陶磁器だけの本当にジミーーーーな街2009/05/01 23:37

PSP用カメラちょっとショットで撮影
 4月29日の午前10時に自宅を出発して、名鉄常滑駅(中部国際空港線 写真左中)に到着したのは、午後4時を過ぎていた。名鉄の特急は、こんなフォルムでなかなか格好良い(左上)。
 常滑駅に近くには競艇場があるが、生憎、当日はお休みだった。駅の近くに「競艇らーめん」というそのものズバリの名前の店がある。(左下)

 常滑は、陶器の街である。だから、至る所に陶器が使われ、道路補修のアスファルト材にも陶器の破片が混ぜられる。観賞用、食器用以外には、煉瓦、植木鉢、建築材等を中心に生産されている。民家の塀は、これは、陶器塀というのだろうか。煉瓦と陶器でつくられている。(中上)
 当然、陶器店が軒を並べている。(中中)。駅から5分位のところに常滑市陶磁器会館がある。(中下)生憎、閉館していた。(日祝は、午後4時には閉館する。)
 
 常滑の街は、慌ただしい時代の流れから取り残された様な質素で地味で静かな街である。

 愛知万博や愛知空港も、この街には無縁であったようだ。

 当日は、祝日なので、陶磁器工場(右上)もお休みで人影もない。静まりかえっていた。涼しい海からの夕風が心地よかった。
 工場の敷地には、植木鉢や完成した陶磁器類が雑然とあるいは、整然と並べられている。(右中、右下)

 本当に陶器生産だけの街という感じだった。陶磁器店以外に潰れた食堂や閉店した薬屋をみかけたが、一般の日常生活用品を販売している店はない。当然、コンビニもない。

 街の人達が唯一買い物が出来るのは、常滑駅の構内に続いてあるスーパーマーケットだけだった。ここで、食料、飲料等を買い込んでホテルに向かう。(次回に続く)

 写真は、PSPのカメラで撮影した。

海を背景にした巨大ジオラマの様だ。2009/05/02 11:30

FZ28で撮影
 前回の続き。

 常滑駅前のスーパーで買い物をして、ホテルのチェックイン、ホテル名は、ルートイン常滑で1泊5500円で朝食付。9階18号室に宿泊することとなった。部屋がなかなか見つからないので探し回って発見。

 なんとエレベーターの横脇、つまりエレベータの周りを取り囲む様に部屋があった。これが、今夜、宿泊する部屋。

 どうなることかと思って中に入ったら、これが結構、広いし、部屋も明るい。

 窓を開けると、最上階なので、爽やかな風がながれてきた。海の匂いがする。

 すぐ近くを名鉄線が通っており、隣駅から常滑駅の高架を通過する線路や列車をすべて見下ろすことができる。

 絶好の撮影ポイントである。
 ここから見える風景、それは、知多の海を背景に雄大に走る線路、そして、名鉄のレッドカラーの列車...まるで巨大なジオラマをみるようだと思った。

 左上が到着時に撮影したもので、知多半島から西側に海が見える。夕日に映える海と対岸の山々が美しい。左下が翌朝撮影した風景で、真っ青な海が見える。翌日は、常滑駅から朝倉駅まで列車で移動したが、途中には、真っ青な知多湾をバックに風力発電の風車が林立するところもあり、ここも絵になると思った。右上が名鉄の特急で、下が、普通電車。徐々にスピードが上がってくるので、FZ28で追っかけフォーカスの実験等するが、やはり、望遠では、フォーカスが合いにくい欠陥があらわとなった。カメラ個体のものかと思うが、店頭に設置しているカメラも同様に合いにくいので、共通の欠点のようだ。

 朝支度をすませて食堂へ、朝食はバイキング形式でパンからカレーライス、さまざまなおかずが山盛りで、どれも美味しい。新阪急ホテルのバイキングだったら1500円位のものだと思うが、これは、無料サービスなのである。(宿泊費に含まれている。)

 価格が安いので、値段相当と思ったら、使用されている食材も上等なものを使っているので、満足・満腹で仕事に向かった。

海を背景にした走行風景2009/05/02 22:48

FZ28で撮影
 名鉄常滑線の路線距離は、29.3㎞と以外に短い。駅数は23駅を数え、地元の能勢電鉄よりも駅と駅との間隔は短い。

 写真は、海を背景にした走行風景だが、PLフィルター等をかけると更に遠景の海がハッキリと写ると思う。

 こんな感じも模型ジオラマが出来ればと思う。

仏教芸能の殿堂、善光寺「大チベット祭り」2009/05/04 09:00

CyberShotDSC-W120で撮影
 昨日は、弟が急に帰ってきたので家に居づらくなって遁走。

 今年のゴールデンウィークは、昨年よりもずっと景気が良くなったみたいで、街中人で溢れかえっているし、カプセルホテルだって全室満員、サウナもイモを洗う様なありさまで仮眠場所もない、散々な一日だった。

 早く連休がオワラナイカナーということで、5月7~11日にかけて、なんと信州信濃善光寺で「大チベット祭」が行われる。
http://www3.ocn.ne.jp/~kaizenji/tibet-fes.html

 真面目なイベントで、仏教芸能の祭典である。

 声明、チベット僧院の仮面舞踏、砂曼荼羅、瞑想体験、説法印阿弥陀仏を経典の本文に忠実に作り上げる。そのた、落語、映画等多種多彩の内容。

 是非いってみたいが、9日は、斎藤先生の講座なので、その日の午後に出発して、晩には信濃に到着、ちらっとイベントをみてトンボ帰りしか方法はない。これだけの内容なのに実にもったいない。なんで連休中に開催してくれないのだろうか。

 写真は全く関係ない四日市諏訪神社のクスノキ。実に生きているようだった。

パラダイムと神話の読み替えという社会現象2009/05/04 20:50

『読み替えられた日本神話』(斎藤英喜,2006,講談社新書)

 8世紀のグローバリズムの中での日本神話の位置づけ、日本書記、古事記の成立事情に関しての斎藤先生の理論付けは、それなりに納得できるものであり、「日本神話の読み替え」というテーマのモティーフになるものである。

 中世日本紀の世界では、神仏習合や王権から武士への政権交代、元寇等の日本をめぐる国際情勢の変化等の社会状況の変化を背景に日本書記が大きく「読み替え」られ、あらたな位置づけを受けた時代であった。

 本居宣長の「古事記伝」は、中世以来の様々な曲説を退け、文献学の立場から純粋な本文批判を行い、これまで忘れ去られていた「古事記」を江戸の世の中に知らしめた。

 近世は、メディア革新の時代でもあった。これまでは秘密のベールに隠されていた日本神話が、広く印刷物として庶民にも読まれる様になるが、同時に普遍的な注釈、理論付けも求められていった時代で、これらの動きが、江戸期の様々な思想の影響を受けて、新しいパラダイムを思考する神話に生まれ変わる。

 近代以降は、神仏分離に始まり、国家神道、軍国主義に日本神話が「読み替えられた」時代であった。戦後は、こうした戦前、戦中の忌まわしい記憶から日本神話が敬遠された時期もあったが、1970年代を過ぎて、ようやく、徐々に、「すなおな心」で日本神話に向き合うことが出来る時代になった。

 グローバルメディアの発展で宮崎アニメ等を世界的に評価を受ける様になり、日本が文化の発信地となりつつある。

 宮崎アニメのもののけ姫やナウシカ、ラピュタ等の作品には、神話・伝承とおぼしきものが描かれている。特に斎藤氏が注目するのは、もののけ姫は、たたら製鉄、そして、それに纏わる信仰や神話、伝説に関係がある。

 ラピュタやその他の作品では、主人公達は、「飛行力」を有しているが、もののけ姫やナウシカの主人公達は飛行力をもたない。つまり、「超人性」の面で、他の作品の主人公達と区別、分類されるべきである。
 
 ナウシカには、「腐海」という生物や人間達が暮らしていけない有毒な世界が存在する。その世界は、実は、7日間の前の世界の終末戦争の結果生じたものであった。しかし、その「腐海」には、重要な機能があった。それが、この世界を汚染から浄化する重大な機能であった。

 これらのアニメに描かれた神話・伝説は、主人公達が所属する集団の創生に関わっていると同時に生活している宇宙・世界の構造にも密接な関わりを持っている。この特色は、古事記に描かれている世界観とも共通するものである。

 近世国学者達は、ただ単に神話の解釈だけではなくて、その世界を元に新たなテクスト・世界の創造を行っている。平田篤胤も、その著書『霊の真柱』で、私たちの宇宙・世界の図示を行っており、やはり、神話・創生譚との関わりを示そうとしている。

 この書物では、時代毎の神話をめぐる「読み替え」の変遷を詳述しており、特に第3章・第4章に書かれている内容は非常に面白い。

 巻末の参考文献をみると、論文「中世日本紀の輪郭」(伊藤正義,1972,『文学』岩波書店)が挙げられている。この論文は、佛教大学の黒田先生も推薦されておられ、私も図書館での複写を取り、なんども読み返したが、「はげしい衝撃を受けたのは、それは今でも鮮やかに思い出せる」と斎藤先生は、跋文で記しておられる。

 戦後の日本神話の見方は、これらの論文が発表された1970年代を契機に大きな変化を遂げた。1970年代は、戦後の日本社会の復興、発展期から安定記に入ろうとする時代でもあり、同時に、ベトナム戦争が激しくなり、世界の「不透明感」が強まった時代であった。こうした時代や社会のパラダイムの影響を受けて、神話の「読み方」も変わっていったのである。

 それは、古代、平安期、中世、近世、近代と日本神話の見方、読み方が変化したいったのと同じ現象であり、結局、国民・民族の「神話観」は、パラダイムの変化と密接な関わりを持っていることに他ならないのだと思う。

意外な落とし穴2009/05/04 21:15

 仏教芸術コースでお世話になった安藤佳香先生の全著書、全論文を読破したと思っていたら、意外な落とし穴が見つかった。

 それが、京都造形芸術大学比較芸術学研究センターが刊行している『Aube』の02号07年8月発行に収載された論文で「装飾と思想の関わり」、『「宝相華」という美しい名の唐草について』の2点であり、早速、AMAZONに昨日発注、今日の夕方には配達されて来た。

 先生の論文目録については、インターネットのデータベース等を使ったが、これらには、最近発行された雑誌論文等が反映されていないので、十分注意する必要がある。(国立国会図書館の作成している雑誌表題目録オンラインデータベースにも、08年の時点では収載されていなかった。)

 この雑誌には、井上正先生の「仏教芸術の中に民族思想を読み取る」も収載されている。こちらの論文は、私が佛大の仏教芸術コースで学んできたことが、完結かつ完全な文章で見事にまとめられている。これから仏教芸術を学ぼうとする人達には、是非、お奨めしたい論文である。この中で、「霊木化現仏」に加えて「霊石化現仏」が触れられている。これは、ユニークで初めてみる観点である。

 朝鮮半島の慶州にある石刻仏が例に挙げられている。樹木と同様に岩石や崖にも自然の霊力が宿るという信仰が仏像彫刻に結びついたものである。この慶州の線刻仏に非常に似た事例が、私の近所の能勢剣尾山の大日如来磨崖仏にみられる。岩の形をうまく活かして大日如来造が彫られているし、この大日如来を中心に胎蔵界の宇宙の配置が自然石等を利用した山岳仏教遺跡と融合しているのである。この地域には、百済から渡来した日羅上人の伝承があり、朝鮮半島の霊石化現仏の信仰が伝播したのではないだろうか。

 安藤先生の2点の論文は、これまでの講義や講演、著書、特に『佛教荘厳の研究 グプタ朝唐草の東伝』に述べられている内容を完結にまとめたものであったが、長い著作を読むよりも、この方が判りやすい点もある。また、この雑誌の価格は、1,800円なので、数万円する佛教荘厳の研究を買えなくても、井上正先生や安藤先生の考え方の概略を知ることができる。

 この本が届いた時、母親にみせたら非常に興味深そうに読んでいた。若いときに、私たち親子の生活を支える為に、内職で、泉南の毛布屋さん向けに、毛布の図案をアルバイトで描いていた。宝相華文等も良く知っており、「こうした模様の由来について初めて知ることが出来た」と話していた。

 私たちと「かざる」という行為、そして、文様は、密接な関わりを持ち、それぞれの民族や地域の生活文化のエッセンスが表出されているのではないだろうか。

6種類混合ウイルスが、少数共生の道を選ぶか、大量増殖の道を選ぶか2009/05/05 16:32

CAMEDIA CL1400で撮影
 天気は悪い。弟は、長野に帰った。

 何もすることがないので家にいる。
 腹の具合が悪い。下痢気味だ。
 サウナでうつったかのだろうか。
 新型インフルエンザの特徴として、感染後、10日位で下痢、発熱の症状が出てくるそうだ。きっと知らずに感染している人も多そうだ。(熱は、普通の風邪程度なので、近くの医院で済ませている人もいる筈。)

 弱毒性というのも油断出来ないという。感染病の研究者によると、新型インフルエンザが、誕生の初期段階であるとすれば、弱毒性のままで止まるか、それとも、強毒型に進化するかは、これからにならんと判らないという。

 鳥インフルエンザは、ウイルス型は、H5N1なので異なるが、発生初期は、やはり弱毒性で、野鳥とウイルスが共存していた。

 ウイルスも寄主に直ぐに死なれては、種の増加が期待できないので、最初は共生の道を選ぶ。しかし、一度に数百、数千、数万の個体数で密集して飼養されている鶏に出逢った途端に一部のウイルスは、強毒性に進化した。感染力を強まることで一度に大量の感染を引き起こすことが出来るので、ウイルスは、この方法を選んだのである。

 豚インフルエンザのウイルスが原初の型からどの程度進化しているのか、構造等を研究する必要があり、もし、初期のものであると判った時には、強毒性に変化する可能性が高い。特に人間の様に過密な環境で生息している生物に出逢った場合には、ウイルスは、共生よりも大量感染、増殖の道を選ぶだろう。

 今週の土曜日には、斎藤先生がNHKカルチャーセンタで講演されるのに受講する予定だが、ニューヨークの陰陽道学会から帰って来てまもなくだと聞いている。(佛大では、どの様にみているのだろうか。)

 大丈夫なんだろうか。(潜伏期間等を考えると恐い。)まぁ、今の段階では、弱毒性なので、私は罹っても大丈夫だと思うが、老いた両親に感染したらヤバイ。また、受講生にもご年配の方がいらっしゃるので、心配だ。

追加情報
http://www.asahi.com/science/update/0502/TKY200905020187.html
新型インフルエンザは、6種類のウイルスの混合であることが明らかになった。それは、人+鳥A+鳥B+豚A+豚B+豚Cという6種類混合ウイルスのようだ。

ということは、一番最近のDNA混合は、最近に起きた可能性が高い。また、これから変異する可能性が高いということで非常に不安定な危険度の高いウイルスということになる。

実に恐ろしいことだ。(鳥インフルエンザよりも強力なものが出来つつあるのかも知れない。)



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 CAMEDIA CL1400で撮影。1999年発売のデジタルカメラで1眼レフ並みの大きさがあり、140万画素。価格は、10万円位だった。

 光学部品が上等で、CCDも大型なので、画素数は物足らないものの。画質は、OK。電池が直ぐ無くなるのと、スマートメディアという希少なメディア(僅か32MB)を使用するので、実用から遠のいている。

 翌年、発売されたのは、SONYのCYBERSHOT-P1であるが、これは、充電式で当時としては、70分も電池が保つということが画期的で、光学部品も現行製品よりも優れている位で、現在でも通用する製品だと思う。メモリースティックもアダプタをかませると現行のメディアが使用出来るし、やはり、SONYという会社の先見性には感心する。

海外渡航者は、10日間の自粛を、そして食料の備蓄が必要2009/05/06 13:00

 「馬が逃げた後に馬小屋の扉を閉めるものだ」とWHOが今回の新型インフルエンザに対して日本等が行っている水際作戦を批評して発言している。

 これは、現時点で、高熱、咳、下痢等の症状が出ていなくても、ウイルスに感染している可能性がある為だ。だから、ゴールデンウィークの観光目的や短期間の海外渡航者に関しては、検疫自体の意義は薄い。

 つまり、感染後、7~10日間の潜伏期間がある。(この時点で感染していても他者に伝染する可能性は十分にある。一般に発症とは、体内のウイルス数が一定水準を超えてみられるものであり、その水準に至らなくてもウイルスは既に体内に寄生している。)

 だから、例えば、アメリカやメキシコに先月の26日から今月5日までの約10日間滞在したとすると、ようやく最初に感染した分の症状が出てくる時期に入る訳で、一般的な発症が頻発するのは、来週の10日から17日までの1週間である。この期間が無事過ごせれば、感染がないことがようやく判る。

 連休明けで大量の外国旅行者が楽しい想い出と共に帰国してくる訳で、この人達が国内を徘徊する今週から来週にかけてが一番リスクが高い時期である。

 おそらく国内初の感染者は、来週辺りに出てくるかもしれないし、人→人感染が始まるのも来週以降である。

 日本で大量感染者が発生した場合には、どの様な段階を経て規制されるだろうか。

 ①水際作戦の失敗
 ②国内感染者発見
 ③人→人感染確認と感染者の増加
  この時点で旅行制限や国内検疫体制の強  化
 ④感染爆発
  この時点で、外食産業や映画館、学校、その他の感染が増える可能性がある業種・施設の制限
 ⑤厳戒態勢(有事)
  それでも感染拡大が収まらない場合には、飲料、食料品の販売禁止、交通機関での検疫・消毒実施、事実上外出制限令が発令される。

 これが私の独断と偏見による予想だというのならば、農水省のこのWEBをみて欲しい。

新型インフルエンザ対策ガイドライン http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/anpo/pdf/kozin.pdf

家庭用食料備蓄品ガイド
http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/anpo/pdf/kozin.pdf

 外出制限令が実際に発令されることを想定して農水省では、次の食料品を国民に備蓄すべきだと説明している。

◎なぜ食料品備蓄が必要か
「新型インフルエンザへの感染を避けるためには、感染者との接点を極力減らすため、不要不急の外出をしないことが重要です。また、発生直後などは、食料品の需要が一時に集中し、思うように手に入らないおそれもあります。このガイドに紹介する方法などを参考に、計画的に食料品の備蓄に取り組みましょう。

はじめに
新型インフルエンザに備えるための留意点

新型インフルエンザの流行の周期(流行開始から小康までの期間)は2 ヶ月間程度に及ぶと考えられています。この間、食料品を買う機会はあると考えられますが、できる限り長期間分、最低でも2 週間分の食料品を備蓄することが推奨されます。一方で、地震災害とは違い、新型インフルエンザが発生(流行)しても電気、ガス、水道といったライフラ
インを確保するよう対策が進められていますから、通常は熱源や水を使った調理が可能と考えられます。備蓄スペースとして冷蔵庫も活用できるでしょう。ただし、政府の想定では「保守・運用の従業員不足により地域的・一時的に停電等が生じるおそれ」があることも指摘しています。このため、ある程度の期間の停電等に対処する方策についても合わせて考えておく必要があります。」

 つまり、国家非常事態になった場合には、ライフラインの停止や食料品の販売停止等の措置が2ヶ月間も実施されるという可能性がある。政府では、国民の非常事態の発生を踏まえて2ヶ月分の保存が効く食料品の備蓄を呼びかけている。例えば、お米が10キロ以上とか膨大量になる。

 不思議なのは、今からでも準備が必要なのにマスコミ、報道では、この事実を公表していないことである。また、政府も国民への放送等での告知を見送っている。

 まぁ、震災等の非常時にも役に立つので、保存期間が切れたものから消費して、補充しておけば、備蓄しておくのも良いかも。

 また、企業でも移動制限措置が実施された場合の対策等を考えておく必要があるかもしれない。

 写真は、記事とは関係なく、マミヤ6で撮影した躑躅の花。

白坂氏の「言葉のエロス」2009/05/06 19:17

 今回で何回目だろうか、「語り工房」の「万葉の風シリーズ」(4月27日東京で公演、5月6日午後4時からラジオNIKKEIでオンエアー)

 ラジオNIKKEIのインターネット放送で視聴し、パソコンの音声から超録というソフトでエアーチェックした。

 前回のオンエアーは、たしかお正月の放送ではなかったかと記憶している。今回は、4月27日の講演から殆ど間もない時間でのオンエアーである。

 ライブ特有のノイズ等も聞こえるし、ライブ特有の技術的な瑕疵もある。しかし、それらの欠点を乗り越えて、本番の公演の迫力が迫ってくる。この録音のノイズの影の向こうには、息をこらして聴いている聴衆の姿、気配が浮かび上がってくるのである。

 前回は、たしか恋歌の特集であったが、今回は、ジャンルに拘らず、「良い歌」を選んでの朗読である。

 それだけに名歌が多い。そうなると気になるのは、現代語訳である。

 現代語訳は、佛教大学の田中みどり先生がされたと思う。実に正確で的確かつ妥当な表現である。しかし、そこには、詩歌につきものの、情感の冒険的な大胆さとか、情感の高まりに読み手の冷静さを失った言葉の威力を聞き取るには、少し、醒めているような気がする。

 学者は、詩人ではない。言葉の注釈、語義についても上代語の研究史の成果を無視した解釈は出来ないという制約に縛られざるを得ないのである。

 例えば、天香具山の歌を寺山修司が現代語訳したらどうなるだろうか。おそらく、独断と偏見に満ちた歌になるだろうが、新たな言葉の生命力が現代語に置き換えられても付加されるだろう。あるいは、折口信夫(田中先生はお嫌いならしいが)、その他の文芸学者の現代語訳等もこうした朗読で聴きたくなってしまった。

 そうなると、白坂氏の朗読は、一層、生彩を帯びてくる。元々の言葉は、そのまま言霊に結びつく、「理性による論理的な解釈では説明が出来ない言葉の影の部分」、それが、「言霊」である。

 言霊の成分は、言葉の「響き」を媒体として、語り手の口調の中に蘇る。

 前回の公演で白坂氏の声は、恋の歌を朗読するには、固すぎると思った。おそらく、古代語の尊厳さといったそういったものを尊重するあまりに、あの源氏物語朗読にみられた様な妖艶さというものを押し隠していたのだろう。

 ところが、今回の白坂氏の朗読を聴いて、ゾクゾクっと来た部分があった。「言葉のエロス」が、伝わって来たのである。これまでにない新たな魅力だと思うし、もっともっと、万葉集や記紀歌謡の朗読にも取り組んでもらいたい。

 深沢氏の朗読には、声質にマテリアル的な存在感、実在感、言葉の重みを加えようとした努力がうかがえる。恐らく、大変な努力をなさったんだろうと思う。その成果が見事に発揮されている。

 だが、いかんせん、現代語訳なので、白坂氏の原文朗読に比べて大きなハンディがある。どうしても説明的に聞こえてしまうのである。現代語訳のやり方もあるが、詩歌の朗読には客観性よりも情感の表現が必要なのである。

 次回は、白坂氏が現代語訳、深沢氏が原文を朗読してもらいたい。そうすると、この公演シリーズに新たな発見が期待出来るかも知れない。

姜友邦氏による「高句麗古墳壁画の霊気文の様相とその伝播」についての考察2009/05/07 00:45

 先日、このブログの記事に書いたAube比較芸術論の中で、井上、安藤両先生の論文以外に興味があったのが、姜友邦氏による「高句麗古墳壁画の霊気文の様相とその伝播」という論文である。

 霊気文とは、中国の道教の思想の中の陰陽二元説の他に霊気が万物の源であり、宇宙や生命を形成するという考え方が文様に活かされたもので、仏像や仏教絵画に用いられる場合は、仏の持つ生命力・パワーを強調して表現する際に使用される。

 高句麗の古墳壁画には、霊気を単純な幾何学的な文様で表現したものから、壁画に描かれた人物画(この論文では力士像)の身体の輪郭等に描かれている。朝鮮半島でも6世紀に入ると仏像が活発に製作される様になるが、古墳時代に既にみられた霊気による仏像の装飾や寺院を含めた荘厳にも使用される。姜氏の論文には、国宝金銅半跏思惟像の宝冠の部分の装飾を例に挙げている。
 
 しかし、それよりも霊気による仏像の装飾が良く認められるのは、法隆城金銅の釈迦三尊像である。左側の脇侍は、蓮華から化生した有様を示しているが、その裾や衣の輪郭には、霊気を表現する角の様な縁取りがみられ、これは、高句麗古墳の力士像と類似している。更に、釈迦如来像の足下の裳が翻っている様子、霊気によって特殊な広がり方を見せている。

 この様に中国道教の思想の影響を受けた霊気による仏教装飾は、蓮華やその他の植物から生物や仏が生じるという化生と共に、東洋の仏教美術の表現の中で、大きな位置を示している。それらは、融合することもあり、あるいは、区別して使用される場合もある。

 インドと中国の宇宙・生命思想が融合して新たな仏教芸術を産み出されたのである。

 Aubeには、「高句麗古墳壁画の霊気文の様相とその伝播」が発表されたシンポジウムの模様も収録されているが、その中で、安藤佳香先生が大きな興味を示している有様が書かれている。(189頁)

 「尊像の持つパワーを表現する方法のキーワードは、井上先生のいうように化生や化現というキーワードがある。蓮華文はそうした思想背景によって生まれたが、霊気表現という起源の異なる2つの文様が重合、集合した新しい荘厳が産み出されたのではないかと考えている。霊気文様は、生命力を表現するというよりも、光を含めたあらゆるエネルギーを表現しているのではないかと思う。グプタ式唐草もその様なエネルギー文様である。」といった旨の発言をされている。

 道教思想は、先述した日本書記の世界創世にまつわる表現に影響を与え、斎藤先生は、それは、中国を中心としたグローバル世界の共通思想として国際性を持っていたとされている。日本人古来の考え方としては、自然のあらゆるものを信仰の対象とする考え方があり、潔癖でしかも、実存的である。だから、「世界の創世」といったことよりも、自分達が崇拝する祖先神の行跡を具体的に話し伝えようとしたのに対して、日本書紀の場合は、抽象論を含めて、論理的である。

 仏教も同様に中国→朝鮮半島→日本へと伝播した国際宗教であるから、法隆寺を始めとして、その他の寺院でも同様にインドの化生思想、霊気思想をそのまま取り入れたのである。

 しかし、日本のこうした潔癖かつ実際的な信仰形態、つまり、岩ならば、岩そのもの、木ならば、木そのもの、あるいは、山全体までもをそのまま祀り、崇拝するといった心情とは異なる。

 したがって霊木化現仏についても井上先生の論を読み、安藤先生にも直接お話を聞いたが、単純にインド、中国、そして、日本の思想文化が、そのまま融合して、仏像製作や装飾に反映されたという考え方には、少し、疑問を感じさせられるところもある。例えば、霊石化現仏は、朝鮮半島の信仰である。日本人ならば、もともとは、自然をそのまま保全、保護し、崇拝する思想文化であるので、わざわざ山や岩を削って神像を造るようなことはしないだろう。たしかに神仏習合の証拠として神像が挙げられているが、これも日本独自の文化というよりも、8世紀から中央政権が進めた国家神道の傾向がグローバルリズムの影響を受ける様になり、変質した結果ではないかと思っている。

 装飾(かざり)と文化史、思想背景との関わりの研究は未だ始まったばかりだと思う。もっと多くの証拠を集めて検証してみることが必要であると思う。