こういった本で学ばされる学生さんの身にもなって欲しい2009/03/16 23:26

 帰宅途中に阪急が経営する本屋で購入。価格は、2千円。有斐閣の人文・社会学系の大学テキストである。この手の本は、教授先生が概論の授業等で「手抜き」をする為に使用する教科書である。佛大の社会学部のテキスト履修の約6割程度が、有斐閣のこの手のテキストであった。

 手抜き用なので、こうした書物を使用してテキスト履修を余儀なくされる学生さんは可哀想だ。(自分もそうだった)

 しかし、有斐閣の本は、この手の非創造・非学問的な書籍にしたら、良くまとまっており、内容も面白いこともたまにはある。この本もサイバー大学学長先生の吉村作治先生の編になるもので、一般の考古学概論の本とは異なっている。

 佛大の文学部人文学科のテキスト履修で「学生を馬鹿にしているんか。」と青筋を立てて怒り狂わされたのが吉川弘文館の『日本史概論』で、これは、高校の教科書以下である。『新しい日本史』よりも、もっと低劣だ。小学校の時にはイリン・セガールの人間の歴史、高校までにヘーゲル、ウエルズ、トインビーの著作を読破した私にとって、これだけで、落胆というか、存在自体が惨めに思えた程であった。まず、歴史というか、人文学の研究対象自体を馬鹿にしている。「歴史事象には、一般論はなく、個々の特殊な事例の積み重ねである。」ということなので、概説で歴史を解説すること自体が意味がないのである。

 この『世界考古学』は、その様な愚行はしていない。例えば、中国考古学では、確かに新石器時代の遺跡の発掘例や図面等を載せているが、「新石器時代の遺跡は、この様な傾向を有している。」風の解説は一切されていない。あくまでも発掘調査例である。

 むしろ、仮に家が大金持ちで、中国政府とコネがあり、中国の遺跡調査を行う場合には、中国のどの様な役所にコンタクトをとったら良いのか、そういった実際の知識の一部が公開・解説されている。また、東南アジアの遺跡調査も同様であり、まず、遺跡の調査よりも、そこで暮らしている人々の生活文化にどの様に順応していくのか。また、東南アジアの考古学の日本語による解説書は殆どないが、どの様にして情報を入手していけば良いのか。この様に「個々の事例調査に必須の基礎知識」が記述されているのである。

 人文学は「概論学問」であると言われて来た。
 身近な例で言えば、源氏物語を岩波大系や小学館、新潮の活字・注釈本で読むのは、まさに、その象徴である。源氏物語を青表紙本、河内本、別本系と分類を行う分類方法は、文献学であるが、その分類に基づいて把握しようとするのも一見アカデミックに見えるが、全然、本質的には変わらない。つまり、「概論的」である。

 源氏物語千年紀で中古文学会が京都で開催されたが、その時に、「もう、青表紙本等と分類するのは、止めましょうや。」とK先生がおっしゃられた。(源氏物語)といっても無数の『源氏物語』が存在するのである。それぞれ幾星霜を経てきた和本・写本を読むことで、『源氏物語』の固有名詞としての存在がようやく主張され、初めて、私たちは、「物語の真髄」に入れるのである。 この本文は青表紙系であるとか別本系であるとか、そういう見方は、国立大学の天下りの先生方で占められている中流以下の私学で権威・秩序を維持する為に源氏物語研究が概論化されて久しく続けられて来たのである。

 考古学でも1つの遺跡が、「これが弥生時代の遺跡」であると、教育委員会等では、概論・一般化したがる。もう30年以上も昔。私が中学の時に加茂遺跡を調査して、その図面を元に住居遺跡の復元を行おうとクラスの文化祭に提案したことがある。なんと旧石器時代や縄文時代風の石器も発見、展示された。学年主任の先生がキョウイク委員会の先生と相談して、「加茂遺跡は、弥生時代の集落の筈だから、これらの展示は止めておきましょう。」と言われて、「弥生時代の遺物」のみの展示となった。ところが、それから30年が経過して、この遺跡は、実は、旧石器時代の遺物を含む複合遺跡であることが明らかにされたのである。物事を一般化・常識・概論的に捉えること、天下り的根性、そうしたことが、人文学の研究や学問を腐敗堕落したものにしている。

 この本は、そうした中で、「個」として研究対象を認識する大切さを古今東西を問わずに教えてくれているのである。

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