何が、「サムライJAPAN」だ。2009/03/18 22:17

 WBC日本対韓国戦の結果が、帰宅中に電車内の人が読んでいるスポーツ紙に既に掲載されている。

 ダルビッシュが打たれたことよりも、イチローの不調の方を悪く書いている新聞が多い。

 顔をしかめてサラリーマンのオジサンが広げている新聞を顔が真っ黒けでスポーツのし過ぎ(恐らく野球か)で痩せている少年が覗き込んでいる。
 「なんで、イチローばかり悪者扱いされるやろうか?」と言いたそうである。

 少年はオジサンが降りると、5年3組のお別れの文集(恐らくクラスの仲間と作ったのだろう。)を屈託のない笑顔で読んでおり、先ほどの暗い表情はどこかに消えてしまった。


 こうした光景をみると、「坊や!これが日本の兵隊さんだ。覚えておくんだぞ。」と終戦後、アメリカ占領軍の進駐を控えて、天皇陛下の御紋章が刻まれている銃身を鏨で削り落としている兵隊を目の前にしながら、少年に話しかけている老人の姿が浮かんできた。

 『折口信夫の晩年』の著者、岡野弘彦氏が作品の中で書いていた光景である。

 実に悔しいが、韓国人にとっても、日本に負けることは、人間の存在そのものが否定される程、悔しいことなので、愛国心をかけて、選手は日本に、それこそ必死に立ち向かっていることを日本人は忘れて、油断していたのだ。

 民族の気概を賭けた、これは戦いである。そうして、1000年以上の歴史を持つ、日本と朝鮮との宿命的対決に今回は負けたのである。

 ダルビッシュの投げたボールには失投というものはなく、全て指示された通りの投球だ。つまり、ダルビッシュがどのコースがボールを投げてくるのか全て読まれていた。それ程、韓国人のバッターには迷いがなかった。

 日本人には、やはり、「皇国の興廃この1戦にあり!」」といった覚悟が欠けており、イチローの表情にも迷いがみられていた。

 何が、「サムライJAPAN」だ。 

 日本人の勝負弱さは、太平洋戦争の後半以降、顕著となっている。命を賭けた戦いであるのだが、何か、迷いというものが感じられ続けている。

 それは、こうした国運をかけた戦(いくさ)に、象徴される鎌倉武士以来の本地垂迹信仰に基づく、日本人の精神力というものが、今や失われてしまったことが、この国の60年間の敗北の歴史につながっているのだと思う。

 技術力で負けたというよりもやはり、国家が一丸となって団結する精神力というものがなくなっている為に、日本人が弱くなってしまったのだと少年の表情をみていて感じた次第である。

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