常連の居酒屋にいるのと変わらない ― 2009/03/21 10:28
関西大学国文学科同窓会が4月5日(日曜日)に開催される。
同窓の方は、参加していただきたい。
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~uranishi/zemi/page029.html
このお世話をされているのが、浦西和彦先生で、最初の会から1回も欠かさず参加しているが、本当に先生は、一生懸命にこの会の世話をされておられ、頭が下がります。
「オーよしよし!」と参加者に、実に、嬉しそうな表情をしてビールを注いで回られる先生の姿。こんなことがあるから、会を休む訳にはいかないのである。
実は、私は、この会に参加するのは、あんまり気乗りがしていない。それは、この同窓会でお知り合いになった方ばかりなので、本当の同窓生と一度も顔を合わせたことがない為である。
参加をうながす葉書等を出しているが、梨の礫なんで、本当にがっかりである。
つまり、この会では、常連の居酒屋にいるのと変わらない訳で、周囲の人達の話題に「ウンウン」と頷いている他はない。
先生方も清水好子先生もかなり前にお亡くなりになってしまっているし、途中で退職された肥田皓三先生は、別として、他の先生方も大部分が定年退職されている。
「現役」の先生方は、大島薫先生(この人は学部1回生で関大に入学された時から知っている。生え抜きの先生である。中世文学がご専門。)以外は、私とは縁ががない。京大とかその他のエライさんの大学から天下りされた方ばかりなので、そうしたつながり出来にくい。
浦西先生は、関西大学ご卒業後、大学院にも行かず(だぶんそうだと思う)高校の教員になられて、プロレタリア文学史(葉山嘉樹等のプロレタリア作家の書誌、年譜考証)の研究が高校の機関誌か何かにずっと発表され続けていて、大学に戻り、見事教授になられた。
私は、浦西先生が教授になられた時の最初の学生であった。(基礎ゼミかなにかで、先生のクラスであった。)
それから幾星霜、先生はますます元気でご活躍され、最近では、四国近代文学事典や、大阪近代文学事典、紀伊半島近代文学事典等、ご当地ものの文学事典を編纂、刊行され続けている。
また、この写真の様な『セメント樽の中の手紙』解説や年譜考証をされている。
プロレタリア文学史は、浦西先生以外には吉田永宏先生(この人は、天王寺の生まれ、産業新聞社編集局員等、新聞の仕事もされてから高校教師、関大教授になられた。)に詳しくならった。
ナップ(知る人ぞ知る!!)の機関誌、「戦旗」とか「種蒔く人」、「労農芸術家連盟」、「前衛芸術家同盟」等についても学習したと思うが、あんまり印象に残っていない。
例えば、『セメント樽の中の手紙』と今読んでいるアミーチスの『クオレ』とどちらが、文学性が高いだろうか。
なんか、王朝文学の世界に居る私にとって、文学は美しくないと駄目と思うが、プロレタリア文学では、やはり、ブルジョア的で、現実を描かねばならないということになる。
プロレタリア文学を読む位ならば、『明治東京下層生活史』中川静編、岩波文庫等の方が、事実を描いているだけに説得力があると思う。
少なくとも文学というならば、秀逸な表現力がある作品ということになるだろう。プロレタリア文学の中には、たしかに、21世紀の私たちの文学認識を越えた前衛的な作品も中には存在するが、大部分が、表現力の稚拙さ故に、時代に埋もれてしまっているものが多いと考える。
同窓の方は、参加していただきたい。
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~uranishi/zemi/page029.html
このお世話をされているのが、浦西和彦先生で、最初の会から1回も欠かさず参加しているが、本当に先生は、一生懸命にこの会の世話をされておられ、頭が下がります。
「オーよしよし!」と参加者に、実に、嬉しそうな表情をしてビールを注いで回られる先生の姿。こんなことがあるから、会を休む訳にはいかないのである。
実は、私は、この会に参加するのは、あんまり気乗りがしていない。それは、この同窓会でお知り合いになった方ばかりなので、本当の同窓生と一度も顔を合わせたことがない為である。
参加をうながす葉書等を出しているが、梨の礫なんで、本当にがっかりである。
つまり、この会では、常連の居酒屋にいるのと変わらない訳で、周囲の人達の話題に「ウンウン」と頷いている他はない。
先生方も清水好子先生もかなり前にお亡くなりになってしまっているし、途中で退職された肥田皓三先生は、別として、他の先生方も大部分が定年退職されている。
「現役」の先生方は、大島薫先生(この人は学部1回生で関大に入学された時から知っている。生え抜きの先生である。中世文学がご専門。)以外は、私とは縁ががない。京大とかその他のエライさんの大学から天下りされた方ばかりなので、そうしたつながり出来にくい。
浦西先生は、関西大学ご卒業後、大学院にも行かず(だぶんそうだと思う)高校の教員になられて、プロレタリア文学史(葉山嘉樹等のプロレタリア作家の書誌、年譜考証)の研究が高校の機関誌か何かにずっと発表され続けていて、大学に戻り、見事教授になられた。
私は、浦西先生が教授になられた時の最初の学生であった。(基礎ゼミかなにかで、先生のクラスであった。)
それから幾星霜、先生はますます元気でご活躍され、最近では、四国近代文学事典や、大阪近代文学事典、紀伊半島近代文学事典等、ご当地ものの文学事典を編纂、刊行され続けている。
また、この写真の様な『セメント樽の中の手紙』解説や年譜考証をされている。
プロレタリア文学史は、浦西先生以外には吉田永宏先生(この人は、天王寺の生まれ、産業新聞社編集局員等、新聞の仕事もされてから高校教師、関大教授になられた。)に詳しくならった。
ナップ(知る人ぞ知る!!)の機関誌、「戦旗」とか「種蒔く人」、「労農芸術家連盟」、「前衛芸術家同盟」等についても学習したと思うが、あんまり印象に残っていない。
例えば、『セメント樽の中の手紙』と今読んでいるアミーチスの『クオレ』とどちらが、文学性が高いだろうか。
なんか、王朝文学の世界に居る私にとって、文学は美しくないと駄目と思うが、プロレタリア文学では、やはり、ブルジョア的で、現実を描かねばならないということになる。
プロレタリア文学を読む位ならば、『明治東京下層生活史』中川静編、岩波文庫等の方が、事実を描いているだけに説得力があると思う。
少なくとも文学というならば、秀逸な表現力がある作品ということになるだろう。プロレタリア文学の中には、たしかに、21世紀の私たちの文学認識を越えた前衛的な作品も中には存在するが、大部分が、表現力の稚拙さ故に、時代に埋もれてしまっているものが多いと考える。
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