白坂氏の「言葉のエロス」 ― 2009/05/06 19:17
今回で何回目だろうか、「語り工房」の「万葉の風シリーズ」(4月27日東京で公演、5月6日午後4時からラジオNIKKEIでオンエアー)
ラジオNIKKEIのインターネット放送で視聴し、パソコンの音声から超録というソフトでエアーチェックした。
前回のオンエアーは、たしかお正月の放送ではなかったかと記憶している。今回は、4月27日の講演から殆ど間もない時間でのオンエアーである。
ライブ特有のノイズ等も聞こえるし、ライブ特有の技術的な瑕疵もある。しかし、それらの欠点を乗り越えて、本番の公演の迫力が迫ってくる。この録音のノイズの影の向こうには、息をこらして聴いている聴衆の姿、気配が浮かび上がってくるのである。
前回は、たしか恋歌の特集であったが、今回は、ジャンルに拘らず、「良い歌」を選んでの朗読である。
それだけに名歌が多い。そうなると気になるのは、現代語訳である。
現代語訳は、佛教大学の田中みどり先生がされたと思う。実に正確で的確かつ妥当な表現である。しかし、そこには、詩歌につきものの、情感の冒険的な大胆さとか、情感の高まりに読み手の冷静さを失った言葉の威力を聞き取るには、少し、醒めているような気がする。
学者は、詩人ではない。言葉の注釈、語義についても上代語の研究史の成果を無視した解釈は出来ないという制約に縛られざるを得ないのである。
例えば、天香具山の歌を寺山修司が現代語訳したらどうなるだろうか。おそらく、独断と偏見に満ちた歌になるだろうが、新たな言葉の生命力が現代語に置き換えられても付加されるだろう。あるいは、折口信夫(田中先生はお嫌いならしいが)、その他の文芸学者の現代語訳等もこうした朗読で聴きたくなってしまった。
そうなると、白坂氏の朗読は、一層、生彩を帯びてくる。元々の言葉は、そのまま言霊に結びつく、「理性による論理的な解釈では説明が出来ない言葉の影の部分」、それが、「言霊」である。
言霊の成分は、言葉の「響き」を媒体として、語り手の口調の中に蘇る。
前回の公演で白坂氏の声は、恋の歌を朗読するには、固すぎると思った。おそらく、古代語の尊厳さといったそういったものを尊重するあまりに、あの源氏物語朗読にみられた様な妖艶さというものを押し隠していたのだろう。
ところが、今回の白坂氏の朗読を聴いて、ゾクゾクっと来た部分があった。「言葉のエロス」が、伝わって来たのである。これまでにない新たな魅力だと思うし、もっともっと、万葉集や記紀歌謡の朗読にも取り組んでもらいたい。
深沢氏の朗読には、声質にマテリアル的な存在感、実在感、言葉の重みを加えようとした努力がうかがえる。恐らく、大変な努力をなさったんだろうと思う。その成果が見事に発揮されている。
だが、いかんせん、現代語訳なので、白坂氏の原文朗読に比べて大きなハンディがある。どうしても説明的に聞こえてしまうのである。現代語訳のやり方もあるが、詩歌の朗読には客観性よりも情感の表現が必要なのである。
次回は、白坂氏が現代語訳、深沢氏が原文を朗読してもらいたい。そうすると、この公演シリーズに新たな発見が期待出来るかも知れない。
ラジオNIKKEIのインターネット放送で視聴し、パソコンの音声から超録というソフトでエアーチェックした。
前回のオンエアーは、たしかお正月の放送ではなかったかと記憶している。今回は、4月27日の講演から殆ど間もない時間でのオンエアーである。
ライブ特有のノイズ等も聞こえるし、ライブ特有の技術的な瑕疵もある。しかし、それらの欠点を乗り越えて、本番の公演の迫力が迫ってくる。この録音のノイズの影の向こうには、息をこらして聴いている聴衆の姿、気配が浮かび上がってくるのである。
前回は、たしか恋歌の特集であったが、今回は、ジャンルに拘らず、「良い歌」を選んでの朗読である。
それだけに名歌が多い。そうなると気になるのは、現代語訳である。
現代語訳は、佛教大学の田中みどり先生がされたと思う。実に正確で的確かつ妥当な表現である。しかし、そこには、詩歌につきものの、情感の冒険的な大胆さとか、情感の高まりに読み手の冷静さを失った言葉の威力を聞き取るには、少し、醒めているような気がする。
学者は、詩人ではない。言葉の注釈、語義についても上代語の研究史の成果を無視した解釈は出来ないという制約に縛られざるを得ないのである。
例えば、天香具山の歌を寺山修司が現代語訳したらどうなるだろうか。おそらく、独断と偏見に満ちた歌になるだろうが、新たな言葉の生命力が現代語に置き換えられても付加されるだろう。あるいは、折口信夫(田中先生はお嫌いならしいが)、その他の文芸学者の現代語訳等もこうした朗読で聴きたくなってしまった。
そうなると、白坂氏の朗読は、一層、生彩を帯びてくる。元々の言葉は、そのまま言霊に結びつく、「理性による論理的な解釈では説明が出来ない言葉の影の部分」、それが、「言霊」である。
言霊の成分は、言葉の「響き」を媒体として、語り手の口調の中に蘇る。
前回の公演で白坂氏の声は、恋の歌を朗読するには、固すぎると思った。おそらく、古代語の尊厳さといったそういったものを尊重するあまりに、あの源氏物語朗読にみられた様な妖艶さというものを押し隠していたのだろう。
ところが、今回の白坂氏の朗読を聴いて、ゾクゾクっと来た部分があった。「言葉のエロス」が、伝わって来たのである。これまでにない新たな魅力だと思うし、もっともっと、万葉集や記紀歌謡の朗読にも取り組んでもらいたい。
深沢氏の朗読には、声質にマテリアル的な存在感、実在感、言葉の重みを加えようとした努力がうかがえる。恐らく、大変な努力をなさったんだろうと思う。その成果が見事に発揮されている。
だが、いかんせん、現代語訳なので、白坂氏の原文朗読に比べて大きなハンディがある。どうしても説明的に聞こえてしまうのである。現代語訳のやり方もあるが、詩歌の朗読には客観性よりも情感の表現が必要なのである。
次回は、白坂氏が現代語訳、深沢氏が原文を朗読してもらいたい。そうすると、この公演シリーズに新たな発見が期待出来るかも知れない。
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