考古学はもっとも面白い学問の筈なんだが・・・ ― 2008/10/12 22:17
『文学のなかの考古学』(門田誠一著 思文閣出版)
 
鷹峰文化叢書というシリーズで卒業記念品に全員がもらう本である。
前回の卒業の時にもらった中国文学の本は積ん読になってしまっている。
その前の卒業の時にもらった近世史の本は、かなり面白かった。特に蹴鞠が文人達に愛好されていたのを初めて知って感動した。
今回は、『文学のなかの考古学』という本で私の興味がある分野なので、早速、もらった直後から読み始めて、先週初めに読み終えた。
印象としては、「折角の考古学の本なのに、退屈やなー」と思う。
この先生による考古学概論等のテキスト『海でむすばれた人々』を読んでも判る様に、考古学そのものというよりも、「考古学論」といったもので実体性が乏しい。
例えば、1つの遺跡についても考古学者であれば、1つ1つの細かな遺物や計測、科学調査のデータそのものについて興味を持つが、この人の場合は、違う、「こういった古代地域文化が想定される中で、この様な遺跡が存在する。」ということで、「遺跡(遺物)が存在する」すること自体に意義を感じているらしい。
また、体系的分類や構造化といった考え方とは離れており、並列、羅列的である。
今回は、「万葉集」から「膝栗毛」までの古典と遺跡の関連について書かれたエッセイを並べている訳で、古典の中にも見る日本人の精神構造の発展史と遺跡との関係とか民俗と大系といったものとは無縁で、ただ単に時代順に並べられているだけである。
また、古典の読み方も表面的であり、例えば、時代別ならば、古典を人間の婚姻関係に焦点を当てて読み解き、それに纏わる考古学遺跡や遺物との関連性を時代的経過を持って検証を加えるといった方法ではなくて、古典作品の事物中心で、袖中抄等私が論文で取りあげたマイナーな作品も見ているが、やはり、読み方が事例的であり、その文学思想の根底には何があるのか、その基盤となる思想や思考と考古学遺物との関連性はといった様な扱い方ではなくて、単なる博物学的な羅列である。
竈神の祭祀についても触れているが、これも、先日、源氏物語にも同様な竈神の民俗学的な要素を発見したという論文を読んで感心したが、もっと古典作品から捜せばいくらでも用例が発見出来るだろう。
その点、水戸光圀等の江戸時代の史学・考古学に逆戻りした様な、ただ、時代が現代であるだけの様な退屈さを感じる。江戸時代にも博物史的な本もある。『西鶴諸国はなし』は、特に面白い。情報量が圧倒的に多いからで、『文学のなかの考古学』が最も面白くなるのは、もっと情報量が多く辞典等としてまとめられた時だと思う。
一番の難点は、語彙的考察が成されていないことである。伝統的な研究法では、まず、考古学にも出てくる様な事物を万葉、風土記まで遡るのであるならば、和名抄や色葉字類抄等を引くべきだろう。
実は、この様な先生の考え方や方法論を御著書で知って、私は佛教大学の地域文化コースへ再入学するのを断念した。
やはり、考古学は、実際に発掘しないのであれば、図面や写真を重視し、取りあげて遺跡については、読者の興味を喚起させる程度の最小限の情報を良い品質で紹介すべきだと思う。
例えば276頁の上郷岡原遺跡の平面図が紹介されていたが、やはり、火山性災害で瞬時に生まれた状況を再現するには、人骨や異物の写真や、あるいは、図面では、火山灰層の堆積状況を示す断面図を載せるべきだと思った。
古典や海を越えた民族の交流を云々する前に、身近な1つ1つの遺跡の微細な遺物にも、重要な秘密を解き明かすヒントが含まれていること等を学生に教えて欲しい。
鷹峰文化叢書というシリーズで卒業記念品に全員がもらう本である。
前回の卒業の時にもらった中国文学の本は積ん読になってしまっている。
その前の卒業の時にもらった近世史の本は、かなり面白かった。特に蹴鞠が文人達に愛好されていたのを初めて知って感動した。
今回は、『文学のなかの考古学』という本で私の興味がある分野なので、早速、もらった直後から読み始めて、先週初めに読み終えた。
印象としては、「折角の考古学の本なのに、退屈やなー」と思う。
この先生による考古学概論等のテキスト『海でむすばれた人々』を読んでも判る様に、考古学そのものというよりも、「考古学論」といったもので実体性が乏しい。
例えば、1つの遺跡についても考古学者であれば、1つ1つの細かな遺物や計測、科学調査のデータそのものについて興味を持つが、この人の場合は、違う、「こういった古代地域文化が想定される中で、この様な遺跡が存在する。」ということで、「遺跡(遺物)が存在する」すること自体に意義を感じているらしい。
また、体系的分類や構造化といった考え方とは離れており、並列、羅列的である。
今回は、「万葉集」から「膝栗毛」までの古典と遺跡の関連について書かれたエッセイを並べている訳で、古典の中にも見る日本人の精神構造の発展史と遺跡との関係とか民俗と大系といったものとは無縁で、ただ単に時代順に並べられているだけである。
また、古典の読み方も表面的であり、例えば、時代別ならば、古典を人間の婚姻関係に焦点を当てて読み解き、それに纏わる考古学遺跡や遺物との関連性を時代的経過を持って検証を加えるといった方法ではなくて、古典作品の事物中心で、袖中抄等私が論文で取りあげたマイナーな作品も見ているが、やはり、読み方が事例的であり、その文学思想の根底には何があるのか、その基盤となる思想や思考と考古学遺物との関連性はといった様な扱い方ではなくて、単なる博物学的な羅列である。
竈神の祭祀についても触れているが、これも、先日、源氏物語にも同様な竈神の民俗学的な要素を発見したという論文を読んで感心したが、もっと古典作品から捜せばいくらでも用例が発見出来るだろう。
その点、水戸光圀等の江戸時代の史学・考古学に逆戻りした様な、ただ、時代が現代であるだけの様な退屈さを感じる。江戸時代にも博物史的な本もある。『西鶴諸国はなし』は、特に面白い。情報量が圧倒的に多いからで、『文学のなかの考古学』が最も面白くなるのは、もっと情報量が多く辞典等としてまとめられた時だと思う。
一番の難点は、語彙的考察が成されていないことである。伝統的な研究法では、まず、考古学にも出てくる様な事物を万葉、風土記まで遡るのであるならば、和名抄や色葉字類抄等を引くべきだろう。
実は、この様な先生の考え方や方法論を御著書で知って、私は佛教大学の地域文化コースへ再入学するのを断念した。
やはり、考古学は、実際に発掘しないのであれば、図面や写真を重視し、取りあげて遺跡については、読者の興味を喚起させる程度の最小限の情報を良い品質で紹介すべきだと思う。
例えば276頁の上郷岡原遺跡の平面図が紹介されていたが、やはり、火山性災害で瞬時に生まれた状況を再現するには、人骨や異物の写真や、あるいは、図面では、火山灰層の堆積状況を示す断面図を載せるべきだと思った。
古典や海を越えた民族の交流を云々する前に、身近な1つ1つの遺跡の微細な遺物にも、重要な秘密を解き明かすヒントが含まれていること等を学生に教えて欲しい。

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