私の声が聞こえますか? ― 2009/04/03 09:16
NHKスペシャル「私の声が聞こえますか。」を録画したものをみて、久しぶりに面白いと思った。
こうしたTV番組が誇張等もあるので、どこまでが事実であるかという問題点もあるが、報道されている通りに受け止めると、
○脳幹部分及び延髄系統が健在で、それ以外の脳の部位が障害(器質的障害も含む)を受けていて植物人間になっている場合でも、治療によって症状が改善される可能性がある。
といった趣旨の番組であったと思う。
この場合に共通しているのは、脳幹部分への刺激(薬剤、電気、末梢神経からの伝達信号の強化)等によって、失われている大脳の中の論理・コミュニケーション回路が再生・修復されるということである。
従って、調理師のお兄ちゃんのケースの様に日常会話や論理機能が回復しても記憶は喪失されたままとなる。つまり、記憶自体は、パソコンでのリカバリーと同様に失われてしまう訳である。
電気刺激の場合は、結構、ハードな手術が必要になるが、他の治療法では、患者への負担が低いので、認知症や他の神経障害のリハビリにも応用できそうだ。また、健常者でも、こういった刺激を受けることで更に大脳を活性化させ、学力・能力を挙げることが出来る様になるかも知れない。
脳幹部分は、これまでは、身体の運動機能(神経やリンパ節)に基本機能を維持させる為に電気信号を神経系を使って伝達するのがメインの働きとみられて来たが、今回の番組で新たに認識されたのは、生体エネルギー(イオンエネルギー)を電気エネルギーへと変換して、脳に「電源」を供給し、更に、機能拡張・維持(蘇生・再生)を行う働きを有していることであり、これは画期的なことであると思う。
更に研究が進めば、脳幹部分への刺激によって、これまで判らなかった潜在能力を発揮出来る様になるだろう。
聖書には、イエスや聖人達が、身体の機能が麻痺した人や寝たきりの人の頭部を撫でることによって、奇跡的な回復を遂げたケースが記述されているが、これも同様な刺激治療が行われた可能性が高い。
この場合は、特に脳幹からの発生信号を手・指等の神経系を使って外部に強力に伝達する能力を会得した修行者が行っていると考えられる。つまり、修行によって脳幹エネルギーを強化すれば、自らの脳の機能強化に加えて、「治療」が行えるレベルに達っするのではないだろうか。
TV番組でも患者の身体をひたすら擦る場面がみられたが、これは、皮膚刺激を与えている以外に、施術者から発散されるエネルギー信号を無意識の内に患者に伝達しているのかも知れない。
だから、こういった治療行為を研究する場合には、施術者についても脳神経電流を測定することも有効かも知れない。
最近になって一般人でも個人レベルで基幹脳神経電流の状態を知ることができるデバイスが発売されている。ゲーム・遊技用だが、基幹脳神経トレーニングにも応用出来そうだ。
http://video.watch.impress.co.jp/docs/parts/20090324_76281.html
これは、「脳波マウス」と呼ばれる製品だが、実際に取り出しているのは、大脳からの信号ではなくて基幹神経からの電流であると考えられる。このエネルギーを修練を積めば強化、コントロール可能であるという事実を示している。
仏教サイエンスの考え方から言えば、『天台小止観』(岩波文庫)の第9章に記述されている「修止観法門 治病患」が該当する。
『天台小止観』には、禅定による修行法とその効果が論証されている非常に優れた書物である。禅定の修行をつむことは、脳から指先まで端々の身体の機能をコントロールする脳幹部を自律的に機能させられる様にする再生・蘇生作業そのものなのである。
古代世界において宗教者が医療の現場で活躍していたのは、この様に、何も迷信であったからではなくて、合理的なのである。それをようやく現代医療サイエンスは、実証しようとしているのである。
こうしたTV番組が誇張等もあるので、どこまでが事実であるかという問題点もあるが、報道されている通りに受け止めると、
○脳幹部分及び延髄系統が健在で、それ以外の脳の部位が障害(器質的障害も含む)を受けていて植物人間になっている場合でも、治療によって症状が改善される可能性がある。
といった趣旨の番組であったと思う。
この場合に共通しているのは、脳幹部分への刺激(薬剤、電気、末梢神経からの伝達信号の強化)等によって、失われている大脳の中の論理・コミュニケーション回路が再生・修復されるということである。
従って、調理師のお兄ちゃんのケースの様に日常会話や論理機能が回復しても記憶は喪失されたままとなる。つまり、記憶自体は、パソコンでのリカバリーと同様に失われてしまう訳である。
電気刺激の場合は、結構、ハードな手術が必要になるが、他の治療法では、患者への負担が低いので、認知症や他の神経障害のリハビリにも応用できそうだ。また、健常者でも、こういった刺激を受けることで更に大脳を活性化させ、学力・能力を挙げることが出来る様になるかも知れない。
脳幹部分は、これまでは、身体の運動機能(神経やリンパ節)に基本機能を維持させる為に電気信号を神経系を使って伝達するのがメインの働きとみられて来たが、今回の番組で新たに認識されたのは、生体エネルギー(イオンエネルギー)を電気エネルギーへと変換して、脳に「電源」を供給し、更に、機能拡張・維持(蘇生・再生)を行う働きを有していることであり、これは画期的なことであると思う。
更に研究が進めば、脳幹部分への刺激によって、これまで判らなかった潜在能力を発揮出来る様になるだろう。
聖書には、イエスや聖人達が、身体の機能が麻痺した人や寝たきりの人の頭部を撫でることによって、奇跡的な回復を遂げたケースが記述されているが、これも同様な刺激治療が行われた可能性が高い。
この場合は、特に脳幹からの発生信号を手・指等の神経系を使って外部に強力に伝達する能力を会得した修行者が行っていると考えられる。つまり、修行によって脳幹エネルギーを強化すれば、自らの脳の機能強化に加えて、「治療」が行えるレベルに達っするのではないだろうか。
TV番組でも患者の身体をひたすら擦る場面がみられたが、これは、皮膚刺激を与えている以外に、施術者から発散されるエネルギー信号を無意識の内に患者に伝達しているのかも知れない。
だから、こういった治療行為を研究する場合には、施術者についても脳神経電流を測定することも有効かも知れない。
最近になって一般人でも個人レベルで基幹脳神経電流の状態を知ることができるデバイスが発売されている。ゲーム・遊技用だが、基幹脳神経トレーニングにも応用出来そうだ。
http://video.watch.impress.co.jp/docs/parts/20090324_76281.html
これは、「脳波マウス」と呼ばれる製品だが、実際に取り出しているのは、大脳からの信号ではなくて基幹神経からの電流であると考えられる。このエネルギーを修練を積めば強化、コントロール可能であるという事実を示している。
仏教サイエンスの考え方から言えば、『天台小止観』(岩波文庫)の第9章に記述されている「修止観法門 治病患」が該当する。
『天台小止観』には、禅定による修行法とその効果が論証されている非常に優れた書物である。禅定の修行をつむことは、脳から指先まで端々の身体の機能をコントロールする脳幹部を自律的に機能させられる様にする再生・蘇生作業そのものなのである。
古代世界において宗教者が医療の現場で活躍していたのは、この様に、何も迷信であったからではなくて、合理的なのである。それをようやく現代医療サイエンスは、実証しようとしているのである。
近現代の法制度の仮面の下の残虐性と悪夢 ― 2009/04/03 23:37
『拷問と処刑の西洋史』(浜本隆志,2007,新潮選書)
関西大学の先生(文学部教授)の本である。浜本先生は、ドイツ文化論を専攻されている。
内容的には、残虐な図画や記述もみられるが、猟奇的趣味をそそる程ではない。結局、この本は、中世ドイツ・オーストリア、神聖ローマ帝国(11世紀から18世紀位、マリア・テレジアによる刑法まで)にかけての刑法・刑罰史を文化的背景からみたものである。
様々な極刑について述べられているが、例えば、車裂き刑の影には、古代ゲルマンの太陽信仰が、絞首刑には、樹木信仰が、火あぶりには、聖火信仰等、キリスト教以前の古代ゲルマンに遡る残虐な残影が、「負の儀式」の背後に見え隠れするのである。
宗教裁判から発達した西洋世界における裁判の歴史が近現代の法制度の仮面を被っても今なお、残虐さをその背後に保ち続けている有様がマリア・テレジアが制定した拷問や処刑に関する規定に見え隠れしている。
こうした「負の儀式」の側面は、結局、ナチスによるユダヤ人大量殺戮にまで、結びついていくのである。
私は、法律や裁判が大嫌いである。正義の仮面を被りながらも、こうした拷問、極刑の残虐性を有しているからである。それは、現代法制度にも保たれているのである。
裁判員制度では、効率的な裁判を進める為に検察側では、犯罪の立検についてスピーディ(タイムリー)に行う為に、あらゆる科学捜査を動員、少しでも早く犯人の自白に結びつける為に取り調べ制度の「改善」を進めている。中には拘束具や恫喝、暴力による自白強要等のケースも報告されている。正義、国民による自主的な裁判の為に、憐れな被疑者が犠牲になるのである。
こうした本を読んで、やはり、裁判員制度の採用はやむを得ずとしながらも、拙速による誤審が取り返しのない過ちに結びつかない様に、死刑制度を廃止しなければならないと思う。
そういった意味でこの本は反面教師なのである。
関西大学の先生(文学部教授)の本である。浜本先生は、ドイツ文化論を専攻されている。
内容的には、残虐な図画や記述もみられるが、猟奇的趣味をそそる程ではない。結局、この本は、中世ドイツ・オーストリア、神聖ローマ帝国(11世紀から18世紀位、マリア・テレジアによる刑法まで)にかけての刑法・刑罰史を文化的背景からみたものである。
様々な極刑について述べられているが、例えば、車裂き刑の影には、古代ゲルマンの太陽信仰が、絞首刑には、樹木信仰が、火あぶりには、聖火信仰等、キリスト教以前の古代ゲルマンに遡る残虐な残影が、「負の儀式」の背後に見え隠れするのである。
宗教裁判から発達した西洋世界における裁判の歴史が近現代の法制度の仮面を被っても今なお、残虐さをその背後に保ち続けている有様がマリア・テレジアが制定した拷問や処刑に関する規定に見え隠れしている。
こうした「負の儀式」の側面は、結局、ナチスによるユダヤ人大量殺戮にまで、結びついていくのである。
私は、法律や裁判が大嫌いである。正義の仮面を被りながらも、こうした拷問、極刑の残虐性を有しているからである。それは、現代法制度にも保たれているのである。
裁判員制度では、効率的な裁判を進める為に検察側では、犯罪の立検についてスピーディ(タイムリー)に行う為に、あらゆる科学捜査を動員、少しでも早く犯人の自白に結びつける為に取り調べ制度の「改善」を進めている。中には拘束具や恫喝、暴力による自白強要等のケースも報告されている。正義、国民による自主的な裁判の為に、憐れな被疑者が犠牲になるのである。
こうした本を読んで、やはり、裁判員制度の採用はやむを得ずとしながらも、拙速による誤審が取り返しのない過ちに結びつかない様に、死刑制度を廃止しなければならないと思う。
そういった意味でこの本は反面教師なのである。


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