宇治市源氏物語ミュージアム訪問記(一部修正)2009/01/10 23:41

FZ28で撮影
 今日は、「eラーニングで学ぶ いいとこ取り『源氏物語』」のスクーリングに参加する為に宇治市源氏物語ミュージアムを訪問した。スクーリングは、午後1時30分からで講師は、愛知淑徳大学講師の外山敦子先生。外山先生は、龍谷大学の国文学科教授の安藤先生の奥様で、宇治の街に住まわれていらっしゃる。
 家を午前9時前に出て、宇治市に到着したのは、もう12時近い時刻で、JR学研都市線京橋から京阪特急、中書島乗り換えで宇治駅に至るコース。十日戎なので、電車の混雑も酷い。
 それでもスクーリング受付までに1時間程余裕があるので、世界遺産である宇治上神社をお参り。今年は未だ初詣していないので、宇治神社、そして奧宮の宇治上神社に丁寧にお参りして、おみくじを引く。結果は、・・・・・。
 この神社の本殿は、平安後期に造られたと言われており、日本で最も古い神社建築である。面白いのは、半蔀となっており、先日、京都風俗博物館で見学した六条院建築復元の半蔀と同じもので、やはり、外側に開く。中から平安時代の空気がヒンヤリと流れて来そうな神々しい気分になる。
 お昼ご飯は、ちょうど、宇治上神社と源氏物語ミュージアムの中間点にあるお茶屋さんで、茶そば(ニシン蕎麦)を頂く。美味しかった。
 1時にちょうど宇治市源氏物語ミュージアムに到着して受け付けを済ませて奧に入ると、なんと、源氏物語の切手の初版刷が贈呈されたものが展示されていた(写真)。
 講演は予定通りの時刻に開始。NPOの宇治地域づくりネットワークの方の挨拶、京都府e-Learningの担当者の方の挨拶、ミュージアムの館長さんのご挨拶と延々と挨拶が続く。
 今回のスクーリングは、京都府の丹後市とネットワークで講義や質疑が中継され、リアルタイムで質疑応答を行う画期的な試みだと言う。

 ようやく外山敦子先生の登場。
 eラーニングのパソコンビデオ教材配信の画面で拝見するお姿よりもずっと美人に見えた。
 蜻蛉巻の概略の説明から重要な箇所の本文の講読解説といつも通りすすめられていく。やはり、浮舟の葬儀の部分の描写が面白いし、「浮舟事件」が初めは地元の人達、徐々にその噂が広まり、都人、果ては帝のお耳にも達するという描写が面白い。
 つまり、伴大納言絵巻の様な人物描写の連続で、うわさ話が広まっていく様子を表現しようとしているのである。

 しかし、ここでもっと重要なのは、浮舟が失踪して初めて、浮舟の実像が語られるという点である。つまり、これまで語られてきたカタシロとしての浮舟は、虚偽の埋葬を経て四十九日の法要を経ていく内に実像として叙述されていくのである。
 手習巻については、それほど詳細な講義はなかったが、夢浮橋巻で外山先生の考え方の面白さが出てくる。
 それは、薫が小君を使って、男色絡みで横川の僧都を手なづけて出家した浮舟を還俗させようと目論んだり、あるいは、浮舟と再び相まみえる様に手引きさせようとするのだが、結局、失敗に終わる。これと、空蝉巻の小君と比較している。空蝉巻の小君も同じ名前だが、こちらの方は、幼く声変わりしたばかりの少年である。同じく光源氏が空蝉に逢う為に使いの役割を果たしている。こちらも光源氏の目論みは失敗に終わる。
 夢浮橋巻では、話の顛末が中絶していて、薫が思いを遂げるのか、失敗するかは判らないが、「2人の小君」という考え方から、結局は、浮舟は、薫を空蝉が光源氏を拒んだ様に、拒絶し続けて、それで話は終わると読者に想像させようとしているいうのが、外山先生の説。

 私もこの説には興味があるが、疑問点もある。
 空蝉と浮舟とでは、物語の中での人物造形の重要度は、浮舟の方が絶対的に高い。
 宇治十帖巻の構想で、八の宮、大君、中君は、結局は、浮舟登場に至るまでの伏線でしかない。
浮舟は、この物語の最後を締めくくる女性として、主役に近い重要な役割を果たしている。空蝉の光源氏拒否と浮舟の薫、匂宮拒否とは、重さが全く違う。
 そうした中で、小君の関わりのみで、物語の構想を論じるには些か無理があると思う。しかし、長編源氏物語の構成をみれば、前史(仏伝ではジャータカの様な)としての桐壺巻(桐壺更衣、光源氏の成長と成人、藤壺との関係と因果・因縁の種が植え付けられる)で、一つの序章としての物語は完結しているとみることも出来る。
 そうして置いて、帚木巻で「光源氏名のみ・・・」の書き出しで、光源氏の一代記の叙述が開始される。帚木巻の終わりの部分で空蝉が登場する。空蝉は、光源氏の恋愛遊戯の最初の重要な相手である。
 結局、「年上の人妻」をモノにすることは出来なかったが、様々な恋の手管を「実技」を通して得ることが出来た。
 そうしてみれば、浮舟がこの長編物語の女性遍歴譚の最後を飾る女性とみれば、「拒む女で始まり、拒む女で終わる」というシンメトリー的な要素も浮かび上がってくる。
 
 つまり、源氏物語を西洋古典音楽に例えれば、序奏付・3部形式ソナタといった楽曲構成に似てくる訳である。

 これは、あくまでも自分の考えである。

 講演の後、質疑応答や感想が、宇治と丹後の両市の出席を交えて行われた。様子をみると、全く、遠隔授業といった欠点は感じられず、画期的な試みだと思った。

 佛教大学通信教育の地域学習会でも、この様な方法を採れば、多くの学生が参加出来ると思って、学べる点は多いにあると思った。
 スクーリング後は、修復修理が完了した丈六の阿弥陀仏に逢いに宇治平等院に出かけて、貴重な写真を何枚か撮影することが出来た。