絵空事をみている様な現実と遊離したようなセレブな世界の一コマ2010/12/12 11:31

鉄道小説としての『阪急電車』の読み方

我が国の文学作品の中で、「鉄道小説」というジャンルがあるとすれば、『阪急電車』(有川浩)が挙げられており、幻冬舎から文庫本化されているので、購入して読んでみた。

しかし、あまりの退屈さに本を投げ出してしまった。阪急今津線に乗車している人たちについて、順を追ってストーリーが描かれていくのだが、大体、今の20歳代後半から30歳位までの若年上流階層を主体して描かれている。

今のこの世代は、プロレタリアートとブルジョアとはっきり2分化、格差化してしまっている。

ブルジョアが暮らす地域としての阪急今津沿線である。この小説を読んでみると、私の生活感とは、全くかけ離れた世界が次から次へと描かれていくが、凡そリアリズムというのがないので、嫌になってしまうのである。

そう、リアリズムがない小説、芸術は、私には理解出来ない。俳句さえもそうである。「造られた自分」が読む俳句には、私は耐えられない。

しかし、この小説が目前に具現することが現実には行ったのである。

おうぶのぼろ家から川西の実家に帰る途中、神戸からは、今津線を経由するルートがあるが、それに乗って「帰宅」している途中、小林駅を過ぎて、逆瀬川にさしかかった時である。

タキシードを来た金髪の少年が軽やかに電車を進行方向に向かって駈けてきた。それを追う若い日本人の母親、どうやら少年は、ハーフらしい。

宝塚ホテルの方に風の様に2人は駆け下りていったが、まるで雲の上の出来事、絵空事をみている様な現実と遊離したようなセレブな世界の一コマである。

こういったセレブの世界が実際に現れて、その様な世界に生活感を持ち得る人であれば、この小説を理解出来るのかもしれない。

神鉄有馬線のプロレタリア風の薄汚れた作業着の様な車両になれている自分には、まさに、超常現象の様に見えたのである。

コメント

トラックバック