法然上人の隠された事実 ― 2008/06/01 11:20
今日から佛教大学は春季スクーリング。
私は、全科目終えてしまっているので、こうして自宅にいる。
今やっているのは、デジタルアーカイブ特講で先生は、平等院住職の神居先生の筈。
再受講してみたいが、その様な制度はないという。
仕方がないので、昨日から読書で、『法然 十五歳の闇』(梅原猛著 角川ソフィア文庫)
この本を読む前に、例えば、『法然絵伝を読む』(中井真孝)や佛教大学のテキスト『法然の生涯と思想』(佛教大学通信教育部)等を予め読んでおいた方が良いだろう。
というのは、法然の特に青年期の境遇について、他の法然の伝記とは全く異なっているからである。
どの部分が異なっているかは、「十五歳の闇」という言葉がポイントになるが、証してしまうと、この本を読む面白さは半減してしまうので、ここでは止めておく。
この様なユニークな説にたどり着くまでには、梅原氏は、厳密な文献調査、史料考証をやっておられるので、思いつきでこの様な奇抜なことを書いておられるのではない。
法然の伝記の内で、何が事実で、何が脚色なのか、これも非常に判断が難しい点もある。やはり、史料の成立年代ということが考証の手がかりになるだろう。
この点で、梅原氏は、中井先生の論文等を挙げられて一定の評価をされている。
それにしても、法然の青年期に起こった悲劇が、恐らくは、その後の学問理論や浄土宗改宗に至るまでの道のりに大きな影響を与えるだろう。
佛教大学に入る前に那岐山菩提寺に参詣したことがあるが、そこの大銀杏は、法然上人お手植えという事になるが、梅原氏の説では、それも難しい事になる。
何よりも両親との別れという事が、その生涯の悲劇性を一層強めている。
法然の母親や父親の漆間氏も、秦氏という渡来系の氏族が祖であると梅原氏は述べられている。渡来系という境遇、更には、青年期の悲劇、怨霊封じの為の菩提寺での練り供養等の記述は、梅原氏の思想の原典にふれる気がすると思うのと、同時に一つの違和感を感じる。
怨霊と祟りについては、今から30年前に京都市芸術大学音楽学部に進学してトロンボーンを吹いていた先輩が合宿の時に「ウチの学長の梅原先生がいうには、・・・・」と大変、興奮していたことを想い出す。
実際に柿本人麻呂論や法然論等も梅原氏の講義を生で聞いたら洗脳されてしまうのかも知れない。
そういえば、安藤佳香先生も芸大の大学院の修士課程を出られている。その修士論文も梅原氏の存在が、その思想的基盤にあるのではと、思ってしまう。
つまり、祟り・怨霊といった日本古来の思想が、仏教思想と融合したという神仏習合のもう一つの暗い側面も浮かび上がってくる訳である。
これから『法然』の下巻も読んでみようと思う。
私は、全科目終えてしまっているので、こうして自宅にいる。
今やっているのは、デジタルアーカイブ特講で先生は、平等院住職の神居先生の筈。
再受講してみたいが、その様な制度はないという。
仕方がないので、昨日から読書で、『法然 十五歳の闇』(梅原猛著 角川ソフィア文庫)
この本を読む前に、例えば、『法然絵伝を読む』(中井真孝)や佛教大学のテキスト『法然の生涯と思想』(佛教大学通信教育部)等を予め読んでおいた方が良いだろう。
というのは、法然の特に青年期の境遇について、他の法然の伝記とは全く異なっているからである。
どの部分が異なっているかは、「十五歳の闇」という言葉がポイントになるが、証してしまうと、この本を読む面白さは半減してしまうので、ここでは止めておく。
この様なユニークな説にたどり着くまでには、梅原氏は、厳密な文献調査、史料考証をやっておられるので、思いつきでこの様な奇抜なことを書いておられるのではない。
法然の伝記の内で、何が事実で、何が脚色なのか、これも非常に判断が難しい点もある。やはり、史料の成立年代ということが考証の手がかりになるだろう。
この点で、梅原氏は、中井先生の論文等を挙げられて一定の評価をされている。
それにしても、法然の青年期に起こった悲劇が、恐らくは、その後の学問理論や浄土宗改宗に至るまでの道のりに大きな影響を与えるだろう。
佛教大学に入る前に那岐山菩提寺に参詣したことがあるが、そこの大銀杏は、法然上人お手植えという事になるが、梅原氏の説では、それも難しい事になる。
何よりも両親との別れという事が、その生涯の悲劇性を一層強めている。
法然の母親や父親の漆間氏も、秦氏という渡来系の氏族が祖であると梅原氏は述べられている。渡来系という境遇、更には、青年期の悲劇、怨霊封じの為の菩提寺での練り供養等の記述は、梅原氏の思想の原典にふれる気がすると思うのと、同時に一つの違和感を感じる。
怨霊と祟りについては、今から30年前に京都市芸術大学音楽学部に進学してトロンボーンを吹いていた先輩が合宿の時に「ウチの学長の梅原先生がいうには、・・・・」と大変、興奮していたことを想い出す。
実際に柿本人麻呂論や法然論等も梅原氏の講義を生で聞いたら洗脳されてしまうのかも知れない。
そういえば、安藤佳香先生も芸大の大学院の修士課程を出られている。その修士論文も梅原氏の存在が、その思想的基盤にあるのではと、思ってしまう。
つまり、祟り・怨霊といった日本古来の思想が、仏教思想と融合したという神仏習合のもう一つの暗い側面も浮かび上がってくる訳である。
これから『法然』の下巻も読んでみようと思う。
世界牛乳の日 ― 2008/06/01 11:26
6月1日は「世界牛乳の日」。
世界中の穀物の価格が高騰してしまっているので、輸入飼料に依存している日本の酪農は、一部の放牧農家を除いて、このままでは、存続が難しいようだ。
アメリカから輸入されるとうもろこしが、飼料用にキロ当たり30円前後の末端価格であった頃には、採算的にやって行けたが、今では、その倍の値段に膨れあがっている。
また、最近では、遺伝子組み換えでない飼料をつかう様にと生協や消費者から言われているので、こうした飼料を使えば、更に、2~3割は高くつくという。
写真は淡路島の酪農まつりの風景だが、この酪農協も今は、存続が大変だときく、飼料代を少しでも安く挙げる為に、自前の飼料工場を持っていたが、それでも原料は輸入原料なので、飼料代が大幅に上がってしまったからだ。
驚くことに乳牛が草原で食べ放題といった「牧草」も実は、アメリカやオーストラリアで生産され、青刈りされたものを電気代をかけて感想し、コンテナに詰められて大量の燃料代をかけて日本に持ち込まれたものを使用している。
淡路島でも昔は、ライグラスといった牧草を自前で生産している農家がいたり、稲ワラ等を使用していたが、土地代や労賃コスト等を考えると輸入飼料に頼らざるを得ないという。
しかし、これ程までに飼料価格が高騰してしまったので、再び自給飼料の付加価値が強まる筈だが、今度は、牧場には老人しかいないので、飼料自給等は夢のまた夢の様だ。
いずれ、最後の「牛乳の日」がやってくるのか、それとも、ASEANなどからの輸入牛乳を我々が飲む時代がやってくるのか、それは判らない。
世界中の穀物の価格が高騰してしまっているので、輸入飼料に依存している日本の酪農は、一部の放牧農家を除いて、このままでは、存続が難しいようだ。
アメリカから輸入されるとうもろこしが、飼料用にキロ当たり30円前後の末端価格であった頃には、採算的にやって行けたが、今では、その倍の値段に膨れあがっている。
また、最近では、遺伝子組み換えでない飼料をつかう様にと生協や消費者から言われているので、こうした飼料を使えば、更に、2~3割は高くつくという。
写真は淡路島の酪農まつりの風景だが、この酪農協も今は、存続が大変だときく、飼料代を少しでも安く挙げる為に、自前の飼料工場を持っていたが、それでも原料は輸入原料なので、飼料代が大幅に上がってしまったからだ。
驚くことに乳牛が草原で食べ放題といった「牧草」も実は、アメリカやオーストラリアで生産され、青刈りされたものを電気代をかけて感想し、コンテナに詰められて大量の燃料代をかけて日本に持ち込まれたものを使用している。
淡路島でも昔は、ライグラスといった牧草を自前で生産している農家がいたり、稲ワラ等を使用していたが、土地代や労賃コスト等を考えると輸入飼料に頼らざるを得ないという。
しかし、これ程までに飼料価格が高騰してしまったので、再び自給飼料の付加価値が強まる筈だが、今度は、牧場には老人しかいないので、飼料自給等は夢のまた夢の様だ。
いずれ、最後の「牛乳の日」がやってくるのか、それとも、ASEANなどからの輸入牛乳を我々が飲む時代がやってくるのか、それは判らない。
読書痴呆症候群 ― 2008/06/02 20:53
この間の週末は、久しぶりに何もせずにというか読書をして過ごした。
法然伝は非常に面白い。
私は、「読書痴呆」というか、面白い本は読み始めるとその世界に埋没してしまう。法然伝を読んでいると梅原先生の巧みな描写に引きずられるというか、あの法然が生きた、治承寿永の争乱、そして、飢饉の時代の京の都の空気(死臭や血なまぐささといったもの)の中にいる様な気がする。
読書を中断して我に返ると、その本の中の世界とこの世の世界のギャップに大きな衝撃を受けてしまう。
何か、全く違う空気がいきなり肺の中に入ってきたような違和感がある。
最近は、絵画、仏像、音楽を聴いてもこういった観想の世界に埋没する悪い癖がついてしまった。良い世界を訪問していたのであれば良いが、悪い世界の場合は、恐ろしいことになってしまう。
読書はやめにして、部屋の整理などをする。シュレッダーを購入した件については、この間書いたが、通信大学院に2002年に入学して以来6年間の貯まりに貯まったプリント類をシュレッダーで破砕していくと、驚くほど、部屋の棚のスペースが広くなっていく。
講義のレジュメ等でA4サイズで読み取り可能なものはスキャナーで読み取る。
2004年頃にかったマイミオMF-425CN(写真)は、ファックスからコピー、プリンターとして1台3役をこなし続けているが、コピーが結構、分厚い本が可能なこと、フラットベッドでの読み取り以外に、一応は、15~20枚位を順番に読み取っていく事が出来るので、結構、分量のある資料A4版を画像化することが出来る。
絵因果経の訓訳のコピー等もこれで一気に画像化成功。
あとは、フォトショップ等で自動処理で、画像ファイル変換等を行う。
驚くほど、スペースが空いていく。
残念なのは、大学院時代の修士論文中間発表会のレジュメ類は、B4サイズのコピーが多いので、これらは、画像化出来ない。貴重なものは、半分の大きさで画像化して残りは、破砕処分をするしかない。
佛教大学の通信学生さんたちは、こんなプリント類をどの様に処理・整理しているのだろう。
こういったノウハウの善し悪しがかなり、今後、学んだことが身に付くか否かにつながってくると思う。
今日は、仏教芸術コースの学友からテキスト履修についてのメールを頂いた。仏教学に取り組まれるとのこと。五島先生については、このブログでも書いているが、テキスト履修の採点は低かったが、仏教を理屈で考えてみる良いきっかけになったと思っていまでは、感謝している。
法然伝は非常に面白い。
私は、「読書痴呆」というか、面白い本は読み始めるとその世界に埋没してしまう。法然伝を読んでいると梅原先生の巧みな描写に引きずられるというか、あの法然が生きた、治承寿永の争乱、そして、飢饉の時代の京の都の空気(死臭や血なまぐささといったもの)の中にいる様な気がする。
読書を中断して我に返ると、その本の中の世界とこの世の世界のギャップに大きな衝撃を受けてしまう。
何か、全く違う空気がいきなり肺の中に入ってきたような違和感がある。
最近は、絵画、仏像、音楽を聴いてもこういった観想の世界に埋没する悪い癖がついてしまった。良い世界を訪問していたのであれば良いが、悪い世界の場合は、恐ろしいことになってしまう。
読書はやめにして、部屋の整理などをする。シュレッダーを購入した件については、この間書いたが、通信大学院に2002年に入学して以来6年間の貯まりに貯まったプリント類をシュレッダーで破砕していくと、驚くほど、部屋の棚のスペースが広くなっていく。
講義のレジュメ等でA4サイズで読み取り可能なものはスキャナーで読み取る。
2004年頃にかったマイミオMF-425CN(写真)は、ファックスからコピー、プリンターとして1台3役をこなし続けているが、コピーが結構、分厚い本が可能なこと、フラットベッドでの読み取り以外に、一応は、15~20枚位を順番に読み取っていく事が出来るので、結構、分量のある資料A4版を画像化することが出来る。
絵因果経の訓訳のコピー等もこれで一気に画像化成功。
あとは、フォトショップ等で自動処理で、画像ファイル変換等を行う。
驚くほど、スペースが空いていく。
残念なのは、大学院時代の修士論文中間発表会のレジュメ類は、B4サイズのコピーが多いので、これらは、画像化出来ない。貴重なものは、半分の大きさで画像化して残りは、破砕処分をするしかない。
佛教大学の通信学生さんたちは、こんなプリント類をどの様に処理・整理しているのだろう。
こういったノウハウの善し悪しがかなり、今後、学んだことが身に付くか否かにつながってくると思う。
今日は、仏教芸術コースの学友からテキスト履修についてのメールを頂いた。仏教学に取り組まれるとのこと。五島先生については、このブログでも書いているが、テキスト履修の採点は低かったが、仏教を理屈で考えてみる良いきっかけになったと思っていまでは、感謝している。
指ケガしました ― 2008/06/03 22:50
ディアゴスティーニのマイミュージックスタジオをずっと書店で
購入しつづけていて、ようやく19号まで来た。
シンガーソングライター(SSW6)は、機能が全て揃うとかなり、
いろいろと使えるソフトで、SSW-LITE5.0よりも高機能が期待
出来るようだが、バージョンアップをし続ける度にソフトが
重くなっていく。
40小節くらいの曲ならばなんとか可能だが、200小節などの
規模を持つクラシックの曲なんかは、無理っぽい。
機能があればあるほど、ソフトが重くなるのは仕方がない。
18号辺りで創刊号についていたバインダーが一杯になるので、
500円で2組セットのものを今日、大阪梅田の共産党系の書店
で購入した。
このバインダー、値段が安いのかすごく使いにくい。
リングが歪なので、ページがめくりにくいし、新しいものを
挟み込む時にリングのつなぎ目のギザギザが鋭利な刃物
みたいなので、指をケガしてしまった。
丸くつくっておけばスムーズにめくれるのになんで、こんな
歪な形にリングを成形するのだろうか。(理解に苦しむ)
35号まで揃うとスピーカーがもらえるそうだが、ドン臭いので
1~3号のプレゼントマークをほかしてしまったので、貰えない。
でも、別に欲しくない。
本の内容は、すごく理解が困難。
特に、最初にCD-ROMでのビデオ解説をみてから取り組めば、
良く判ると思ったら逆で非常に判りにくく混乱してしまう。
特にヒャーヒャー声のお兄ちゃんの解説ナレーションが聞き取り
難いし、段取りとかそういったものを理解しないで、原稿を読んで
いるし、収録時間の都合で省略もあるし、使いにくいので嫌に
なる。
ところが、CD-ROMのビデオ解説などほったらかして、専ら
テキストの文章をゆっくり読みながら、ソフトを操作すれば、
簡単にできることがわかった。
つまり、解説ビデオをみるだけ、時間の無断であることが
わかった。
色々と気に入らない部分があるが、ソフト自体は良いので、
早いマシンで動かした場合には、多彩な機能と演奏が期待
できそうだ。
購入しつづけていて、ようやく19号まで来た。
シンガーソングライター(SSW6)は、機能が全て揃うとかなり、
いろいろと使えるソフトで、SSW-LITE5.0よりも高機能が期待
出来るようだが、バージョンアップをし続ける度にソフトが
重くなっていく。
40小節くらいの曲ならばなんとか可能だが、200小節などの
規模を持つクラシックの曲なんかは、無理っぽい。
機能があればあるほど、ソフトが重くなるのは仕方がない。
18号辺りで創刊号についていたバインダーが一杯になるので、
500円で2組セットのものを今日、大阪梅田の共産党系の書店
で購入した。
このバインダー、値段が安いのかすごく使いにくい。
リングが歪なので、ページがめくりにくいし、新しいものを
挟み込む時にリングのつなぎ目のギザギザが鋭利な刃物
みたいなので、指をケガしてしまった。
丸くつくっておけばスムーズにめくれるのになんで、こんな
歪な形にリングを成形するのだろうか。(理解に苦しむ)
35号まで揃うとスピーカーがもらえるそうだが、ドン臭いので
1~3号のプレゼントマークをほかしてしまったので、貰えない。
でも、別に欲しくない。
本の内容は、すごく理解が困難。
特に、最初にCD-ROMでのビデオ解説をみてから取り組めば、
良く判ると思ったら逆で非常に判りにくく混乱してしまう。
特にヒャーヒャー声のお兄ちゃんの解説ナレーションが聞き取り
難いし、段取りとかそういったものを理解しないで、原稿を読んで
いるし、収録時間の都合で省略もあるし、使いにくいので嫌に
なる。
ところが、CD-ROMのビデオ解説などほったらかして、専ら
テキストの文章をゆっくり読みながら、ソフトを操作すれば、
簡単にできることがわかった。
つまり、解説ビデオをみるだけ、時間の無断であることが
わかった。
色々と気に入らない部分があるが、ソフト自体は良いので、
早いマシンで動かした場合には、多彩な機能と演奏が期待
できそうだ。
4年間稼動しましたが.....疲れました ― 2008/06/04 20:28
先日の梅雨の晴れ間に、口径80㎝の反射望遠鏡を見せてもらう機会があった。
「まだまだ、火星の模様が見えるではないか。」
早速、色鉛筆で簡単にスケッチしたものを自宅で仕上げてみたのが図。
火星には、フェニックスが軟着陸に成功して、なんと、火星の地表に氷らしきものを発見。
このニュースが、スペースシャトルの報道に隠れてしまっているが、宇宙探査史を飾る大発見なのに、この扱われ方は酷いと思う。
当初の想定では、数十㎝掘り下げてようやく氷の層に到達出来る筈だったのに直ぐ下に氷があり、それを掘り出す事に成功した。
http://www.nasa.gov/mission_pages/phoenix/images/press/rac_scoop_all_focus_color_v3.html
これから有機物の検出の実験が行われるが、「もし、何かが発見されたら」大いに期待出来る。
スペースシャトルのバカ騒ぎに隠されてしまった、もう2人の可哀想な火星の探査車、オポチュニティとスピリッツは、4年前に火星に着陸して未だに活動を続けているが、最近のニュースでは、ロボットアームのモーターが既に限界に来ていて動かなくなって来ているという。(残念だが、ご苦労様といった感じ。)
http://www.nasa.gov/mission_pages/mer/news/mer-20080423.html
今回のフェニックスは動けないので、こういった場所にこそ、ローバーが着陸、活動して欲しかった。きっと、すごいものを見つけるだろう。
「まだまだ、火星の模様が見えるではないか。」
早速、色鉛筆で簡単にスケッチしたものを自宅で仕上げてみたのが図。
火星には、フェニックスが軟着陸に成功して、なんと、火星の地表に氷らしきものを発見。
このニュースが、スペースシャトルの報道に隠れてしまっているが、宇宙探査史を飾る大発見なのに、この扱われ方は酷いと思う。
当初の想定では、数十㎝掘り下げてようやく氷の層に到達出来る筈だったのに直ぐ下に氷があり、それを掘り出す事に成功した。
http://www.nasa.gov/mission_pages/phoenix/images/press/rac_scoop_all_focus_color_v3.html
これから有機物の検出の実験が行われるが、「もし、何かが発見されたら」大いに期待出来る。
スペースシャトルのバカ騒ぎに隠されてしまった、もう2人の可哀想な火星の探査車、オポチュニティとスピリッツは、4年前に火星に着陸して未だに活動を続けているが、最近のニュースでは、ロボットアームのモーターが既に限界に来ていて動かなくなって来ているという。(残念だが、ご苦労様といった感じ。)
http://www.nasa.gov/mission_pages/mer/news/mer-20080423.html
今回のフェニックスは動けないので、こういった場所にこそ、ローバーが着陸、活動して欲しかった。きっと、すごいものを見つけるだろう。
オネーサン ― 2008/06/05 21:16
最近は、フィルムレンジファインダーカメラを持ち歩いている。何時もたむろしている大阪第3ビルB2のカメラ屋さんの前をよく通りかかるが、なんか景気が悪そうで、気の毒になる。
それで、定期的にフィルムの現像を頼んでいる。
同じビルの同じビルのB1には、「つるつる庵」というそば屋があるが、そこのご主人がカメラマニアで、このカメラ店のことを色々聞いている内、たまにDPEに出すようになってしまった。
このお店でDPEを頼むときは、必ずCD-ROMに焼いてくれる様に頼み、プリントは頼まない。結局、家で写真をデータに取り込むよりも簡単だし、パソコンにデータをコピーするだけで管理出来る。
画質は、ご覧の通りでまぁまぁ(やや階調が甘くなる)
CD-ROMで頼むようになって、大分、スペースが節約出来る。CD-ROMもデータのコピーが完了しているので、破棄して、ネガのみ保存する様にすれば、いくら撮影しても、保管スペースに困らない。
何時も、フィルム巻き上げムラがあるキエフとかクラカメでフィルム送りが悪かったり、光線漏れ、手動露光設定失敗のフィルムのDPEを依頼して大変ご迷惑をかけている。(何時も、頼みにいくとニヤニヤした顔をされる。また、酷いものを持ってきたのかなといった顔。)
今回、使用したのは、CANONのレンジファインダーA35DATELUXと言う機種。オート露出、手動ピント合わせ、手動巻き上げ、巻き戻しと30年位前のカメラでクラカメとは言わない。この機種でさえ、電池が販売されていないので、ヤフオクで大量に購入して保管している。これがなくなれば終わりである。
マネキンのオネーサンが好みのタイプだったので撮影してみた。フィルムは、コダックのなんとかいう奴(銘柄を忘れてしまった。)
それで、定期的にフィルムの現像を頼んでいる。
同じビルの同じビルのB1には、「つるつる庵」というそば屋があるが、そこのご主人がカメラマニアで、このカメラ店のことを色々聞いている内、たまにDPEに出すようになってしまった。
このお店でDPEを頼むときは、必ずCD-ROMに焼いてくれる様に頼み、プリントは頼まない。結局、家で写真をデータに取り込むよりも簡単だし、パソコンにデータをコピーするだけで管理出来る。
画質は、ご覧の通りでまぁまぁ(やや階調が甘くなる)
CD-ROMで頼むようになって、大分、スペースが節約出来る。CD-ROMもデータのコピーが完了しているので、破棄して、ネガのみ保存する様にすれば、いくら撮影しても、保管スペースに困らない。
何時も、フィルム巻き上げムラがあるキエフとかクラカメでフィルム送りが悪かったり、光線漏れ、手動露光設定失敗のフィルムのDPEを依頼して大変ご迷惑をかけている。(何時も、頼みにいくとニヤニヤした顔をされる。また、酷いものを持ってきたのかなといった顔。)
今回、使用したのは、CANONのレンジファインダーA35DATELUXと言う機種。オート露出、手動ピント合わせ、手動巻き上げ、巻き戻しと30年位前のカメラでクラカメとは言わない。この機種でさえ、電池が販売されていないので、ヤフオクで大量に購入して保管している。これがなくなれば終わりである。
マネキンのオネーサンが好みのタイプだったので撮影してみた。フィルムは、コダックのなんとかいう奴(銘柄を忘れてしまった。)
ヨーロッパでも流行。簡単携帯 ― 2008/06/08 00:10
携帯電話ではらくらくフォンベーシックを引き続き愛用している。
すごく使いやすいし、キーボードの操作も快適だ。写真が撮れなくても殆ど不自由しない。
なによりも動作がシンプルで信頼性が高く、バッテリーも長持ちのところがオキニの理由。
こうした簡単携帯がヨーロッパでも流行って来ている。
http://www.asahi.com/car/italycolumn/TKY200806050218.html
機能満載よりも使い安いものを使いたがる合理主義は、日本人よりもさすが進んでいるらしい。
僕のらくらくフォンは石けんの様なデザインで、その軽さが気に入っている。どうせなら、石けんの匂いがする香料等もついていたら、楽しいのにと思う。
すごく使いやすいし、キーボードの操作も快適だ。写真が撮れなくても殆ど不自由しない。
なによりも動作がシンプルで信頼性が高く、バッテリーも長持ちのところがオキニの理由。
こうした簡単携帯がヨーロッパでも流行って来ている。
http://www.asahi.com/car/italycolumn/TKY200806050218.html
機能満載よりも使い安いものを使いたがる合理主義は、日本人よりもさすが進んでいるらしい。
僕のらくらくフォンは石けんの様なデザインで、その軽さが気に入っている。どうせなら、石けんの匂いがする香料等もついていたら、楽しいのにと思う。
源氏物語大島本を顕微鏡観察してみると....驚くべき発見が ― 2008/06/08 10:45
昨日、午後1時30分から、京都文化博物館別館にて中古文学会関西部会第19回例会「源氏物語千年紀記念シンポジウム」が開催された。
今回のテーマは、「大島本源氏物語の再検討」
最初に京都博物館館長の神戸女子大学の北山円正館長が挨拶され、その後、本題に入った。
龍谷大学客員教授の藤本孝一氏は、「写本学」の権威であり、何万という典籍の調査、補修等を手がけられて来た。今回、京都文化博物館蔵の「大島本源氏物語」の管理・調査を担当されている。
事前に、「食い裂き」と呼ばれる紙の切り接ぎの実演等が行われた。簡単に継ぎ目が無く、紙を切ってつなぎ合わせる事が出来る。その証拠として、墨の一部が残ったり、文字が歪んだりするが、例えば、柏木巻の巻末で巻末が中途で終わっている部分があるが、その様な場合に敢えて、その様な本文であると解釈、注釈されかねない。ところが実際には改編されている場合もある。
大島本については、調査の結果、江戸時代まで何度も校訂されており、食い裂きによって本文移動、補修が生じている。
例えば柏木巻巻末の本文は、座右の源氏物語大成で、私が調査したところでは、次の通りである。(濁点を加えて、漢字を交えた文章に書きなおしてある。)
「この若君を御心ひとつにかたみとみなしたてまつる人の思ひよらぬことなれば、いと悲し。秋つかたになれば、この君はいざりなど。」
と中途で終わっている。例えば、河内本系の本文であれば、
「この君はひゐざりなどし給ふさまのいふよしもなうおかしげなれば、人目のみにもあらず。まことにいと悲しと思い聞こえ給ひて常にいたきもてあそびきこえ給う。」
別本系亜理莫本、麥生本では、
「この君、這いいざりなどし給(ふ)。」とある。
例えば、従来の国文学科の演習では、清水好子先生が、「この部分は大島本は敢えて途中で切断された様に終わって余韻をもたせているのですね。河内本では、より説明的な解釈が加えられており、これが、この系統の本文の特色なのです。別本系については、様々な例があり、判断しかねますが、末流の本には、この様に書かれているものもあったのでしょう。」と言われた事が私の口伝聞き書きに記録されているが、実際の大島本をみない限りは、これが正論と言え、例えば、拙論の「大和物語の切断形式」に挙げた源氏物語の若菜下や夢浮橋巻にもこの様な解釈が成り立つ。
ところが!!!
大島本のこの部分を顕微鏡で観察してみると、
「あるではないか。」
非常に微細であるが削除痕が認められる。更に、削除、切り取りした後を「食い裂き」法で殆ど見た目にはわからぬ様にされている。
光線で透かしてみると紙質の違い(繊維の方向が微妙にことなることや色合い等の違い)が認められる。
この写本を親本として、書写する人は、まして、老眼の定家卿等は、なんの疑いもなく、そのまま、末尾部分が欠落した形が正本として書写した可能性もある。
大島本も大部分が青表紙系本文によっているが部分的には、河内本や三条西家本が混合された部分がある。従って、もともと大島本には、河内本や別本系の本文が採用されているが、他の青表紙系本文では、末尾が切断されているので、青表紙本としての統一性をもたせる為にこの部分を削除した可能性も考えられる。
いずれにもしても現代の我々には、判断がつかないところが恐ろしい。
藤本孝一先生は、「皆様方が目の前にしているこの本の姿以外は信じてはなりません。削除、ミセケチといったものを一端は無視して、写本として仕上がった姿が正しいと考える以外にありません。」
つまりは、どの写本もそれだけの存在では、「正本」であるという事だ。
次に法政大学の加藤昌嘉氏が、「本文研究をしていて思うこと。」、慶応大学の佐々木孝浩氏が「二つの定家本源氏物語の再検討」、大阪大学の加藤洋介氏が「大島本源氏物語の本文成立事情、若菜下巻の場合」についてを発表されたが、加藤昌嘉氏は、次の様な疑問点を提示された。
①明融本は、定家本の臨模本であると断定出来るのであろうか。
②定家本といっても定家が書いたのは本の一部であり、右筆が書いた本も定家本と言えるのか。
③池田亀鑑の源氏物語大成以来、現代の注釈書等では、大島本が定家本、明融本に次ぐ重要伝本として扱い、底本としているが、果たして、大島本をそこまで信用する事が出来るのか。
④定家本、明融本、大島本以外の青表紙本の扱い、そして、青表紙本として分類されることに意義。
⑤明融本と大島本を比較して2種類の定家本が存在したとする仮説は正しいのか。
等々の疑問点を出された。後の二氏もそれぞれの立場から大島本についての見解を示されたが、いずれも、大島本の絶対的な信頼性を否定するものであった。特に、大阪大学の加藤氏は、大島本は、室町期に数々行われた源氏物語の書写作業の中で、特に三条西家本の様な当時、一般的であった本文をベースに、河内本や別本系の本文を加えた混合本文であると話されていた事が印象に残った。
今回のテーマは、「大島本源氏物語の再検討」
最初に京都博物館館長の神戸女子大学の北山円正館長が挨拶され、その後、本題に入った。
龍谷大学客員教授の藤本孝一氏は、「写本学」の権威であり、何万という典籍の調査、補修等を手がけられて来た。今回、京都文化博物館蔵の「大島本源氏物語」の管理・調査を担当されている。
事前に、「食い裂き」と呼ばれる紙の切り接ぎの実演等が行われた。簡単に継ぎ目が無く、紙を切ってつなぎ合わせる事が出来る。その証拠として、墨の一部が残ったり、文字が歪んだりするが、例えば、柏木巻の巻末で巻末が中途で終わっている部分があるが、その様な場合に敢えて、その様な本文であると解釈、注釈されかねない。ところが実際には改編されている場合もある。
大島本については、調査の結果、江戸時代まで何度も校訂されており、食い裂きによって本文移動、補修が生じている。
例えば柏木巻巻末の本文は、座右の源氏物語大成で、私が調査したところでは、次の通りである。(濁点を加えて、漢字を交えた文章に書きなおしてある。)
「この若君を御心ひとつにかたみとみなしたてまつる人の思ひよらぬことなれば、いと悲し。秋つかたになれば、この君はいざりなど。」
と中途で終わっている。例えば、河内本系の本文であれば、
「この君はひゐざりなどし給ふさまのいふよしもなうおかしげなれば、人目のみにもあらず。まことにいと悲しと思い聞こえ給ひて常にいたきもてあそびきこえ給う。」
別本系亜理莫本、麥生本では、
「この君、這いいざりなどし給(ふ)。」とある。
例えば、従来の国文学科の演習では、清水好子先生が、「この部分は大島本は敢えて途中で切断された様に終わって余韻をもたせているのですね。河内本では、より説明的な解釈が加えられており、これが、この系統の本文の特色なのです。別本系については、様々な例があり、判断しかねますが、末流の本には、この様に書かれているものもあったのでしょう。」と言われた事が私の口伝聞き書きに記録されているが、実際の大島本をみない限りは、これが正論と言え、例えば、拙論の「大和物語の切断形式」に挙げた源氏物語の若菜下や夢浮橋巻にもこの様な解釈が成り立つ。
ところが!!!
大島本のこの部分を顕微鏡で観察してみると、
「あるではないか。」
非常に微細であるが削除痕が認められる。更に、削除、切り取りした後を「食い裂き」法で殆ど見た目にはわからぬ様にされている。
光線で透かしてみると紙質の違い(繊維の方向が微妙にことなることや色合い等の違い)が認められる。
この写本を親本として、書写する人は、まして、老眼の定家卿等は、なんの疑いもなく、そのまま、末尾部分が欠落した形が正本として書写した可能性もある。
大島本も大部分が青表紙系本文によっているが部分的には、河内本や三条西家本が混合された部分がある。従って、もともと大島本には、河内本や別本系の本文が採用されているが、他の青表紙系本文では、末尾が切断されているので、青表紙本としての統一性をもたせる為にこの部分を削除した可能性も考えられる。
いずれにもしても現代の我々には、判断がつかないところが恐ろしい。
藤本孝一先生は、「皆様方が目の前にしているこの本の姿以外は信じてはなりません。削除、ミセケチといったものを一端は無視して、写本として仕上がった姿が正しいと考える以外にありません。」
つまりは、どの写本もそれだけの存在では、「正本」であるという事だ。
次に法政大学の加藤昌嘉氏が、「本文研究をしていて思うこと。」、慶応大学の佐々木孝浩氏が「二つの定家本源氏物語の再検討」、大阪大学の加藤洋介氏が「大島本源氏物語の本文成立事情、若菜下巻の場合」についてを発表されたが、加藤昌嘉氏は、次の様な疑問点を提示された。
①明融本は、定家本の臨模本であると断定出来るのであろうか。
②定家本といっても定家が書いたのは本の一部であり、右筆が書いた本も定家本と言えるのか。
③池田亀鑑の源氏物語大成以来、現代の注釈書等では、大島本が定家本、明融本に次ぐ重要伝本として扱い、底本としているが、果たして、大島本をそこまで信用する事が出来るのか。
④定家本、明融本、大島本以外の青表紙本の扱い、そして、青表紙本として分類されることに意義。
⑤明融本と大島本を比較して2種類の定家本が存在したとする仮説は正しいのか。
等々の疑問点を出された。後の二氏もそれぞれの立場から大島本についての見解を示されたが、いずれも、大島本の絶対的な信頼性を否定するものであった。特に、大阪大学の加藤氏は、大島本は、室町期に数々行われた源氏物語の書写作業の中で、特に三条西家本の様な当時、一般的であった本文をベースに、河内本や別本系の本文を加えた混合本文であると話されていた事が印象に残った。
ようやく山梨到着、東海地区は遠い。 ― 2008/06/09 11:54
源氏絵巻も餓鬼草紙も地獄草紙ももともと絵巻ではなかった? ― 2008/06/09 23:03
6月8日付の「源氏物語大島本を顕微鏡観察してみると」の記事
http://fry.asablo.jp/blog/2008/06/08/3567640
で取りあげた龍谷大学客員教授の藤本孝一先生が書かれた『日本の美術№505 文書・写本の作り方』をジュンク堂書店で購入した。
関西大学の田中登教授が紹介された中で、この本の事を取りあげられていたので、早速、インターネットで検索し、この本にたどり着いた。
この本は、非常に革新的である。日本の絵巻物美術史の基本概念が覆される可能性さえある。
それは、三宝絵詞等の例は知られていても餓鬼草紙や国宝源氏物語絵巻、春日権記絵、病草紙、当麻曼荼羅縁起等の従来、詞書と絵の部分が連続していたとされている作品の大部分が詞書と絵画の部分が分断されていた形で、当初は存在していたと書かれている。
これらは、この間の記事で紹介した喰い裂きの技術で、詞書と絵画の部分が結合された。
その時代は、源氏物語絵巻では、近世初期まで下る可能性があるという。また、綴じ穴、折り線等から見て、これらの絵巻ものは、絵巻物ではなくて冊子本であった可能性があるという。
私の卒業論文では、藤本先生の様な書誌学的な考察によらず、例えば、これも以前、書いた様に源氏物語絵巻の詞書本文が別本系の保坂家本をベースに加工が施されたのか、あるいは、系統が近い本文を有する祖本に由来すると推定しており、更に、先日の源氏物語千年紀展でも展示されている通り、保坂家本は、小型の升形本であり、こうした形態は、絵冊子と詞書を同時に別々の場所で開いて鑑賞するのに便利な様に工夫されたとの結果だとした。
また、玉上氏の源氏物語音読論、清水好子氏の場面と空間の表現論等から、源氏物語の本文自体が絵冊子と同時に鑑賞されるべく制作された可能性を示唆した。
藤本先生による指摘は、私の論考には追い風になるものと考えている。
また、浄土学関係の文献についても触れられており、選択本願集(廬山寺本)の当初の装幀について考察では、この選択集は、全面相へぎされており、本紙を剥がした2枚にされている。これによってより巻子本等より大きなサイズの装幀への変更が可能になる。
相へぎについては、今から、30年前に、関西大学の学生時代に神堀忍先生からも万葉集の写本でその様なことが行われているものがあると聞いた事を記憶している。
そんなことはどうでも良く、結局、私たちが、絵巻物や巻子本として認識しており、それがより古態をとどめているという認識は、こうした写本学の進歩によって全く改めなければならない段階にやってきている。
特に源氏物語絵巻の享受については、これまでは、その様なイメージが前提にあっただけに大きな衝撃であり、また、そうなれば、国宝源氏物語の詞書は、詞書ではなくて、立派な物語本文の写本であったという恐るべき認識が成り立ってくるのである。
そうなれば、源氏物語の成立論の研究も一つの突破口が開けた事になるのではないだろうか。
http://fry.asablo.jp/blog/2008/06/08/3567640
で取りあげた龍谷大学客員教授の藤本孝一先生が書かれた『日本の美術№505 文書・写本の作り方』をジュンク堂書店で購入した。
関西大学の田中登教授が紹介された中で、この本の事を取りあげられていたので、早速、インターネットで検索し、この本にたどり着いた。
この本は、非常に革新的である。日本の絵巻物美術史の基本概念が覆される可能性さえある。
それは、三宝絵詞等の例は知られていても餓鬼草紙や国宝源氏物語絵巻、春日権記絵、病草紙、当麻曼荼羅縁起等の従来、詞書と絵の部分が連続していたとされている作品の大部分が詞書と絵画の部分が分断されていた形で、当初は存在していたと書かれている。
これらは、この間の記事で紹介した喰い裂きの技術で、詞書と絵画の部分が結合された。
その時代は、源氏物語絵巻では、近世初期まで下る可能性があるという。また、綴じ穴、折り線等から見て、これらの絵巻ものは、絵巻物ではなくて冊子本であった可能性があるという。
私の卒業論文では、藤本先生の様な書誌学的な考察によらず、例えば、これも以前、書いた様に源氏物語絵巻の詞書本文が別本系の保坂家本をベースに加工が施されたのか、あるいは、系統が近い本文を有する祖本に由来すると推定しており、更に、先日の源氏物語千年紀展でも展示されている通り、保坂家本は、小型の升形本であり、こうした形態は、絵冊子と詞書を同時に別々の場所で開いて鑑賞するのに便利な様に工夫されたとの結果だとした。
また、玉上氏の源氏物語音読論、清水好子氏の場面と空間の表現論等から、源氏物語の本文自体が絵冊子と同時に鑑賞されるべく制作された可能性を示唆した。
藤本先生による指摘は、私の論考には追い風になるものと考えている。
また、浄土学関係の文献についても触れられており、選択本願集(廬山寺本)の当初の装幀について考察では、この選択集は、全面相へぎされており、本紙を剥がした2枚にされている。これによってより巻子本等より大きなサイズの装幀への変更が可能になる。
相へぎについては、今から、30年前に、関西大学の学生時代に神堀忍先生からも万葉集の写本でその様なことが行われているものがあると聞いた事を記憶している。
そんなことはどうでも良く、結局、私たちが、絵巻物や巻子本として認識しており、それがより古態をとどめているという認識は、こうした写本学の進歩によって全く改めなければならない段階にやってきている。
特に源氏物語絵巻の享受については、これまでは、その様なイメージが前提にあっただけに大きな衝撃であり、また、そうなれば、国宝源氏物語の詞書は、詞書ではなくて、立派な物語本文の写本であったという恐るべき認識が成り立ってくるのである。
そうなれば、源氏物語の成立論の研究も一つの突破口が開けた事になるのではないだろうか。
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