ホデリ(海幸)、ホオリ(山幸)の誕生と海幸山幸の伝説2009/09/26 22:55

 本日は、斎藤英喜先生のNHK文化センターの日本神話の最後であった。今回は、ニニギノミコトが高千穂に下り、コノハナノサクヤビメと婚姻、イワナガヒメを捨てるといった話から、ホデリ(海幸)、ホオリ(山幸)の誕生と海幸山幸の伝説、隼人族の服従と皇祖の一族の誕生、神武天皇に至るまでの話が中心であった。

 この中で、海幸彦・山幸彦の話は、実は、皇祖の誕生説話の中で、大きな役割を担っていること、異種婚姻譚の神話の中での位置づけ等、非常に興味が深い内容だった。

 海幸・山幸というのは、異境訪問と異種婚姻譚の観点から斎藤先生は、説明されたが、私は、更に貴種流離譚の話形も含まれていると先生の話を聞きながら思った。

 特に私は、竹取物語や源氏物語との話形の類似性も想起された。

 その説明として、貴種流離譚の始めは、より上位の世界から追放という話に始まる。海幸・山幸の場合は、上位の世界(神の子孫の世界)から海竜王の宮殿(竜宮の様に描かれているが、その正体は、海のイキモノ、鰐鮫が人間の様に振る舞って、宮殿にいる様に錯覚を起こさせている点で、海竜王は、より低級な海棲生物の世界であった。)に下る話。

 比較としては、素戔嗚尊の高天原から天下る話、かぐや姫の月世界から地上、源氏物語では、光源氏の都から須磨・明石の田舎へ下るということであり、その原因としては、罪(タブー)を侵すこと、あるいは、兄弟イジメが挙げられる。

 異境訪問譚は、海竜王の宮殿、光源氏の離京と明石、須磨の鄙の訪問、人間世界への降誕といった風に語られる。古事記の海幸・山幸の話で興味深いのは、山幸が海底世界を訪問するまでは、話者あるいは、山幸の視点で描かれるが、その後は、豊玉姫とその家来の視点に転換されて山幸の姿が描かれていることである。つまり、視点変換を行うことにより、上位から下位の世界への移動を表現しようとしているのである。

 異種婚姻譚、これは、上位の世界にいるものが、下位の世界を訪問し、そこの世界の姫君や婿と交雑することである。かぐや姫の場合は、単なる求婚譚に終わったが、素戔嗚尊、山幸、光源氏の場合は、実際に婚姻し、子供が出来ている。この異種婚姻の世界は、結局、主人公が下位の世界から上位の世界の戻ろうとする時点で破局を迎える。かぐや姫の昇天、山幸が釣針を手に入れて兄の元に返っていく、光源氏の中央政界への復帰ということになる。
 更に貴種流離+異種婚姻譚の結果生じるものは、それは、仇敵への呪詛による勝利である。例えば、山幸は、海幸を呪文によって苦しめ、降参させる。光源氏の場合、政敵・朱雀帝を病に陥れる様な復讐を遂げる。

 以下の内容を次の通り整理してみた。


          兄弟イジメ
 貴種流離譚=罪を犯す +異境訪問譚+異種婚姻譚+敵を調伏
          その他

 海幸・山幸=釣り針を巡るイジメ
 源氏物語 =桐壺更衣イジメ 弘徽殿女御の光源氏イジメ

 罪を犯す =かぐや姫(どんな罪からは判らない)
      =素戔嗚尊(天津罪)
      =光源氏(朧月夜との密通)、背後には藤壺との密通

 異境訪問譚=山から海へ(海竜王の宮殿へ・浦島説話)
      =月から地球へ
      =高天原を追放
      =都から須磨・明石へ

 異種婚姻譚=豊玉姫(実は、サメであった)
      =かぐや姫と求婚者(婚姻には至らず。)
      =クシナダヒメ
      =明石の君
(当時、都の人にとっては、鄙の人は、人間とはみなされて         いなかった。)

 貴種流離の破局

      ・事情を相手に悟られる。釈明する。
(鶴女房にみられる様な「見るな」の世界)
       元に世界に帰らなくてはなくなる。
(竹取の帝、翁・媼との別れ、・山幸の別れ、
      光源氏と明石入道との別れ)

 敵を調伏
      ・大蛇退治
      ・弘徽殿方への復讐と政界への復帰
      ・海幸を苦しめる


 今回の海幸・山幸譚が天孫降臨という、皇祖説話に何故、結びついているのかという点が、古事記上巻では、大きな謎の1つである。
 結局、天皇家の祖先は、隼人族と兄弟関係にあるが、海竜王の助けを借りて、兄弟の覇権争いに勝利し、その後の子孫繁栄につながっていくということである。皇祖神の系譜をみると、穀物豊穣につながる神々であるが、何故、海竜王と関連づけられるのか等、大きな謎であると思う。

 私なりに、大胆な推理をしてみると、皇祖が誕生した頃の日本列島には、①皇祖の一族の様な太陽信仰の一族、②海洋神を信仰する一族、③もう1つの勢力が互いに覇権を争っていた。天孫降臨の場所が九州南部であること、これは、北部九州には、③のもう1つの勢力が非常に強かったものとみられる。①九州南部に発生した太陽信仰の一族の王位継承権争いが発生し、国が乱れたが、②の海洋神を信仰する一族と婚姻関係を結び、同盟を得た1族(つまりのちの皇統)が覇権を掌握した。その一族が、東征して、大和王権を確立するが、その際にもやはり、海洋神を信仰する種族協力を得ることが必要であった。
 それらの種族と同盟関係のもとで政権の掌握に成功し、大和に政権を樹立したからは、もともと同盟関係にあった海洋信仰の一族を従属させていったといった様な出来事が起こったのではないかと思う。

 また、何故、釣り針が出てくるか。これは、海幸が大事にしていたのは、鉄製の釣り針だからである。だから、弟が釣り針を無くしたので激怒する訳だ。山幸は、剣を潰して、針を山ほど作って返そうとするが、兄は受け取らない。それは、何故か?青銅製の剣を潰して作られた針だからだろう。

 鉄の釣り針を供給出来たのは、恐らく③の種族だろう。②の海洋神を信仰する一族は、鉄器の製造能力はないが、暦法(潮の満ち干)に優れた民族であったことが知れる。

 話は、脱線してしまったが、更に話を膨らませていくと、非常に、興味深いのは、源氏物語にも同様の話形がみられる点である。

 この場合は、海竜王=故桐壺帝の化身が支配する須磨・明石を訪れた源氏が、明石の中宮の出生につながるエピソードを持ち、光源氏亡き後は、春宮、匂宮とポスト源氏政権の基礎の形成過程が、貴種流離の出来事を通じて、描かれている点である。

 古事記の世界から伝わる日本の古代の物語の根底には、この様な話形が潜んでおり、無意識の内に取りあげられたのか。(物語の祖 竹取翁物語の様に)、あるいは、意図的に古事記のこの説話を踏まえているのかと言う点である。

 卒業論文にも一部取りあげたが、例えば、国宝源氏物語絵巻の若紫巻の断簡には、コノハナサクヤヒメ=紫上=桜花、イワナガヒメ=末摘花=岩根・不滅と子孫繁栄の象徴が描かれてとしているが、話形という点からみれば、見事の古事記の天孫降臨・貴種流離のプロットがはめ込まれているのではないかと考える。

 日本書紀にもよの男よりも通じていた紫式部なので、古事記のコノハナサクヤヒメをめぐる説話を知らない筈がないからである。

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いずれにしても斎藤先生の「最後の授業」、実に面白かった。NHKセンターの梅田での授業はこれで終わりで、守口や京都での講座になるそうだが、平日、午後1時からの講座、サラリーマンの私に行ける筈がない。本当に残念である。

6.道をしるべき学び2009/08/30 21:53

①さて、かの二典の内につきても、道をしらんためには、殊に古事記をさきとすべし。

 古事記、日本書紀の内、道を知ろうとすれば、特に古事記を優先して欲しい。

 古事記や日本書紀を文学書や歴史書としてみる学びのあり方は、特に戦後から20世紀中まで続いた研究姿勢であった。単なる研究資料としての位置づけとしての取り組みは、歴史文献学としては、何らかの成果は挙がっただろうか。 結局、問題となったのは、文学の面では、記紀歌謡と万葉集との関連、これらの作品が現代の我々に何を伝えようとしていたかと言った研究よりも、訓解や、注釈が中心であり、古註を和洗い直して、(現代的)な理解、解釈との齟齬に大部分の研究労力が費やされたのであった。これは、戦前の国粋主義的な考え方への反省でもあったが、不毛の時代が長く続いたといって良いだろう。

 ようやく、21世紀に入って、古事記や日本書紀、そして、万葉集がどの様な「意」(心)で書かれ、我々に何を伝えようとしているかを真剣に考える思潮が今、ここに蘇生したのだと思う。
 「意」をしること、これすなはち「道」である。


②書記をよむには、大きに心得あり。文のままに解しては、いたく古(いにしへ)の意(こころ)にたがふこと有りて、かならず漢意(からごころ)に落ち入るべし。

 日本書記を読むには、大いにその心得が必要なのである。漢文のまま理解しようとすれば、古代の人たちが私たちに伝えようとして「意」と異なった理解に陥ってしまうのである。

 現代の日本書記の研究の立場、中国語の文法や表記、発音等の立場から分析を試みようとする研究者と、「意」の理解を重んじようとする立場とに大きく分かれ、深く対立している。
 それは、古代日本語学等にまで、範囲を広げて対立に及んでいる。
 まったく、宣長の時代とは変わっていない。日本書紀が、日本に渡来した大陸系の人たちが記述したのか、漢文法を学んだ日本人の創作なのかといった点の研究がコンピュータ解析を含めて行われている。
 こうした研究法は、主に、「分巻論」の研究で用いられているが、私は、源氏物語の研究にも応用を試みた。
 しかし、何も得られなかった。そこには、物語に書かれた「意」を理解しようとする観点が欠けていた為である。

④次に古語拾遺、やや後の物にはあれども、二典のたすけとなる事ども多し。早くよむべし。

 佛教大学の卒業研究のガイドブックで、国文学の欄で、U先生が平安文学を担当されて執筆されているが、平安文学の範囲で『古語拾遺』は、平安時代に入るが、内容的には、上代文学と書かれているが、それは、宣長も同様のことを述べている訳である。齋部広也成が大同2年(807年)に編纂した書物であり、平安遷都直後の作品である。
 齋部氏は、天太玉命の子孫とされ、彼の祖神は、天照大神の岩戸隠れの時に、中心的な役割を果たされているという。
 齋部氏の独自の神世から伝わる伝承に加えて、古事記、日本書紀が編纂された時にどの様な「意」が重んじられたかを知ることができる比較的近い時代の資料でもある。
 ところが、津田左右吉が『古語拾遺の研究』で、その史料価値はほとんど見いだせないと述べているのである。
 現代では、むしろ、近い時代の独自資料として再評価されており、それは、宣長の考え方に通じるものがある。

 ところで1773年(安永2年)に奈佐勝皋という人物が『擬齋』という書物を書いており、津田と同様に否定的な言葉をしるしている。『うひ山ぶみ』で、この奈佐の『擬齋』に対して、反対の立場を表明しているのである。

⑤次に万葉集。これは歌の集なれども、道をしるに、甚だ緊要の書なり。殊によく学ぶべし。その子細は下に委しく(くわしく)いふべし。まづ道をしるべき学びは、大抵上件の書ども也。

 「意」を知るには、「歌」の理解も当然必要で、「道」を知ることにつながってくるのである。万葉集にも古い時代の歌が含まれているが、やはり、古事記の神代巻の歌謡の方が、より「意」を伝えているのではないだろうか。

 また、近世に編纂された琉球國の『おもろそうし』にも古態を思わせる歌謡がいくつか収載されている。それは、「歌」の意味もあるが、「かみよのことば」がどの様に用いられていたかの手がかりを得ることができるのである。

中古文学会の秋季大会2009/08/27 22:33

 今日は、中古文学会の秋季大会の申込みをしてきた。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/chu-ko/

 資料代が1000円、懇親会会費が6000円である。懇親会会費が6000円は高いと思う。知り合いの大学教授に聞いたら、大学から会費も懇親会費、交通費、宿泊費も全て経費で落ちるという夢の様な話。

 私なんかは、研究書から学会費、参加費用等全て貧乏サラリーマンなのに自腹なので、自腹の人と経費が出る人と会費を区別して欲しい。(院生とかは割引料金だが、アカボス以外の一般人の会費との区別手段はない。)

 こうした学会の会員数は減るばかり。私の様な者は、機関誌に論文を投稿することも無いし、投稿権がない換わりに会費を安くする等しないと一般人というか民間人・素人衆は集まらず、院生の新陳代謝に委せて、しかも、この専攻では食べて行けないので、学生数激減の煽りを受ける。

 会費は郵便振替であるが、ゆうちょのATMでの振り込みは、機械がトロイので、いつも行列が出来ていて辟易させられた。

 今回は、紫式部集や日記、そして、源氏物語絵巻の本文等についての研究発表があるので楽しみである。会場は比較的近い関大なので、参加せねばならない。

4.志を高く大きにたてて2009/08/17 23:23

志を高く大きにたてて

①さて、まづ上の件のごとくなれば、まなびのしなも、しひてはいひがたく、学びやうの法も、かならず云々してよろしとは定めがたく、又、定めざれども実はくるしからぬことなれば、ただ心にまかすべきわざなれども、さやうにばかりいひては、初心の輩は取りつきどころなくして、おのづから倦みおこたるはしともなることなれば、やむことをえず、今宣長がかくもあるべからんと思ひとれるところを、一わたりいふべき也。然れども、その教へかたも、又人の心々なれば、吾はかやうにてよかるべき歟と思へども、さてはわろしと思ふ心も有るべきなれば、しひていふにはあらず。
 
 さて、こんな風にこれまで述べてきたようであるのでどういった学問が良いとか悪いとか強いていうことは難しく、また、学習・研究方法もこれが必ず良いと定めることも難しい、又、定めなくても実は問題なく、ただ研究・学習者の意思にまかすべきことだけれども、そんな風にばかりいっては、初心者は、取りつきどころがなくなってしまい、自分から嫌になって怠けるきっかけにもなりかねないので、仕方がなく、今、宣長がこうあるべきだと思っているところを一通りのべた訳である。しかしながら、その教え方もまた、人の心であるので、私は、これがこんな風で良いと思っていても、(他の人)からみれば、悪いと思う心もきっとあるだろうから、強制することは出来ないである。


②ただ、己が教へによらんと思はん人のためにいふのみ也。

 だから、私(宣長)の教えに拠ろうと思っている人のみに話しているのである。これまでの宣長が述べて来たことを踏まえて、この書物では、特に宣長の考え方(教え)に賛同するものを対象にしようとしている。つまり、一般論とあくまでも宣長のポリシーを明確に分けて述べようとしている。

③そは、まづかのしなじなある学びのすぢすぢ、いづれもいづれも、やむことなきすぢどもにて、明らめしらではかなはざることなれば、いづれをものこさず学ばまほしきわざなれども、1人の生涯の力を以ては、ことごとくは其奧までは究めがたきわざなれば、其中に主としてよるところを定めて、かならずその奧をきはめつくさんと、はじめより志を高く大きにたててつとめ学ぶべき也。然して、其余のしなじなをも、力の及ばんかぎり学び明らむべし。

 それは、それぞれの学問分野や研究方法、どれをとっても、否定することは出来ないものなので、明らかにしないではいられないことなので、全てを残さずに学んでしまいたいのだけれども、1人の生涯の力では、全てをその奥義まで究めることは、到底出来ないので、その中で、最も重要で中心となるところを定めて、必ずその奥義を究め尽くそうと、最初から志を高く(目標を高くもって)努力して学ぶことだ。そうして、最も重要な事柄に加えてその残りの部分についても力及ぶ限り、学習・研究し、明らかにしなければならない。

 どの様な学問分野もそうであるが、まず、どの部分が最も重要か見極めることが大事である。しかし、あまりにも目標を低く設定してしまうと成果が得られない。自分の能力の限界等を踏まえて研究分野・範囲・目標を定めるべきだと述べている。宣長の晩年の文章なので、この様な記述が出てくるのだと思う。特に古事記、日本書紀の膨大な量の中から、何が重要なのかと言う点を見いだすこと自体が非常に難しい。

 源氏物語の研究もそうで、あの膨大な作品を読み通すだけで、大変な労力である。この為、私は、最新の情報処理技術を応用して、これらの問題について対処しようとした。具体的には、コンピュータデータベース(語彙と文章)の作成、分析等を行った。それによって見えてきたものがあるが、全体を貫く様な「心」というか、そういったものを未だ見いだせず、この調査がどの様な「意味」を持っていたのか、未だにまとめることが出来ない。一方、「光源氏の言葉」以来、表現論の研究を中心に行ってきたが、それは、文体、会話文の表現、場面、情景描写を中心としたものであり、それを絵画論にまで発展させたものの、宣長の様な「高い志」がないので、結果に結びつかないでいる。

 「志」と簡単に一言で言っても、それは、人それぞれであり、必ずしも学問の対象の本質につながる訳でもないと思う。しかし、その「志」を、学習・研究の日常生活のポリシーとして、貫き通すことによって、その人にとっては、「一貫性」、「意味」がある成果をいつの日にかまとめることが出来るのではないだろうか。

 写真は、宣長が研究生活を送った家。常に清浄な光と空気の流れがある。シンプルな設計の中に、「志」を活かすことが出来る様に工夫されている。

 「志」とは、「日常生活」そのものでもある。知識の混沌とした部分を清明に変えるという宣長の「志」の「生活実践の場」でもある訳だ。

 それが、次に述べる「道」という考え方につながっていく。

1.物まなびのすぢ2009/08/13 22:46

 今日は、昨日歩きすぎて、足が痛むので、家に居り、講談社文庫 本居宣長「うひ山ぶみ」を読み始めた。

 だんだんブログのネタもなくなり、ツマラナイと言われる様になってきたので、これを順々に勝手な注釈を加えていくことで記事の穴埋めにしたい。


1.物まなびのすぢ

①世に物まなびのすぢ、しなじな有りて、一やうならず。

 ここでいう、「すぢ」とは、なんだろうか。これは、分類、体系のことである。古楽(国学)という比較的狭隘な学問分野さえ、多様であり、一言では言い表せないものであると宣長は、指摘している。

 面白いのは、「うひの山ふみ」を始めるに当たって宣長は、「すぢ」について論じるところから始めている。つまり、「学問は体系から出発するものであり、全体の構成を俯瞰しなければ、枝葉末節のみを弄くっていても、何も理解出来ないことを示そうとしている。
 宣長、以前の和歌、古典、史書についての「学び」は枝葉末節の積み重ねが、堆積していくやり方であったが、宣長に近い時期の塙保己一の群書類従にみられる様に、体系的、分類的に資料文献をみていこうとする気風が生まれた時代であり、宣長のこの言葉にもその気概がみられる。


②そのしなじなをいはば、まづ神代紀をむねとたてて、道をもはらと学ぶあり。

 まず、その中で、一番重要なのは、いうまでもなく、古事記、日本書記他の日本の神代を扱った書物を学ぶ事で、これは、「道」である。つまり、ただ単に研究というよりも、「道を究める」という精神的修練が大切であるとしている。

 私が考えるところでは、現代日本の学問は、人文学にみられる様に多種多様の寄せ集めとなっているが、体系としてまとまるには、いたらず、結局、烏合の衆の寄せ集めになってしまう。今の民俗学等がその最たるものであろう。

 ここには、「道」の精神に欠けている。

 「道」を進む、極めるだけではなくて、師匠から子弟、更にその子弟から孫弟子へと連綿と伝えられるものであり、それが、国学(国文学)の歴史でもあるし、目的でもある。源氏物語の研究も旧帝國大学教授から高等学校の教員に至るまで、「道」として伝えられてきたものだと私は考えている。


③これを神学といひ、その人と神道者といふ。

 話はややぶれたが、神代紀を専ら学び「道」として極める人は、「神道者」と言われる。「神道者」は、宗教者であるが、現代の宮司、神職とは異なり、新たな「真実」を究めようとする態度がある点が異なっている。単なる儀式の伝承者ではない。

④また、有職・儀式・律令などをむねとして学ぶあり。

⑤また、もろもろの故実・装束・調度などの事をむねと学ぶあり。これらを有職の学といふ。

 有職故実を学ぶということは、江戸時代においては、ある意味伝統文化の実践であり、実用でもあった。だから、近代以降の我々が文化史という一言で片付けるこの分野は、国学、神学を実際の儀式として、正しく神道者として「生きて」、実践していく手段であったので、単なる知識の集成ではない。

⑥また、上は六国史其の外のいにしへ文(古書)をはじめ後世の書共まで、いづれのすぢによるともなくてまなぶもあり。

⑦このすぢの中にも、猶、分けていはば、しなじな有るべし。

 これは、書誌学のことを示している。書誌学という言葉は現在はなかったが、江戸寛永期以降の出版文化隆盛により、あらゆる古典籍が印刷、出版される様になり、巷の者どもでも容易に手に触れることが出来る様になった。図書が一般に流通する様になり、「本の分類、調査」が学びの「すぢ」として重要になっていく。


⑧また、歌の学び有り。それにも、歌をのみよむと、ふるき歌集・物語書などを解き明らむるとの二やうあり。

 近代以前の古典(国文研究)については、歌学等、実際の歌会や俳諧連歌の実践になる知識を得る為の研究と、あるいは、現代の国文学者がやっている様に、古い時代の作品に注釈、考証を加える研究があることを示している。

 定家卿の時代くらいまでは、歌の学びの道は、一筋であった。しかし、六条派の歌学が台頭し、これらとの論争が激化する中で、やがて、歌論に「勝つ」為のディベートの根拠となる知識としての平安朝以前の物語や和歌が重要視される様になっていく。
 こでは、宣長は、どの様な「すぢ」が正しいのかは述べていないが、おそらく、これから、この書物を読み進むことで明らかにされていくのだろう。

 こんな訳で、「物まなびのすぢ」の段が終わる訳だが、宣長が非常に客観的に当時の古典研究の状況を把握していたことが判り興味深い。「大和魂」や「もののあはれ」等の精神論的な側面で捉えられてきた宣長であるが、ある意味、即物、唯物的な見方をも有していたことがここから推察出来るのである。

 写真は、旧宅「鈴屋」の内部から宣長の視線を再現したもの。

日本人の心のふるさととしての「言葉」と「歌」2009/07/16 00:19

 素戔嗚尊はどんな神であったのだろうか。古事記神代記に描かれた神々の世界の中で、素戔嗚尊は、唯一、「言葉」としての「肉声」が記録された神であり、その言葉は大きな意義を持っている。

 伝記・伝説・物語において登場人物の「言葉」が大きな意味を持っていることは、私の修士論文「源氏物語 光源氏の言葉」でも書いたが、古事記、それも神代記の中で、スセリヒメと一緒に逃げた大国主(オホナムヂ)にかけた言葉である、「その汝が持てる生太刀、生弓矢を持ちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追ひ伏せ、また、河の瀬に追ひはらひて、おれ大國主神となり、また宇都志國玉神となりて、その我が女須世理毘賣を嫡妻として、宇迦山の山本に底つ石根に宮柱太しり、高天原に氷ぎたかしりて居れ。この奴。」が、この神代記を通じて最も重要な「言葉」であるだろう。(写真は、私が所持する真福寺写本の該当部分)
 根の堅州國(大地・黄泉の国)の王である素戔嗚尊が、オホナムヂを大国主命(国津神の王)として認めたことを意味する言葉である。
 須世理の父親が大国主命は婿として認めた父親の言葉でもある。(成人儀礼にも関わりだろうのだろう。)

 これは、すなわち、出雲国の誕生の瞬間でもある。不思議な事に古事記には、出雲国の誕生のありさまは、「神の言葉」を持って劇的に描かれるが、天照大神や敷島の大和国の誕生については、この様な感動的は言葉の叙述はみられない。

 天照大神は、古事記には、様々な叙述がみられるが、素戔嗚尊の様な人間的な感情の吐露はみられない。

 私は、国語学の演習で、「高し」を取りあげて、この古事記の「言葉」を見つけた時に大きな感動を得て、「光源氏の言葉」のモチーフを思いついたのである。光源氏も若菜下の巻で、物語の主人公としての象徴的な言葉、それは、「モノノアハレ」を象徴する言葉を発している。

 男となった大国主命は、この後、例の「八千矛の...」の歌を唱うが、これも、神代記の中では、重要な歌謡である。この歌は、実は、父神素戔嗚尊の言葉への返歌ともいうべき内容の素朴な妻よばいの歌である。それは、日本人の素直な心のふるさとと言えるの大らかな歌である。

 昨日は、私の誕生日であったが、こんな風に一人前にならぬ子供のままで、50歳近くの年齢に達してしまった自分の境遇と照らし合わせると、「生きる」ということの意味が私にはあったのだろうかと思いたくもなった。

雨の日2009/04/14 23:24

Coolpixs S600で撮影。
 今日は、日中はずっと雨だった。

 庭のチューリップはこうゆう日には、花を閉じている。雨で花弁の内部がやられるのを守っているのだ。

 凄く賢いと思う。

 雨に揺れたチューリップは何やら美味しそうに見える。(かき氷とかそんな風)

 斎藤英喜先生の『読み替えられた日本神話』を読んでいる。先週の土曜日の講座で、先生が薦められた本である。

 先生の本は、文章が判りやすくて読みやすい。実際のお話される様子をみると、わりと吶々(とつとつ)とお話されるタイプだが、文章は、流れる様に書けているので、初心者にも理解しやすい。

 先生のご著書は、かなり存在するが、学研やら講談社からの執筆依頼が多いというのは、こうした文章の読みやすさもあると思う。

 内容は非常に面白い。特に「中世日本紀」という言葉は、一つのキーワードである様で、黒田先生が伊藤正義先生について話されている佛大のWEBにも存在する。
http://www.bunet.jp/world/html/16_8/467_omoide/index.html
 この伊藤正義氏の論文は、私も読んだが、正直申して難解であった。結局、平家物語や太平記の剣巻等、軍記文学に、中世日本紀の思想が深く現れている。

 また、佛大仏教芸術コースのスクーリングでは、近藤謙先生が、不動明王について話された時、あるいは、後醍醐天皇の即位式と中世日本紀略の関係等のお話にも登場した。近藤先生は、安藤先生の様に感性を優先するタイプではなくて、史料等と実存している仏像や仏教遺跡との関係について検証して、コツコツを積み上げていくタイプである。この先生の授業で平安時代の日記等、古記録の面白さを学んだ。

 今回の斎藤先生のこの本にも登場する
   日本神話→古事記           →本居宣長→平田篤胤
         →日本書記→中世日本紀
 の論の展開の中で、中世日本紀はどの様な位置を占めていくのだろうか、これから先を読んでいくのが楽しみである。


 先生の本は、全部読んでから感想を述べてみたいが、中世日本紀は、神仏習合、天皇家儀式、そして、軍記文学、仏像や仏画等の仏教芸術にも影響を与えており、日本文化史の中で、大きな要因となっていることは事実である。

 今、読んでいるところでは、福神漬けの意外なルーツ・由来と日本神話の関わり等、日本神話というものが私たちの現代の生活の中でも意外な接点を持っている等非常に面白い本だと思う。

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 昨日の晩は、赤壁の戦い(レッドクリフパート1)を見て、大分前に書いた十八史略のことを思いだしたし、最近は、歴史や神話に嵌っている。私が中学生の頃に見学した中国出土文物展の図録等も開いていたが、三国志の頃の剣や武器、甲冑等が結構、忠実に再現されているし、琴(キン)等の中国の古代楽器、あるいは、子供達に詩経が教えられている有様等も面白かった。この時代、詩経は、聖典というよりも、もっと身近な文学作品であったと思う。

 詩経については、その序文(毛詩国風)が古今和歌集の真名序の手本であり、更に、源氏物語の六条院の女楽にも詩経の影響がみられる。

 当時、音楽と詩文は密接な関係にあり、徳育の為には、重要なものであったのだと思う。

 今日は、話題が少なく雑然と書いてしまった。

この花が終わると、暑さのシーズンの到来である。2009/04/13 23:01

Cybershot DSC-P1で撮影
 今年の桜は、本当に見事だった。いつもよりも色合いが強かっったような感じがする。

 赤外線カメラで撮影した様な、不思議な白さで、電車の中から沿線に咲く桜の花をみると、周囲の世界とは、一線を画した様な結界の中で咲いている様な不思議な感じがあった。

 残念なことに私の家の前の坂を更に登った上には、大きな池があるが、その畔の公園の桜を見そこなった。

 「都の全ての桜をみてみたいものだ。」という願望は、平安の昔からあり、大鏡等にも花見の様子が描かれている。桜花のシーズンの終わり頃には、未だ北山の方には桜が咲いているので、わざわざ花山院一向が、洛北に花見に出かけた有様が記されている。

 源氏物語の若紫巻の桜も北山の桜であるとすれば、光源氏が加持祈祷を終えて、都に戻って来た時には、とうに桜の時期は過ぎており、初夏の時期に入っていたことになる。

 私が住んでいる地域では、源氏祭りが開始されるが、このお祭りが終わると、桜の時期は終わりを告げる。これからは、初夏の花の季節に入る。

 写真は、近所の近くの土手に咲いている。何時も桜の花が終わった後、まだ、風にひんやりとした涼しさが残っている時期に満開となる。この花が終わると、暑さのシーズンの到来である。

かすかに残る燻煙で蘇った過去の記憶2009/04/07 23:18

CONTAXⅡaで撮影
 関西大学博物館は、私が本来卒業する年であった前年までは、もともと図書館として使用されていた建物で、法文関係の図書、雑誌、資料が収蔵されていた。

 建物は、昭和30年代に円形部分が建築されたが、その奧の長方形の建物や書庫は、昭和初年に建築されたもので風格があった。

 私が今回、その博物館を訪れて感慨深く観察したのが、この装飾模様である。この付近には蔵書目録カードの部屋があった。カードを繰るのに疲れた時、ふと、宙を見上げると、この模様が目に入って来て、無意識の内に眺めていた記憶が蘇って来た。

 この博物館が「法文図書館」としての機能を停止してから23年が経過しているが、未だにかすかに図書の虫除けの「燻煙」の香りが残っている。

 「燻煙」は図書館の夏の風物詩であった。当時は、図書館には冷房もなかったので、地獄の暑さであった。それでも、夕方になると涼風が巨大な東洋一と言われたグラウンドから吹き込んできた。

 日が暮れてもなお、練習に明け暮れる選手達の声や応援団の太鼓の音等も記憶に残っている。暑さの夏も過ぎて、秋が深まれば、法文坂の下り斜面の銀杏並木が非常に美しかった。


 朝6時に家を出て、8時30分に大学に到着(ラッシュ電車を4本乗り継がねばならなかった。)午前中の授業が終わって午後から図書館での読書三昧。

 おかげで、まだ二十歳台なのに、膝から下が鬱血して、痔が酷くなってしまった。

 大学1年の間は、各種の書誌や、索引に精通する為の訓練に明け暮れた。現代と違って、検索カードや目録が頼りであり、この所在を含めて全ての所在を把握しておく必要があった。

 4回生になって肥田皓三先生に頼み込んで、書庫への出入りを許可してもらった。そうしたら、未だ、目録に記載されていない和書を多数発見、その特長等も丹念にノートに書き込んだ。
 

 大学ノートは、目録の目録や和書に関する情報等埋まっていった。気がつくと閉館時間になっていた(午後8時位か)。

 帰宅すると午後10時で簡単な夕食を済まして、午前1時位まで語学や演習の予習、へとへとになって床について、翌日は5時には起床する毎日だった。

 今も、清水好子先生の伊勢物語や源氏物語の講義ノートや、この「図書館ノート」が私にとっては宝物という存在となっている。

 これらを眺めていると、当時の私は、勉学と研究以外には、なんの興味もなかったことが判り、もっと世間一般のことにも触れておく必要があると覚ったのは、大学を卒業し、就職に失敗して、日雇い仕事や、写植、営業、業界紙記者等職を転々とした後、何年も経過してからだった。

新発見の『絵入り源氏小鏡』2009/03/25 22:45

石山寺が購入した『源氏小鏡』
http://www.sankei-kansai.com/2009/03/15/20090315-007488.php
に全五四帖が絵画化されているのが発見されたという。

『源氏小鏡』は梗概本である。梗概本とは、長編の源氏物語を判りやすくまとめた本であり、単なるストーリーの概略をまとめたものに分かれる。例えば、卒論で取りあげた『源氏物語絵詞』は、源氏物語の各巻、場面の梗概と、中世末期から近世初期に書かれた源氏絵の絵師が絵の題材として取りあげる各巻のテーマと描画法の概略が併記されている。

 今回のものは、源氏物語各巻の梗概に実際の絵画を沿えたもので、分類上は、『源氏物語絵鑑』ということになる。

 こうした平安、中世前期までは、絵巻であったものが冊子本としてまとめられて、本文と絵画の部分を組み合わせる手法が近世初期から始まったのである。

 いわゆる奈良絵本もそうしたものであり、長編源氏物語を判りやすく絵解きした書物であるとみれば、やはり、こうした草子の1種であるとも言えるだろう。

 近世中期以降は、版本として、大阪、京都から出版され、一般に読まれる様になるが、その元となる絵画は、奈良絵本等に源流があり、彫り師もこうした図画を参考に版画を作成していったと考えられる。

 その典型例が、絵入り源氏物語であり、それは、私のブログにも取りあげている。

http://fry.asablo.jp/blog/2009/03/12/4172029

http://fry.asablo.jp/blog/2008/07/04/3610560

http://fry.asablo.jp/blog/2008/04/30/3415640
こちらに絵入り源氏の絵を一部取りあげている。

 こうした比較考証で問題になるのは、梗概本で、各巻のどの部分が、どの様な形で取りあげられているのか。また、絵師に対してのコメント、絵画化のポイントが記されてあれば、私が卒論で行った様に巻毎に比較一覧表をまず作成して、同一の傾向のものかを見極めることである。

 私見では、恐らく『源氏小鏡』と『源氏絵詞』は相当、近親性があり、系統の中でもかなり近いものであると思う。これも、卒論で取りあげたことであるが、源氏物語の各場面の「勘所」を絵画化する過程は、そのまま、源氏物語の個々の巻、場面の梗概化の作業につながってくるという点である。つまり、中世末期から近世にかけての時代において源氏物語の場面を絵画化するということは、梗概化するのと殆ど同じ意義を持ってくるのである。

 この辺りに、国宝源氏物語では、源氏物語の本文に忠実に絵画化されていたのとは異なる点であり、近世源氏絵の本質が見いだせるのである。

 これらの仮説を実証するのに、大きな鍵となる作業が、『絵入り源氏』の挿絵と、今回、新発見の『絵入り源氏小鏡』、及び『源氏物語絵詞』(大阪女子大蔵)の比較作業である。『絵入り源氏』については幾つか本を所有しているが、私なりに比較作業を行った結果、

①挿絵は、梗概書に拠るもので、湖月抄本文の該当箇所に挿入されたものである。これを証明するものとして、最初の『絵入り源氏』の編集作業のミスなのかまったく異なった巻の場面が挿入されている箇所がある。
②『絵入り源氏』の挿絵は、新発見の『絵入り源氏小鏡』同様に、梗概書によって作成された構図であり、実際の本文に忠実な描画・構図法ではない。

③ ①と②によって、『絵入り源氏』のルーツは、近世初期の肉筆源氏絵(梗概書と一緒に存在あるいは、綴じられていた)を参考にしたものである。
という仮説が導き出される。

 是非、この本が複製・影印化されれば、比較考証を行って仮説を検証してみたい。それが完成すれば、私の研究である『源氏物語の絵画化の方法』について前回の国宝源氏編に近世源氏絵編が加わることになる。新発見の成果で、源氏絵の研究は、新たな局面を迎えようとしているのである。