千年前の宇治の地理的世界が物語の謎を解く2008/11/04 23:45

 京都府の生涯学習として開設されているeラーニングで学ぶ いいとこ取り『源氏物語』を受講中である。

 第1回の橋姫巻では、八の宮の人物造形が、実は、この宇治十帖の物語展開の最初のキーポイントとなっているという解釈が、今回の講師を務められている愛知淑徳大学の外山敦子先生によってなされている点にまず感心させられた。

 その解釈は、実にユニークで面白い。

 源氏物語の正編は、紛れもなく光源氏の生涯を描いた部分であるが、源氏との政権抗争に敗れた八の宮は、俗聖として、宇治に引きこもる。
 宇治十帖の世界は、光源氏を中心とした「勝ち組」の世界とは対照的に、「負け組」の世界である八の宮の居所、宇治を舞台にして始められる。
 この地を訪れる薫は、正編(勝ち組)の筆頭として位置づけられる人物であるが、実は、女三宮と柏木の密通という出生の秘密という決定的な負のイメージを秘めている。
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 八の宮は、出家することが出来ず、俗聖(ぞくひじり)として、宇治での隠棲生活を送っている。大君、中の君の姫君達も八の宮と共に過ごしている。
 負のイメージを秘めた薫と「負け組」の八の宮が出逢うのは、物語の宿命であり、新たな展開を生むきっかけとなる。
 マイナスとマイナスは、やはり引き合うのである。

 さて、俗聖たる八の宮は、聖ともつかず、俗ともにつかない境遇である。(人物造形のポイント)

 それを象徴するかの様に八の宮邸も外山先生によれば、宇治山(朝日山と呼ばれ宇治上神社がある。)と宇治川の間の地点に立地している。
 宇治川の対岸は、都から来た貴族達の別荘が当時建ち並んでおり、完全な俗の世界である。

 夕霧邸もこの対岸に位置する。
 俗(夕霧邸)←宇治川→八の宮邸→宇治山(聖)

という関係の中で、やはり、八の宮邸は、聖とも俗ともつかない中間位置に置かれている。
 国宝源氏物語絵巻の橋姫巻では、宇治川の方向(上弦の月が沈みかける西側)の方角から薫が、八の宮邸を垣間見して、聖なる方向にあたる東側に位置する姫君達の姿を見いだす構図と位置関係が設定されている。
(何よりも驚かされるのは、橋姫巻の記述には、入り日や上弦の月の方位と川霧(宇治川の象徴)を示すことで、正確に位置関係が示され、国宝源氏物語もそれを再現している点だ。)

 浅薄な私は、ここで、疑問に思った。

 それは、平等院等のイメージから西側は浄土と観念があり、こちらを俗と位置づけるのは、無理があるのではと先生に質問を送ったら、次の様な回答があった。
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 「まず前提としておきたいのは、今回の講義が、『源氏物語』が「物語世界としての宇治」の空間をどのように構築していたか、というお話であり、あくまでも架空(フィクション)としての空間の設定方法をご説明いたしました。ですから、実際の宇治の地理環境が、今回の説明で区分できると申し上げていたのではないことをご理解いただきたく存じます。しかしながら「宇治十帖」執筆当時の実際の宇治の状況と、物語内の設定とが全く無関係とは言えません。おそらくは、ほぼ同じような対応関係はあったのではないかと考えられます。」
 とすれば、やはり、物語の構想と当時の宇治の地理的関係の相関性は否定出来ないと先生は考えられているということか。 
 「ご指摘にありました平等院は、もとは、源融(光源氏のモデルともいわれる)の別荘で、それが宇多天皇に渡り、長徳4年(998年)に、藤原道長の別荘「宇治殿」となりました。その後、道長が万寿4年(1027年)に没しその子の頼通が永承7年(1052年)に宇治殿を寺院に改めて「平等院」となっております。つまり、式部が宇治十帖を執筆した頃(源氏物語は1010年には全編完成したといわれています)は、平等院は、時の権力者・道長の別荘「宇治殿」であり、寺院ではありません。中世に書かれた『源氏物語』の注釈書も、この「宇治殿」を、夕霧の別荘のモデルとしています。ですから、当時の宇治の状況も、物語に語られる空間設定から、大きく逸脱しているわけではないとも推測できます。」
 つまり、宇治殿=平等院=西方浄土の具現というイメージは、源氏物語が成立後の出来上がったイメージということで、当時は、やはり、宇治殿という地域性と源氏物語の成立とは深い関係があったという事になる。

 やはり先生は正しかったことになる。
 よく考えて質問をすれば良かったと思うが、これで新しいことが発見できたので良かったと思う。

 「宇治殿」はあくまでも俗の空間であった訳だ。写真は、GoogleEarthによる。現代の橋姫の地理的関係を示したものである。

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