夕暮れの桜2009/04/12 10:31

Cybershot DSC-P1で撮影
昨夕撮影した近所の夕暮れの桜の花(DSC-P1で撮影)

花吹雪が凄い。この樹があるところから50メートル位離れたところまで花びらが散乱している。

毎年、花の後のお掃除が大変だ。でも近所の人達は、花が美しいことを知っているので、黙々と掃除を続ける。

夕方の桜花は寂しさと哀しさが感じられる。ピンク色の絨毯も何やら「もののあはれ」を感じさせる。

こうゆう風景をみるとTVでみた安物の焼酎のCMを思いだしてしまった。


昼間、この近くの道路の上にツバメの子供が死んでいた。車にはねられたようだ。1日中憂鬱であったが、この花を見た時間には、その遺体はどこかに行ってしまっていた。

「退化」が始まった2009/04/12 11:45

退化が始まった。

・ダイエットにおける退化とは、もちろん体重が元に戻ってしまうこと。

・運動能力の退化とは、使わない身体の機能が衰えていくこと、また、その衰えが自覚できないこと。

・「衰えが自覚できないこと。」これが、退化の第1症状なのである。

 つまり、人間というのは、常に常に、努力や運動をしなければ、肉体や頭脳の機能は、衰退していくのであるが、その衰えを自覚出来ておれば、努力によって維持・向上を図ることが出来る。

 しかし、衰え自体が自覚出来ない段階に入ると、その衰えは加速度的に進行していく。

・「衰えから復帰できないこと。」これが、退化の第2症状なのである。

 私も昨年の9月末に佛教大学を修了(仏教芸術コースの学士編入)してから、7ヶ月目に入ったが、既に退化の第1症状が出てきている。特に大学院は、04年に修了しているので、5年前に出来た努力や業績を今、やろうと思って不可能になっている。

 人生は、「積み重ね」であるが、実際には、建築作業に例えるならば、基礎ブロックを積み重ねていく速度があまりに遅かったり、建築速度が遅いと基礎材が腐敗して、根元から崩れてしまうことになる。

 佛教大学の新学期に入っている。先生方の進歩と退歩の状況については、シラバスをみることで知ることが出来る。(大学院の専門課程のシラバスが参考になる。3年分が掲載されているので、その先生の研究や興味が深まっていったのか、あるいは、そのままなのか、あるいは、退化しているのか、みれば判る。3年前に比べて、進歩している人とそうでない人との差が現れてきている。)

 大学では、教員資質審査は、授業アンケートはあるが、それ以外では、お互いに遠慮しあって出来ないのが現状である。しかし、それをしなければ、何時までも努力をされないサラリーマンタイプの先生方が増えて、学生が結局は迷惑するのである。

 他人のことばかり、批判してはいけないが、私の様な身分・出自・職歴・学歴ともに「下流」の人間は、「教育をあらゆる階層へ」(六波羅蜜の布施の精神)という佛教大学がせっかく、私に通信大学院で学ぶ機会を与えて下さり、その結果、修士課程を終えても、折角の学修成果を維持することも出来ないでいるのである。

 少しでもこうした「退化」を食い止める為に、二回も学部への編入を繰りかえしたが、佛大の内部の教員にもこうした私について批判的な人もおり、私もそうかと思って諦めた。

 しかし、昨日のNHKカルチャーセンターの斎藤先生の授業を聴講して、やはり私の考え方が正しかったことが判った。

 つまり、どんな方法にせよ「衰えが自覚できない。」状態から復帰モードにするには、やはり、より優れた段階にある知識の刺激を受けるのが最も効果的である。

 「自学・独学でも出来るだろう。」と言う人もあるが、自分が知りたいことを選り好みする結果になるので、「知らないことの面白さ」に気づくという最も効果的な刺激を受ける為には、大学やスクールに通うことが効果的である。

 大学の先生は、大学やスクールに通うことが出来ないが、斎藤先生の様にニューヨークでの陰陽道学会に出席したり、国内の学会で発表、質疑応答を重ねる努力を行うことで、私たちがスクールで受ける様な刺激が新たな研究の進化への刺激剤になるのだと思っている。

 別に私の様な「下流」の人間が、一層の退化を放置しておいても良いのだが、「人間以下」の存在になってしまうので、そこまで割り切るのならば、死んだ方がマシだと最近では思う様になってきた。

 こうした大学やスクールにいっても、私と同年代の人は驚くほど少ない。

 きっと、この平成大不況の中で、企業や公務、家計・家庭の維持に肉体も精神も消耗・吸収され続けているのだろう。

 一流の企業でも最近では、生涯雇用制度が崩壊した為に社員のこうした消耗や退化を食い止める為の福利厚生がなおざりにされつつある。私の様な零細企業の使用人では、なおさらのことである。

 だから、一見、関係なく無駄と思われる大学の通信教育やスクール等で受講することは、多額の金額を投資した意義があるのではないかと考えている。

バイロン・ハスキン監督、ジーン・バリー他主演の1953年に制作された映画の方が面白いし、画像的にも優れている。2009/04/12 16:40

 スピルバーグ監督の「宇宙戦争」がロードショーでやっていて、今日は、その録画を焼酎を飲みながらみていた。

 宇宙人が火星からやってきたというのは、さすがになかった。火星に高等生物が存在していないという認識が宇宙探査の結果、浸透したからだ。
最後の火星人というか火星生物の設定は、「トータル・リコール」が最後の作品ではないだろうか。

 その宇宙人は、スピルバーグが描いた宇宙人(これまでの銀河系世界に存在する)に比べて邪悪で、下等な様に見える。前作の宇宙(火星)人の方が、子供や大人等、より人間に近い存在に描かれている。

 やはり、スピルバーグにとっては宇宙の知性体は人智を越えた存在でなければならないので、この作品の様な行為をする宇宙人は変則的である。

 これをみていると、宇宙人も邪悪であるが、それよりも人間のエゴイズムの醜さが描かれている。

 また、虐められる少女がスピルバーグ作品には、出てくるが、今回も安達祐実に似た女優さんが活躍する。(ETの時は、妹とカエルの大群にすくみ上がる女の子が描かれている。)

 車もスピルバーグのモチーフだ。「激突」以来、自動車は、恐怖の象徴として描かれる。今回も車は避難には、途中まで役に立つが、その後は、略奪の対象となり恐怖の存在だ。また、地下の隠れ家にネズミの様に隠れているが、その後、地上に追い込まれ、最後の乗るのが自動車の残骸であり、結局、クルマも恐怖の鉄カゴとしての役割しか果たさない。

 この作品の表モチーフは、最後には、地球生物を創造された神には、宇宙人も為す術もないというのが、中心だが、裏モチーフは、家庭の崩壊と再建である。ETの時は、離婚家庭が出てきたが、子供達は、親の支配下にあった。しかし、この作品では、親子の人間関係は崩壊している。しかし、宇宙人の恐怖に遭遇することで親子の絆が回復するという裏主題である。

 スピルバーグは、結局、この作品の表モチーフには興味がなく、実は、家庭・家族・親子関係といったことが描きたかった。

 結局、宇宙人よりも恐く、つらいのが、人間のエゴイズムや人間関係、親子関係の崩壊と敵対であることをこの作品を示したかったのだろう。

 宇宙戦争は、その舞台に過ぎないのだと思う。
 だから、宇宙人の「人間性」を描いていたETは面白かったが、今回の作品はつまらない。

 そういった意味で、宇宙戦争の映画では、バイロン・ハスキン監督、ジーン・バリー他主演の1953年に制作された映画の方が面白いし、画像的にも優れている。特に宇宙人との戦闘シーンはこちらの方がリアルである。(3色ファイバースコープ等は、この映画の考案であるが、新作にも同様に描かれているが、その仕組みと巧妙さを描き切れていない。カラーTVの実験が行われていた時代の映像機器の1950年代の技術観が見透せるのである。)

 太平洋戦争、朝鮮動乱と歴戦が継続されている時代の作品なので、戦闘自体がリアルに描かれている。(武器は凄くクラシカルだが。)