内的時間意識の現象学2009/01/21 22:30

 『シリーズ・哲学のエッセンス フッサール 心は世界にどうつながっているのか』(門脇俊介,2008,NHK出版)

 定価1000円(税別)という安い本であり、薄い本でもある。既に第3刷と良く売れているらしい。大学かなんかのテキストにでも使用されているのだろうか。

 この本の特色は、フッサールの原著からの引用が翻訳にせよ一切されていない点であり、ユニークである。著者の門脇氏は、東京大学文学部哲学科から同大の博士課程を出て、同大学の教養学部の教授をされている。正に、エリートである。

 頭が非常に良い著者である。フッサールの難解な理論を完全に消化しきって、それの必要最小限のエッセンスの部分を再構成して、この本で提供してくれている。

 居酒屋を出てから紀伊国屋で立ち読み後、買い求めて、阪急電車を降りる頃には、読了していた。

 フッサールは、「現象学」の創始者である。つまり、デカルト以来、客観的事実・絶対的真理とされていた存在の実証的認識は、単に現象に過ぎないと言い切った人である。

 仮説の過程を経て、実証され、追試、再現されて、真理として認められているあらゆる理論が実は、刹那刹那の現象の説明に過ぎない。

 結局、ここの知覚・認識を経て心的世界に現実として投影されている現象に過ぎないとしている。

 人は、「クオリア」(感覚質)を経て、現象を「意識」として認識する。その様な認識の積み重ねで、「心の志向性システム」を作り上げる。

 「心の志向性システム」に適った適った現象が合理的であり、真理であると錯覚しているだけである。

 さて、「クオリア」では、現象の存在における基本的要素である「時間」をどの様に認識しているのだろうか。それは、「内的時間意識の現象」として認識される。

 アリストテレスの哲学における現象の認識は、静止した時間として捉えられがちであったが、中世のキリスト教哲学者アウグスチヌスは、①「想起された現在」、②「現在の直観」、③「予期された現在」として、意識時間の創始者である。これは、あたかも部派仏教がアビダルマとして体系づけられたことに比肩している。

 フッサールは、実は、意識は、こうした様に断片化された時間の中に存在するのではなくて、連続性・流動性を持って存在していると考えた。全ての客観的真理されていることがらは、全て、流動性を持っており、常に変化し続けている「心の志向性システム」の一部であるに過ぎないのである。この考え方は、ある意味詭弁の様に受け取られがちであるが、仏教の中観思想に通じるところがある。

 しかし、客観的真理が存在しないのならば、どうして私たちは、認識を共有・意思疎通が出来るのだろうか。

 それは、言語表現(表象性)によるものである。しかし、言語には、位相があり、恣意的な性質を持っている。つまり、私たちが共通して認識している現象は、決して、同じ現象として認識されているのではない。それでも心的な現実世界の共有が出来るのは、行動の中に「言語行為の志向性」と「知覚的志向性」が包含されており、それらの方向性が共通であるから。

 フッサールは、表象性が一定の志向性を持っている状況をノエマ、ノエシスとなずけている。このノエマ、ノエシスは、質的な段階を持っている。最も高次なのが、「純粋ノエシス」(純粋意識の方向性)であり、これが全ての表象性の根底に存在している。

 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。この位相とは、「自我」、「他我」の区別に拠る認識の相違である。しかし、デカルトの「純粋理性」とは、異なり、純粋ノエシスでさえ、普遍の真理ではないのである.....

 この本の惹句にある様に、「世界が私に現れ出るという謎」という言葉で仏教思想を学ばれた方は気づかれるかも知れないが、これは、「本覚」という考え方に近い。認識→心→純粋ノエシスの先にあるもの、それは、「世界」そのものなのである。

 つまり、現象の世界では、様々な位相によって客観・不変の真理が存在しない様に見えても、私たち全ての存在の中で、純粋ノエシスによって位置づけられ、心の中で、共有された世界は、一つの純粋な存在に収斂されるのである。

 それは、「仏性」に相通じるものがある。菩薩の修行を経て如来となった修行者には、「自我」も「他我」ももはや存在せず、あらゆる位相はなくなり、純粋な光の塊の中に不変の存在となり得るのだと思う。

 私達を導く純粋ノエシスは言い換えれば、アラヤ識の様なものかも知れない。

 フッサールが、「内的時間意識の現象学」を出版したのは、1928年である。中観理論の時代とは、1千年以上も隔絶しているが、仏教が、西洋哲学に比べてずっと進んでいるとは言えないが、人間の思惟にとっては、10世紀の時間の隔たり等は、一瞬に過ぎないのだと思う。

まもなく悟りの光、認識の白い輝きが僕の脳に降り注ぎ2009/01/21 22:49

 最近の「ザ・ビッグイシュー」は、編集方針が転換し、過激な左翼的な記事から、新進気鋭の小説家達の短編を多く掲載する様になってきた。

 若い人達なので、結構、感性も鋭く、たまには良い作品もある。そうした中で気に入ったのは、滝本達彦の「クリアライト」である。

 ここでまず、登場するには、「縮小現実マニュアル」である。

 作家が作り上げた仮想世界では、「縮小現実」が流行しており、こうしたマニュアル本が、コンビニで販売されている。

 頭の中も、部屋もゴチャゴチャな主人公(僕)は、まるで私みたいな奴だ。マニュアルを参考に本やDVDを処分して、写真や音楽も消去した。こうしたら幾分スッキリしたが、それでも頭の中のゴチャゴチャしたものがかえって気になる様になった。

 そこで「脳」を「新品のシンプルな脳」に交換することにした。新品のシンプルな脳は、システムがクリアインストールされており、おまけに美しく整頓・縮小化された記憶データに置き換えられていた。(この後、妻とのゴチャゴチャが書かれているが省略、販売員のホームレスのオジサンから雑誌を買って読んで下さい。)

 「悟りいかがっすかー?悟り安いっすよ!」の店員の呼び込みで「悟りサロン」に入る。プルプルと一緒で、1回500円で悟れるという。

 「まもなく悟りの光、認識の白い輝きが僕の脳に降り注ぎ.......僕は悟り始めた。」
 主人公は、そこで、人生を終えようとする人がみる夢を、そう、縮小現実のイメージを体感する。

 「説明書に書いてあった通りに慈悲の涙が僕の頬を伝っていった。」

 この小説、なかなか良く書けていると思う。現実経験の整理と縮小、簡素化の過程は、まさに、仏道修行の過程に似ている。また、悟りはイメージの縮小と純化に拠って得られる。そこには慈悲の世界が待っている。

 自らの修行努力は、機械化、マニュアル化、コンビニ化されているが、自助努力で阿羅漢果を得ようと努力する初期仏教の教団での修行に類似するものがある。

 佛教大学のアーカイブスに、授戒会の模様が収められている。
http://www.bukkyo-u.ac.jp/media/archive_o.html

 ここで修行する青年達の様子を見ると、世の中の複雑さを捨て去って純粋に生きようとする強い願望が感じられる。

 現代青年に共通するものなのかも知れない。