一抹の寂しさと惨めさ2009/04/05 23:24

FZ28で撮影
 「桜兄弟」というわけでもないが、この銅像は、関大に私がいた頃からずっと存在し続けている。

 桜の花の色が周囲に散乱して、まるでフィルターをかけたようで幹に色をみてもセピア色っぽい感じだが、別になにか細工をした訳でもない。

 関西大学、毎年、スプリングフェスティバルに出かける度に想い出の場所が破壊しつくされているのが判る。昔日への執着のあまり、現在の関大の姿を素直にみようとしないというのもあんまり感心できないので、これからは、考えを変えていくことにする。

 今日は、この大学の卒業生が大学を訪れても良い日となっている。昭和中期に卒業された人、私の様に昭和末期に卒業した人、あるいは、平成になって卒業された人、つい昨年卒業された人、それぞれの「関大の原風景」を持っている。それは、心の中にしっかりと刻みつけている風景である。

 大学で思いっきり勉学や遊びに友人達と興じた人は、その「原風景」は、豊かで鮮やかである。それは、1つの「心的風景」でもあり、「現象風景」とは、別個のものであるようだ。

 私は、大学4年の時に折角決まった内定先(印刷会社の営業)が期日までに、自動車免許がとれなかったので、取消になって、1年留年をしたが、友人達がみんないなくなった大学は、抜け殻の様で、その時、既に「心的風景」は消え去っている。また、現実に目を背ける傾向が私はあり、友人も少なかったので、この「心的風景」も希薄である。

 しっかり、「心的風景」を持ち続けている人は、大学は全く様変わりしてしまっても、楽しそうに、旧友達と談話している。また、1人で感慨に耽っている人もいる。

 でも、私は、そういった中に入っていけない寂しさを毎年、このスプリングフェスティバルの日に感じ続けているのである。

 私は、どこにいても駄目なのである。

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