今に及んで2009/01/13 22:02

PSPに青空文庫リーダーをインストールして、渋谷先生校注の源氏物語本文、与謝野晶子の現代語訳を交互に読むスタイルで源氏物語を読み進んでおり、ほぼ半ばまで読み終えたところである。

研究を離れて読む源氏物語は非常に新鮮で自由に読める。むしろ、そうして初めて理解出来たこともある。

古典は、既に幾つも優れた注釈書が出ているので、それらを参考に正確に意味を理解して、読んでいくのが基本であると思う。

大学にいた頃は、電子テキスト化した本文を様々な方法で加工して分析等を行い、計量国語学的な領域を開拓しようとしたが、徒労に終わった。結局、現状でいくら特異性を発見したからといって、その理由づけとなると、その根拠となる資料は、殆ど出てこないからである。

昨年は、源氏物語千年紀で大島本否定論の研究発表や、別本系本文の発見と見直し等が行われたが、時代が遡っても精々が鎌倉中期から後期にかけてであり、源氏物語の本文が完成してから200年は経過した時代のものである。

写本で流布している平安期の文学作品は、原著に近いイメージを求めることも難しい。日記等は、その様な可能性もあるが、物語は、その娯楽的な正確から、書写、流布と制作作業が同時進行した可能性が多く、祖本というのを定めること自体も困難である。

計量学的な方法で、ある巻に特徴的な性質が見つかったからといっても、それが、オリジナル作品の特徴を示しているとは限らない。書写・写本・流布・時代伝播の中間以降の段階で、ある人物が様々な本文を総合して混合本文を作り、それが、後代の写本に大きな影響を与えたことも考えられる。

こうして考えてみると、注釈書や源氏物語成立した同時代の資料等はともかく、源氏物語の姿を追い求めるには、現在、もっとも一般的とされる系統の本文を底本にして評価の高い先生が監修した活字化された注釈・現代語訳本文を精密に読み進めていく方が、収穫があることがようやく、今に及んで判ってきた。

最近の国文学を専攻している学生の傾向としては、卒論を書く為に作品を読み、ひどい場合には、その一部しか読んでいないのに論文を書いている人がいる。大学院の修士課程でもその様な人物が書いたとみられる論文に遭遇する。

源氏物語が好きで、研究など抜きにして少なくともこの物語を4~5回は全編を読破して、尚かつ疑問なところが生じた場合に研究に取りかかる資格があり、その結果として論文が記述されるべきだ。

特に最近の傾向としては、奇抜な観点からの問題点を提起して学会受けを狙うような研究発表を行う先生もいるが、独創的なのか、それともただ単に奇抜なのかの区別は難しい。こうした場合にやはり、この作品を何度も読んでいる人とそうでない人との差が出てくるのだと思う。作品を何度も読んでいる内に、ある種の作品に対する良識というものが、それぞれに出来上がってくる。その良識のフィルターをかけてなおかつ、妥当性があるという問題提起を行って初めて、源氏物語の理解と研究が進歩するのだと思う。

その様な考えを昔、関西大学時代に師事した万葉集の木下正俊先生からうかがったことを記憶している。その時は、「なんて、退屈なんだろう。」と思ったが、結局、試行錯誤を重ねてある程度、年輪を経てようやく悟ることなのだと思う。

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