山口県を目指して歩行 ― 2009/03/13 09:57
雨蛙とミホトケの光 ― 2009/03/13 22:49
佛教大学小学生俳句大賞結果発表
http://www.bukkyo-u.ac.jp/haiku/index.html#haiku_top
低学年部門の「あまがえる どきどきするよ おうだん中」
たしかにこの句は秀逸だと思う。捻転先生は、おうだん中が最後に来たから良いと評しているが、やはり、語感的には、「あまがえる」と「どきどきするよ」の結合が素晴らしい。
幼い子供の生命に対する認識というか体感が素直に現されている。雨蛙については、私が小学校の時には、阪急宝塚線に山本という駅があって、そこに花王園という植木やさんがあって、そこの温室に父親と一緒にいった時に温室の中で鳴いている奴1匹を捕獲した。
大学2年の時に三千院に日本の美愛好会だったかそんなサークルに入っていて訪問した時に田圃にいるのを馬鹿な悪友が捕まえてビニール袋に入れて持って帰った。
花王園の雨蛙は水槽に入れて飼っていた。お腹が膨らませてないているし、白い腹の様子をみていると、当時から肥満気味であった私と近しい、なにか自分の親戚の様な感じさえする。
「どきどきするよ」というイキモノの触感。それは、幼い時に伝書鳩を飼っていて、雛が生まれ、それが若鳥となって、巣立ち間近、そいつを抱いていると腹から翼の部分の生え際にかけて未だ羽毛が生えそろっていなくて、生温い肌から体温とか、心臓のどきどき音が感じられて、「コイツは生きているんだ。」とか感じた。
先日、佛大の黒田先生の原作の豚のPちゃんの映画をみたが、どうもあの映画には、そうした「ドキドキ感」があんまり描けていない様な気がした。
ゴチャゴチャ書いてしまったが、やはり、こんな面白い俳句は大人には詠めない。雨蛙にみられる一般的イメージの取り合わせで句を作ってしまいがち。
ところで佛大からもらったカレンダーも3月で終わり。何時も山頭火の俳句が記されているが、今回は、「春の夜のみほとけのひかり」と言う句だ。
「みほとけの光」とは、浄土宗では、やはり阿弥陀の光である。
春の夜の光、それは、すなわちおぼろ月の様な暖かなまん丸い月の光である。
一昨日のお月様がまさにそんな感じがした。「月影の至らぬ里はなけれども」ということになるが、そんなことはどうでも良い。我が家に近いところからは、五月山の稜線が北から南に一直線に伸びており、それが全て見渡せるが、その上にこんな大きなお月様が出ている。
「みほとけの光」とほとんど叙景にはなっておらず、直接的に句を詠む姿勢、これは、まさに「どきどきするよ」と素直に詠んだ小学生の無垢な心につながってくるのだと思う。
カレンダーも終わり、佛教大学やみほとけがどんどん遠ざかってくる様な気がする。
明日は佛大通学の卒業式、通信は法然上人のご命日の25日に挙行される。
http://www.bukkyo-u.ac.jp/haiku/index.html#haiku_top
低学年部門の「あまがえる どきどきするよ おうだん中」
たしかにこの句は秀逸だと思う。捻転先生は、おうだん中が最後に来たから良いと評しているが、やはり、語感的には、「あまがえる」と「どきどきするよ」の結合が素晴らしい。
幼い子供の生命に対する認識というか体感が素直に現されている。雨蛙については、私が小学校の時には、阪急宝塚線に山本という駅があって、そこに花王園という植木やさんがあって、そこの温室に父親と一緒にいった時に温室の中で鳴いている奴1匹を捕獲した。
大学2年の時に三千院に日本の美愛好会だったかそんなサークルに入っていて訪問した時に田圃にいるのを馬鹿な悪友が捕まえてビニール袋に入れて持って帰った。
花王園の雨蛙は水槽に入れて飼っていた。お腹が膨らませてないているし、白い腹の様子をみていると、当時から肥満気味であった私と近しい、なにか自分の親戚の様な感じさえする。
「どきどきするよ」というイキモノの触感。それは、幼い時に伝書鳩を飼っていて、雛が生まれ、それが若鳥となって、巣立ち間近、そいつを抱いていると腹から翼の部分の生え際にかけて未だ羽毛が生えそろっていなくて、生温い肌から体温とか、心臓のどきどき音が感じられて、「コイツは生きているんだ。」とか感じた。
先日、佛大の黒田先生の原作の豚のPちゃんの映画をみたが、どうもあの映画には、そうした「ドキドキ感」があんまり描けていない様な気がした。
ゴチャゴチャ書いてしまったが、やはり、こんな面白い俳句は大人には詠めない。雨蛙にみられる一般的イメージの取り合わせで句を作ってしまいがち。
ところで佛大からもらったカレンダーも3月で終わり。何時も山頭火の俳句が記されているが、今回は、「春の夜のみほとけのひかり」と言う句だ。
「みほとけの光」とは、浄土宗では、やはり阿弥陀の光である。
春の夜の光、それは、すなわちおぼろ月の様な暖かなまん丸い月の光である。
一昨日のお月様がまさにそんな感じがした。「月影の至らぬ里はなけれども」ということになるが、そんなことはどうでも良い。我が家に近いところからは、五月山の稜線が北から南に一直線に伸びており、それが全て見渡せるが、その上にこんな大きなお月様が出ている。
「みほとけの光」とほとんど叙景にはなっておらず、直接的に句を詠む姿勢、これは、まさに「どきどきするよ」と素直に詠んだ小学生の無垢な心につながってくるのだと思う。
カレンダーも終わり、佛教大学やみほとけがどんどん遠ざかってくる様な気がする。
明日は佛大通学の卒業式、通信は法然上人のご命日の25日に挙行される。


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