また、こんな夢をみた。2010/12/05 14:21

 また、こんな夢をみた。

 ある沙門が僕の前に現れて、次の様な説明を繰りかえす。

 場面といえば、説一切有部の考え方をしていまうが、「諸行無常」が、何故、そうなるのかという説明づけについて、説一切有部では、現象(人間の感覚・意識で捉えられる対象)とは、刹那単位で点滅を繰りかえすフィルムの1コマの様なものだと説明している。

 瞬間的に止滅するので、人が意識している時には、もうその現象は存在しないのである。この無数の繰り返しが、私達が、諸行無常として捉えているものである。

 ブッダの教えによると、「我」は存在しないという。「我」は、アートマンと呼ばれるもので、突き詰めれば、1つの方向性を持った現象の集合体である。

 それは、例えば、生前に善行を行ったかそうでないかで、極楽か地獄か、あるいは、畜生の世界に生まれ変わる様な輪廻を続けるかの道筋が決定されることである。

 もし、その様な方向付けが可能であるとすれば、現象ユニット(認識される)間を関係づける因果ユニット(人には認識出来ない)が1つの方向性を持って動いていることになる。
 
 ブッダは、アートマンを否定しているのだから、1枚・1枚の現象ユニットを結合させている因果ユニットは、バインダーの様な存在だが、これは、個々の現象ユニットを接着しているだけで、全体としての方向の位置づけはない。

 つまり、ニューラルネットワークの様な連鎖によって、現象は進行していくと認識されている。

 つまり、アートマンは存在し得ないのである。

 龍樹は、去るモノもなく、止まるモノもなく、来るモノもないといっているが、これは、現象ユニットも人に認識されている時には、止滅しているので、実体としての存在はないとしている。

 人に認識されない存在はないという考え方ならば、たしかに、虚であるが、論理自体の存在を否定すれば、その論理の存在を否定する人(私)も対象も何かも存在し得ないというパラドックスに陥ってしまう。
 
 ブッダは、そこまでは、言い切っていないと思う。現象は、その瞬間瞬間の因果関係によって、恣意的に移り変わっていくといっているのみ。

 つまり、後世の仏教的な源氏物語の理解の根底にある宿世・因果(この場合は、マクロとしての「我」と連動する因果)は、存在せず、私達は、未来を如何様にも変えることが出来る筈である。

 従って、過去へのトラウマ、現在への不満、未来への不安を考える必要はないということを悟り、極端な因果につながる様な行動を控えることによって、止滅する現象さえもが、安定した状態に保たれる中道の生き方を奨励している訳だと思う。

 だから、修行という概念は、ブッダにない。しかし、中道の生活を行う為の生活環境を維持することには意義があり、教団・サンガが形成された。

 こうしたことを大乗仏教の立場からみれば、自ら修行して自ら悟りを開くという見方になるが、実際は、そうではないのだということが、部派仏教について考えると判る。

 
 また、僕は、上下・左右が無限に広がる空間に沙門に手を引かれてつれだされた。

 よく見ると、無数のホースの様なものが見える。それは、血管の様に不気味に曲がったり、不規則な動きをしている。

 そう、ここは4次元世界なので、現象ユニットとの関連が視覚化されているのである。ある現象の管は、別の現象の管と交わっている。これは、新たな現象間の「縁」が生じたことを意味している。

 沙門は言った。

 「君は、物理の時間に習わなかっただろうか。曲線、曲面は、無限の時空間を旅した後で、再び元の出発地点に戻ってきて、また、出発を繰りかえす、エバーループなんだ。」

 「しかし、その様なものは、仮定の世界だけであって、この不合理な拡散的な世界には、存在しない。曲線・曲面というのは、一定の特性を持った「我」なんである。そう、だから、「我」なんてものは、この世界には、存在し得ないのだ。」

 大乗の場合は、まさに「我」の宗教である。この「我」は、善と救済の特性を持っていると仮定しているが、その仮定自体に無理がある。

 よく、部派仏教を「小乗仏教」と蔑視して、「彼らは、自分の解脱・成仏のみを考えて修行している。」と軽蔑しているが、本来の原始仏教には、「修行」という行為は存在せず、ただ、論理的・合理的に暮らすということである。

 ブッダは、修行を本来否定されていることは、「仏伝」として、大乗仏教の思想でも理解されているので、本当は、修行を通じて、教団を維持していく方向性にある集団にとっては、まことに都合が悪い。

 しかし、菩薩業として、一切利他(自分以外の全ての衆生の仏性を肯定し、解脱に導く)の方向性を見いだしていくという方便で修行活動を肯定する様になっていった。

 しかし、それが新たな矛盾を産み、輪廻転生といった本来ブッダを否定した考え方が定着し、仏教は、非合理的側面を色濃くしていく。

 佛教大学の仏教学部長の松田先生は、「仏教の歴史とは、本来のブッダの教えを否定していく過程の繰り返しに他ならない。」とおっしゃられた。

 僕もその通りだと思った。

 また、ブッダは、「非インド化」を前提に、インターナショナルな教えとして仏教を考えつかれた。「我」とか「輪廻・転生」、「難行苦行」というインドの古代宗教が持つ特性を否定する点から出発されたのだとも言われている。

 これもその通りだと思う。

 しかし、ブッダによれば、「万事、諸行無常」であるので、当然、言葉(理論)・思想・教義自体も年月を経て変化し、滅びていくのは必然であると言われている。だから、「仏教」の進化の最終仮定で、チベット密教の様な、本来のブッダの教えと全くあべこべのことをやっていく宗教に変化しても、これも必然であり、広い視点からみれば、これも、「釈迦の教え」ということになっていくのだと思う。

 以上は、僕が夢にみた屁理屈である。だから、正当な考え方ではないので、ご容赦いだたきたい。

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