新学部構想明らかに2008/11/17 12:59

佛大の学部構想が発表された。

http://www.bukkyo-u.ac.jp/100th/project/department/

文学部は、仏教学部、文学部、歴史学部の3学部に分かれる。文学部の中に、日本語日本文学科、中国学科、英米学科が設置されることになる。

 日本語日本文学部は、現行のシステムでも日本語日本文学コースに格下げされていたのが、学科に復権、返り咲くこととなった。
まずは、めでたし、めでたし。

 旧日本史コース、アジア史コース、地域文化コースは、歴史学部の中で、史学科と歴史文化学科に分かれる。つまり、地域文化コースと、アジア史コースが解体されてしまいアジア史コースは、史学科の1部門、地域文化コースは、歴史文化学科と仏教文化コースに再び分かれる。
 不可思議なのは、神懸かり等の研究で著名な斎藤秀喜先生の所属しておられるのは、現行の人文学科地域文化コースであるが、これは、歴史文化というよりも、仏教文化の方に移動してしまうのだろうか。もともとが、文学部仏教学科仏教文化コースに所属されていたので、「里帰り」ということか。

 つまり、地域文化は、仏教文化と歴史文化の両方に包含されるが、この辺りの学際的領域への対応が明らかにされていない。
 また、八木先生の民俗学は、仏教文化にも関わっているし、歴史文化にも関わっているし、地域社会学にも関わっている。どちらにも分類できる。定義づけは無理だ。

 例えば、「薬師・観音信仰の地域性」といった研究テーマで論文を書きたいとすれば、どの学科、学部に進学したら良いのだろうか。「仏教文化」的研究となれば、表現史や表現形態、あるいは、寺院毎の展開といったことが主眼になるだろうし、歴史文化学科であれば、神仏習合と地域固有文化との関係、地域文化の展開の中で、薬師・観音信仰がどの様に展開されていたか、時代毎に考察を加えていくだろう。
 今回の区分けで問題になるのは、学際的要素が幾分薄らいだこと。歴史学部構想の中で、地域文化との関わりが希薄になった点である。現代の史学研究は、文献学を基礎に地域叙述を検証していくといった方向性よりも、より学際的な地域社会・文化との関わりの方に向いてきているだけに、今回の改編で、史学・考古学や仏教文化の地域との関わりが薄らいでしまったことである。

 これまで以上に入学前のガイダンスが大変になることは間違いないだろう。
 今回の改編で、せっかくの学際的な領域の交流の可能性がかなり薄らいでしまったのは、残念だ。

 分類・区分は、文献学に基づいた文学研究のベースとなる仕業だけに、それが曖昧な今回の組織改編は、やはり、この大学の研究レベルを示すものと言えそうだ。

仏教文化と仏教芸術はどう違うんだろうか。2008/11/17 23:19

 「文化」なのか「芸術」なのか、その区別や定義が未だに明確化出来ないところに、日本という国の「文化」程度の低さ、世界の一流国になれないという原因が存在しているのだと思う。
 
 私は、ついこの間、佛教大学の「文学部・人文学科・仏教芸術コース」を卒業したが、今回の学部改組で、「仏教学部・仏教学科・仏教文化コース」に改編されることとなった。

 単なる「言い回し・文字の表記」の違いではないかと言われそうだが、実際には、大きな違いが存在すると思う。現行の仏教芸術コースに異議を持たれている仏教・浄土コースの先生にも出逢ったりした。また、以前の仏教文化コースにおられた先生で、大学を去られた先生も存じあげている。

 「文化」の名称が良いのか、「芸術」のそれが良いのかは、かなり、観点が異なってくると思う。「文化」という言葉も多義性を持っている。ドイツ芸術至上主義の「文化」というのは、「精神文化」を中心とした形而上学的な要素を多く含んだニュアンスである。

 日本の戦前の美学教育は、京大等に、特に癖が強い先生がおられて、受け継がれているが、アカデミズムと「精神文化」を融合させた日本独自の理想主義の観点である。一方、文化人類学、文化社会学、あるいは、生活文化といった「文化」、あるいは、「文化住宅」、「文化鍋」等といった名称に使われる文化とは、どの様な語義的性質を持つのだろうか。多分にこれは、様式=文化という意味合いが強い。例えば、弥生文化、縄文文化というのは、生活様式、土器や木器、石器といった遺物から認められる生活様式を文化として定義づけて分類される。

 また、社会学の「文化」とは、日常の社会集団の生活の中で、培われた生活が、様式化されたものを指しているのだと思う。今回の佛教大学の仏教文化コースは、どの様な観点を指しているのだろうか。

 また、仏教芸術コースの「芸術」とはなんであったのだろう。仏教芸術コースに入学した最初に悩んだのはこれである。文化ではないことは事実だ。

 実際のカリキュラムを見れば、説話文学、仏教文学、あるいは、経典の解釈といった部分から切り離された単なる絵画、彫刻(仏像等)、芸能(唱導)等の表現手法に限定されたものであった。

 とすれば、「芸術」は、表象的なのだろうか。それも浅薄な考えであり、卒業論文でもそれらの表現様式、方法等の表象的な部分について分析、論じたとしても、結局は、「何故、この様な表現方法を採ったのだろうか。」という問題点に突き当たり、次の段階では、「何故、この様な表現が産み出される様に至ったのだろうか。人間の衝動・宗教的感情がどの様にして芸術表現に結びついていくのだろうか。」というテーマを究極的に追求していくのに他ならない。

 そうすれば、結局、仏教に関する芸術表現というのは、宗教の精神的背景の究明に結びついていくことになるのだと思う。つまり、「仏教芸術コースは、仏教の精神や理論的背景が希薄なので、存在意義がない。」と言われていた仏教学科の先生への反論にもなる。逆に、「仏教文化コース」という名称が、先述の語彙・語義的考察からすれば、必ずしも精神的であるとは言えない。

 佛教大学の坪内捻典先生が、私の詩歌や俳句の創作に対する考え方をたしなめたことがある。それは、私の元々の考えである「和歌、俳句、詩歌は、芸術的感興が衝動的に抑えきれなくなった時に自然に発生し、つくられるものだという。」という考え方は、間違っていると指摘され、「芸術的感興は、確かに表現意欲はつながるが、それよりも、既成の語義(ひらったく言えばことば)を如何に効果的に組みあげて、客観的・普遍的に第3者に理解される様にコンストラクトすることが重要である。」と言われたことを記憶している。

 つまり、「俳句」は、「芸術」では、なくて「文化」なのである。
 仏教芸術と仏教文化の定義づけもそういった方向に近いのではないかと私は考えている。