとなれば、首肯できる。
 そうなれば、これまで発見されていない違った夕霧巻の話末表現形式となり、注目される。