ふることがたり(語り部)が伝える神世の出来事2009/04/15 23:30

『口語訳 古事記』(三浦佑之,2006,文春文庫)

 この本も斎藤英喜先生がカルチャーセンターでの講演の折に、一部教材として使用され、お薦めの本である。

 この本のユニークなところは、「古事記」を「語り」として捉えており、昔話の老人が古事記の神世に起きたことを語り伝える様に設定されている。

比較の意味で映画の1シーンを取りあげてみよう。
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 マッドマックス2というオーストラリア映画のガソリン基地から南の楽園への暴走族の魔手からの脱出行を老人が語り伝える場面。

 あるいは、タイムマシーンという映画(新作の方)で、図書館の案内ロボットが、数万年先の子供達に英語(古代語)を教える場面。

 マッドマックス2の場合は、ブーメランを扱うオオカミ少年がマッドマックスと一緒に脱出行を体験する。数十年後には、その出来事を「ふること(英雄譚)」として子供達に伝えている。
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 『口語訳 古事記』で登場する語り部の老人は、更に古い老人から語り伝えられてきたことを聞いた通りに話しているに違いないが、稗田安礼を経由して、その始原まで遡ると、神世の出来事を体験してきたオトコ、あるいは、オンナ、あるいは、少年、あるいは、老人に行き当たるのだろう。数十、数百世代を経ている。

 しかし、老人の「語りごと」の中では、古事記の世界は、「言葉の魔力」によって、目前にしているのと同様に姿を見せるのである。

 「語りごと」もこうした点で呪術に違いない。平安の時代にも「語りごと」を行った女房達がいたが、神世というか神そのもののことを語るのであるから、これは、もはや託宣、呪術に近いものであるだろう。

 「語りごと」には、「ことば」の伝達機能もあるが、それ以上に、かみよと現世(うつしよ)をつなぐタイムトンネルの様な働きもあるのである。

 三浦氏の「語り風」口語訳は、たしかに、日本昔話風であり、面白いが、言葉の持つ呪術的魔力を発揮出来ているかという点、「ノル」という行為との関係等を考察すれば、この口語訳の姿勢を100%肯定出来るかといえば、少し困る部分もある。

 実際に、古事記の記述を語り言葉に直すと言葉の補完や修正等といった作業が必要になってくる。神々の誕生の風景もそうである。

 但し、この本は良心的で学術的な側面から補註で原典を改編している部分については、正確に示してある。

 解説の「古事記」の世界には、所謂、誦習と語りとの関係についての考察や歴史的背景等も解説されており、学術的にみれば、こちらも非常に面白い。

 しかし、何の潜入観念もなく、この老人の「ふることがたり」の世界に入っているのも、それは、それで楽しいだろう。