少年雑誌の裏に白黒の汚い紙に細かく掲載されていたインチキ広告を思わせる様な商品 ― 2009/07/01 00:25
またまた、衝動買いをしてしまった。
昔、少年雑誌の裏に白黒の汚い紙に細かく掲載されていたインチキ広告を思わせる様な商品。
【倒産品】映像も音声もバッチリ記録!4GB内蔵ペン型ビデオカメラレコーダー黒×金◇PSVC-SU4GB
http://store.shopping.yahoo.co.jp/shopmisty/20090416-za03.html
これって4GBのメモリーが3480円だけでも価値があると思った。しかも、万年筆の中に超小型ビデオカメラが仕組まれており、音声録音も出来るという。
4GB分の音声録音が出来れば、こっそり背広にペンを刺しておいてオフレコの記事ネタもものに出来るのではとのはかない野心が購入に導いた。
実際には代引き手数料と送料込みで4740円で5千円近くなった。4GBフラッシュメモリーとして考えたら相場値段か。
注文して翌々日には佐川急便で届いた。写真の通り、実際に筆記も出来るボールペン。ところが、真ん中のネジを外すと、USB端子が現れる。この根っこに、静止画とビデオを選択出来るレバーがある。
ピンの裏側にマイクが、ピンの上に小さい穴があるが、そこになんと超小型のCCDカメラが埋め込まれている。ちょっとみると、ただの穴にしかみえない。だから、この商品のことを知らない人であれば、全然撮影していても気づかれない。
万年筆のキャップの上側にポツとしたボタンがあり、そこで電源オンや写真シャッターを切る。撮影、動画録画ともに、モニターは出来ない。
実際に撮影してみた。歩行しながら、上着のポケットに刺しての撮影はブレテ無理。撮影は、やはり立ち止まってやらないと駄目。エスカレータでは、うまく撮影出来る。また、被写体がうまく撮れているかを確認するには、コツが入りそう。
http://www.youtube.com/watch?v=ruKNcgRQO18
音声、画像の質は、この値段であれば、合格点だと思う。録音には使えそうだが、直ぐにバッテリー(USB充電)が30分位で切れてしまうのには気になった。
パソコンのUSB端子に刺してデータを交換出来るので、音声録音機として活用しても便利。また、超小型ユニットなので、これをバラして、鉄道模型の走行車両に組み込めば、動画が撮影出来て面白いかも。
くれぐれも盗撮など犯罪には使わない様に。
昔、少年雑誌の裏に白黒の汚い紙に細かく掲載されていたインチキ広告を思わせる様な商品。
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これって4GBのメモリーが3480円だけでも価値があると思った。しかも、万年筆の中に超小型ビデオカメラが仕組まれており、音声録音も出来るという。
4GB分の音声録音が出来れば、こっそり背広にペンを刺しておいてオフレコの記事ネタもものに出来るのではとのはかない野心が購入に導いた。
実際には代引き手数料と送料込みで4740円で5千円近くなった。4GBフラッシュメモリーとして考えたら相場値段か。
注文して翌々日には佐川急便で届いた。写真の通り、実際に筆記も出来るボールペン。ところが、真ん中のネジを外すと、USB端子が現れる。この根っこに、静止画とビデオを選択出来るレバーがある。
ピンの裏側にマイクが、ピンの上に小さい穴があるが、そこになんと超小型のCCDカメラが埋め込まれている。ちょっとみると、ただの穴にしかみえない。だから、この商品のことを知らない人であれば、全然撮影していても気づかれない。
万年筆のキャップの上側にポツとしたボタンがあり、そこで電源オンや写真シャッターを切る。撮影、動画録画ともに、モニターは出来ない。
実際に撮影してみた。歩行しながら、上着のポケットに刺しての撮影はブレテ無理。撮影は、やはり立ち止まってやらないと駄目。エスカレータでは、うまく撮影出来る。また、被写体がうまく撮れているかを確認するには、コツが入りそう。
http://www.youtube.com/watch?v=ruKNcgRQO18
音声、画像の質は、この値段であれば、合格点だと思う。録音には使えそうだが、直ぐにバッテリー(USB充電)が30分位で切れてしまうのには気になった。
パソコンのUSB端子に刺してデータを交換出来るので、音声録音機として活用しても便利。また、超小型ユニットなので、これをバラして、鉄道模型の走行車両に組み込めば、動画が撮影出来て面白いかも。
くれぐれも盗撮など犯罪には使わない様に。
大阪の古書店を探していると、『澱川両岸一覧』が販売されていた。全巻揃いで20万円位。 ― 2009/07/01 09:40
先日、『宇治川両岸一覧』という書物を紹介したが、この「両岸一覧」と銘打った書物が幕末にかけて、大量に刊行されているようだ。
従来の名所図会は、モノクロ印刷であり、サイズも大きく、記載も江戸時代も終わりに近づくと情報が陳腐化しており、だいぶ、飽きられて来た。
そこで新しい企画として、カラー版(数色刷り)、ハンディサイズ、最新の景物情報の提供というコンセプトで各地の「両岸一覧」が刊行される様になったようだ。
昨日も、大阪の古書店を探していると、『澱川両岸一覧』が販売されていた。全巻揃いで20万円位。
http://www.human.osakafu-u.ac.jp/kamigata/books/chishi/chishi_01.html
装幀や挿絵等も『宇治川両岸一覧』にそっくり。刊記をみるとやはり、文久三年とあり、宇治川一覧と同じ時期の刊行物で、大坂の書肆である河内屋喜兵衛等の相合版。
幕末には、出版業界もそれ程、裕福ではなくなり、また、刊行物の当たりはずれも大きかったので、相合版による刊行が中心になったようだ。伏見の船宿の風景等も面白く、結局、宇治川両岸一覧の続編(同じ川筋を南下
している。)と考えられる。
関東では、隅田川両岸一覧が刊行された。こちらは、もっとカラフルで錦絵調。北斎の作品なので美術的に優れている。
http://www.solmare.com/cbox_jp/photo12_duplication/ehon_sumidagawa/index.htm
『澱川両岸一覧』の原形は、文政7年に刊行された)、『淀川両岸勝景図会』が元になっているようだ。仕掛け人は、同じく暁鐘成である。
他にも、「両岸一覧」が存在しないのか、あるいは、名所図会との比較等の作業をやってみると、近世出版・絵画文化史の以外な面を探れるかも知れない。
面白いのは、「両岸一覧」を元に小説まで書かれており、当時の文芸・風俗の中でも、「両岸一覧」を中心にコラボレーションされていたのが面白い。
従来の名所図会は、モノクロ印刷であり、サイズも大きく、記載も江戸時代も終わりに近づくと情報が陳腐化しており、だいぶ、飽きられて来た。
そこで新しい企画として、カラー版(数色刷り)、ハンディサイズ、最新の景物情報の提供というコンセプトで各地の「両岸一覧」が刊行される様になったようだ。
昨日も、大阪の古書店を探していると、『澱川両岸一覧』が販売されていた。全巻揃いで20万円位。
http://www.human.osakafu-u.ac.jp/kamigata/books/chishi/chishi_01.html
装幀や挿絵等も『宇治川両岸一覧』にそっくり。刊記をみるとやはり、文久三年とあり、宇治川一覧と同じ時期の刊行物で、大坂の書肆である河内屋喜兵衛等の相合版。
幕末には、出版業界もそれ程、裕福ではなくなり、また、刊行物の当たりはずれも大きかったので、相合版による刊行が中心になったようだ。伏見の船宿の風景等も面白く、結局、宇治川両岸一覧の続編(同じ川筋を南下
している。)と考えられる。
関東では、隅田川両岸一覧が刊行された。こちらは、もっとカラフルで錦絵調。北斎の作品なので美術的に優れている。
http://www.solmare.com/cbox_jp/photo12_duplication/ehon_sumidagawa/index.htm
『澱川両岸一覧』の原形は、文政7年に刊行された)、『淀川両岸勝景図会』が元になっているようだ。仕掛け人は、同じく暁鐘成である。
他にも、「両岸一覧」が存在しないのか、あるいは、名所図会との比較等の作業をやってみると、近世出版・絵画文化史の以外な面を探れるかも知れない。
面白いのは、「両岸一覧」を元に小説まで書かれており、当時の文芸・風俗の中でも、「両岸一覧」を中心にコラボレーションされていたのが面白い。
四十雀が昨日から見えなくなった ― 2009/07/01 23:08
ここへ来て、また、足の痛みがぶり返して跋扈に逆戻り。
今日は、大変な暴風雨がカサが逆さまになるし、帰宅時にはびしょぬれになる等、台風の時よりもひどい有様。
家の前の急さかを足を引きずりながら歩く惨めな姿を想像して欲しい。
自宅の庭の電柱に巣作りをしていた四十雀が昨日から見えなくなった。どこかに避難しているのだろう。嵐が来る前から彼らは、こんな風になるのを予知する能力があるのかもしれない。
また、無事な姿をみたいが、もう、無理なんだろうか。
今日、佛大通信院でご一緒したKさんという女性から句集をいただいた。ご年配(失礼)の筈だけれども、モダンな句を詠まれる。
少し、気になったのは、言葉のイメージが俳句の外に染みだして、それが、句の対象となる景物まで染めているのが幾つかあった。
そうなると、結局、自慰的な世界に陥ってしまうので、言葉のイメージは大切だけれども、やはり、詠まれる対象と俳句の言葉のイメージは、別々に独立したものでなければならないと思う。
言葉のイメージが優れた俳人は幾つもいらっしゃるが、どうどう巡りになってしまっている人はそれ程、多くはない。これが個性ということなれば、そうなんだろうけれども。
Kさんは船団の会に所属されており、坪内先生も目をかけておられる優れた人なので、私には、その様に言う資格はないが、読んでもらう為に私の家までわざわざ送って下さったのだから、意見くらいは言ってもよいかも。
Kさんと私が、昨年の9月の佛大の卒業式で記念撮影した写真も持っているし、佛大通信11月号にもそのお姿が載っている。(この11月号は、私の論文のタイトルが掲載されているというので、大学から送っていただいたものである。
それにしても佛大の通信大学院での活動が、今の充実した知的生活に結実している方が、案外、多いので、自分の様な人間は、駄目だと思ってしまいがちになる。(事実、その様に言われた佛大の先生もおられ、その通りだと私も妙に納得している次第。)
最近、私は、自分の人生のグレードを下流でもないと思うようになっている。今の心境・境遇は、まさに「川柳」ではなくて、「賤流」であると思う。
今日は、大変な暴風雨がカサが逆さまになるし、帰宅時にはびしょぬれになる等、台風の時よりもひどい有様。
家の前の急さかを足を引きずりながら歩く惨めな姿を想像して欲しい。
自宅の庭の電柱に巣作りをしていた四十雀が昨日から見えなくなった。どこかに避難しているのだろう。嵐が来る前から彼らは、こんな風になるのを予知する能力があるのかもしれない。
また、無事な姿をみたいが、もう、無理なんだろうか。
今日、佛大通信院でご一緒したKさんという女性から句集をいただいた。ご年配(失礼)の筈だけれども、モダンな句を詠まれる。
少し、気になったのは、言葉のイメージが俳句の外に染みだして、それが、句の対象となる景物まで染めているのが幾つかあった。
そうなると、結局、自慰的な世界に陥ってしまうので、言葉のイメージは大切だけれども、やはり、詠まれる対象と俳句の言葉のイメージは、別々に独立したものでなければならないと思う。
言葉のイメージが優れた俳人は幾つもいらっしゃるが、どうどう巡りになってしまっている人はそれ程、多くはない。これが個性ということなれば、そうなんだろうけれども。
Kさんは船団の会に所属されており、坪内先生も目をかけておられる優れた人なので、私には、その様に言う資格はないが、読んでもらう為に私の家までわざわざ送って下さったのだから、意見くらいは言ってもよいかも。
Kさんと私が、昨年の9月の佛大の卒業式で記念撮影した写真も持っているし、佛大通信11月号にもそのお姿が載っている。(この11月号は、私の論文のタイトルが掲載されているというので、大学から送っていただいたものである。
それにしても佛大の通信大学院での活動が、今の充実した知的生活に結実している方が、案外、多いので、自分の様な人間は、駄目だと思ってしまいがちになる。(事実、その様に言われた佛大の先生もおられ、その通りだと私も妙に納得している次第。)
最近、私は、自分の人生のグレードを下流でもないと思うようになっている。今の心境・境遇は、まさに「川柳」ではなくて、「賤流」であると思う。
女媧(カ)氏いまだこの足を断じ去って、五色の石を作らず。 ― 2009/07/02 00:00
これらの文庫本は、私の書棚の上から4段目にまとめて置かれている。これ以外には、幾つかの漱石の随筆や漱石書簡集、寺田寅彦随筆集(この本も良いが幾つか紛失してしまった。)
その隣には、捻典先生の句集が配架されている。
「病気と文学」っていうのは、私の趣味でもある。祖母が生前生きていて、私をみて、何時も、「鬱陶しいねぇ~~」というのが口癖だった。古本の収集も趣味であったので、そんな「「肺病患者」が読んだかもしれない本はさっさと捨てなさい。」とか「図書館の本は汚いので気をつけて読みなさい。」等、細々言われたことが記憶に残っている。
ジュンク堂、梅田店には、「病気」というジャンルがある。私は、特にガン闘病記ものが好きなので、数冊持っている。
正岡子規の晩年も病気ということで興味があった。坪内先生の大学院の授業は、病床六尺を中心に読んでいくものであった。
面白い授業で、担当箇所を指定されて、それぞれ自由に発表しなさいというので、「何をやっても良い・許される」というゼミであった。
私は、当然、子規の画業について、浮絵等の江戸時代の絵画技法等を含めて発表した。
病床六尺は、ブログの様なものである。仰臥漫録は、こちらの方がなんか、オープンな感じがするが、実は、これは、病床での備忘録である。墨汁一滴も、日記とは言えない。
日記と往復書簡というのは、江戸時代以来の文芸の伝統でもある。近世初期には、書簡小説というジャンルがあった。まさに手紙のやり取りを通じてストーリーが展開していくという斬新なアイデアであったが、江戸中期以降は廃れてしまった。
子規という人は、病床の中で、様々な景物に興味を持って、アイデアを膨らませていて、それを毎日、病床六尺というブログに書きつづっていった。
いつも通っていた立ち飲みには、手帳を破って漢詩を書いて、それを肴に酒を飲んだりする風流な若者がいるが、その方が子規の和歌を話題にされて面白がっておられた。私は、仰臥漫録から引き合いを出して応じたが、この方の知的レベルにはついて行けず、「野球」の話でごまかしてしまった。
『病床六尺』で子規が最後に苦しんだのは、足の腫れ上がる傷みである。
○足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大盤石の如し。僅かに指頭をもってこの脚頭に触るれば、大地震動、草木号叫、女媧(カ)氏いまだこの足を断じ去って、五色の石を作らず。
『史記』三皇本紀にある女媧補天の話である。天を支える柱が折れて、地をつなぐ綱が切れて天地が傾いてしまった時、なんと、女媧は、五色の石を練って天を補修して、亀の足を切って地の四方をつなぐ柱をたて、葦の灰を集めて大洪水を抑えて、中国全土を救った説話を引いている。
ここでは、そんな女媧でさえも、こんなに大地が鳴動する程の傷みの足を切ることは出来ないだろうというのである。
こんな表現は、大げさかと思うが、痛風でも本当に痛い時は、こんな感じがある。
病床にいると傷み以外に何も感じられなくなる時がある。そうなると傷みが巨大な怪物と化して、苦しめるのである。
痛風の痛みがあんまり痛い時には、足を万力で挟んで骨を砕かれる拷問を受けている様な苦痛であり、この足を切ってしまえたらと思った位である。
その隣には、捻典先生の句集が配架されている。
「病気と文学」っていうのは、私の趣味でもある。祖母が生前生きていて、私をみて、何時も、「鬱陶しいねぇ~~」というのが口癖だった。古本の収集も趣味であったので、そんな「「肺病患者」が読んだかもしれない本はさっさと捨てなさい。」とか「図書館の本は汚いので気をつけて読みなさい。」等、細々言われたことが記憶に残っている。
ジュンク堂、梅田店には、「病気」というジャンルがある。私は、特にガン闘病記ものが好きなので、数冊持っている。
正岡子規の晩年も病気ということで興味があった。坪内先生の大学院の授業は、病床六尺を中心に読んでいくものであった。
面白い授業で、担当箇所を指定されて、それぞれ自由に発表しなさいというので、「何をやっても良い・許される」というゼミであった。
私は、当然、子規の画業について、浮絵等の江戸時代の絵画技法等を含めて発表した。
病床六尺は、ブログの様なものである。仰臥漫録は、こちらの方がなんか、オープンな感じがするが、実は、これは、病床での備忘録である。墨汁一滴も、日記とは言えない。
日記と往復書簡というのは、江戸時代以来の文芸の伝統でもある。近世初期には、書簡小説というジャンルがあった。まさに手紙のやり取りを通じてストーリーが展開していくという斬新なアイデアであったが、江戸中期以降は廃れてしまった。
子規という人は、病床の中で、様々な景物に興味を持って、アイデアを膨らませていて、それを毎日、病床六尺というブログに書きつづっていった。
いつも通っていた立ち飲みには、手帳を破って漢詩を書いて、それを肴に酒を飲んだりする風流な若者がいるが、その方が子規の和歌を話題にされて面白がっておられた。私は、仰臥漫録から引き合いを出して応じたが、この方の知的レベルにはついて行けず、「野球」の話でごまかしてしまった。
『病床六尺』で子規が最後に苦しんだのは、足の腫れ上がる傷みである。
○足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大盤石の如し。僅かに指頭をもってこの脚頭に触るれば、大地震動、草木号叫、女媧(カ)氏いまだこの足を断じ去って、五色の石を作らず。
『史記』三皇本紀にある女媧補天の話である。天を支える柱が折れて、地をつなぐ綱が切れて天地が傾いてしまった時、なんと、女媧は、五色の石を練って天を補修して、亀の足を切って地の四方をつなぐ柱をたて、葦の灰を集めて大洪水を抑えて、中国全土を救った説話を引いている。
ここでは、そんな女媧でさえも、こんなに大地が鳴動する程の傷みの足を切ることは出来ないだろうというのである。
こんな表現は、大げさかと思うが、痛風でも本当に痛い時は、こんな感じがある。
病床にいると傷み以外に何も感じられなくなる時がある。そうなると傷みが巨大な怪物と化して、苦しめるのである。
痛風の痛みがあんまり痛い時には、足を万力で挟んで骨を砕かれる拷問を受けている様な苦痛であり、この足を切ってしまえたらと思った位である。
お酢を飲んでいます。 ― 2009/07/02 22:33
痛風の原因は、血液が悪くなっているということなんで、
お酢を飲んでいる。
薩摩黒酢という商品で、大分前に買ってまずいので、
置いておいたもの。
とうに賞味期限が過ぎているが、酢なんで腐らないと
思って飲んでいる。
お酢は、血液中の乳酸を分解、燃焼させるということが
色々とネットに書いてあるので試しているが、やはり、
不味いです。
私は、日本酒でもべたっとした甘口タイプが嫌いなので、
日本酒の甘さを酸っぱさに換えたらお酢になってしまう
ので、やはり、苦手。
それでも、お酢を飲むと、痛風等の痛みが引くのが早く
なる様な気がする。
それとかマグネシウムとかカルシウムとかそういったもの
も試しているが、あんまり意味がなさそう。
今日は、昨日よりも少し、マシに歩ける様になったが、
やはり跋行なので、かっこ悪い。
会社に出る用事があったので、帰りに回転寿司に
寄ったら、アサヒスーパードライをとなりの人が飲んでいる
ので、少し、匂いを嗅いだだけなのに手が震えて困った。
もうアル中なのかもしれない。
お酢を飲んでいる。
薩摩黒酢という商品で、大分前に買ってまずいので、
置いておいたもの。
とうに賞味期限が過ぎているが、酢なんで腐らないと
思って飲んでいる。
お酢は、血液中の乳酸を分解、燃焼させるということが
色々とネットに書いてあるので試しているが、やはり、
不味いです。
私は、日本酒でもべたっとした甘口タイプが嫌いなので、
日本酒の甘さを酸っぱさに換えたらお酢になってしまう
ので、やはり、苦手。
それでも、お酢を飲むと、痛風等の痛みが引くのが早く
なる様な気がする。
それとかマグネシウムとかカルシウムとかそういったもの
も試しているが、あんまり意味がなさそう。
今日は、昨日よりも少し、マシに歩ける様になったが、
やはり跋行なので、かっこ悪い。
会社に出る用事があったので、帰りに回転寿司に
寄ったら、アサヒスーパードライをとなりの人が飲んでいる
ので、少し、匂いを嗅いだだけなのに手が震えて困った。
もうアル中なのかもしれない。
ちゅうと半端やなぁ~。今の阪神を象徴しているんちゃうか。 ― 2009/07/03 20:57
これは、もう駄目かもわからんよ ― 2009/07/03 21:52
2年前に大阪市中央区にあったVバランスの店で血液(生の奴)を顕微鏡で撮影してもらった画像である。07年10月頃の記事にも一度アップしてある。
医者は、「これは、もう駄目かもわからんよ。」と言っていた。
赤血球が金平糖状に変化してしまっている。活性酸素にやられた状況。黄色で囲んだのが、尿酸の結晶で、これが無数にみられたという。
この段階で僕の身体は駄目だったんだから、良く今までもった方だと思う。今日は、昨日よりも良く歩けたが、やはり、走ることは出来ず、長い間は歩けない身体である。
医者は運動する様にというが、また、運動して汗をかくと水分不足から発作が起きそうな気がしているので安静にしている。
金平糖と尿酸の結晶で埋まった血液の様子を「ミクロの決死圏」の様なマイクロ潜水艇でみてみたいものだ。
医者は、「これは、もう駄目かもわからんよ。」と言っていた。
赤血球が金平糖状に変化してしまっている。活性酸素にやられた状況。黄色で囲んだのが、尿酸の結晶で、これが無数にみられたという。
この段階で僕の身体は駄目だったんだから、良く今までもった方だと思う。今日は、昨日よりも良く歩けたが、やはり、走ることは出来ず、長い間は歩けない身体である。
医者は運動する様にというが、また、運動して汗をかくと水分不足から発作が起きそうな気がしているので安静にしている。
金平糖と尿酸の結晶で埋まった血液の様子を「ミクロの決死圏」の様なマイクロ潜水艇でみてみたいものだ。
能勢妙見山は、紫陽花の花が花盛り ― 2009/07/04 16:24
午前中に近所の妙見山の紫陽花を撮しに行って来た。
家を10時位に出て、山上についたのは、11時位だったと思うから、案外、近いところにある撮影ポイントである。
駅からケーブルカー乗り場まで結構、離れていて一汗かいた。痛風の足にはつらいものがある。
ケーブルカーで山上についた時点で、幾つかの紫陽花の群落が存在する。少し距離を歩いて、さて、お楽しみのリフトカーにである。
左右には紫陽花の花が満開で。壁の様になっている。中には、リフトカーの通路まではみ出ているのもあり、花がリフトでこすれて可哀想なのもあった。
後ろにリュックで、リフトのポールを右手で抱え込んで、更に、前に腕を伸ばして、カメラを構えるという極めて不安定な姿勢での、ぶら下がり撮影であった。
かなり高いところも通行するので、恐かったが、撮影が始めるとそれも忘れた。
タムロンの18~200㎜ズームで撮影であったが、大抵テレ端。LUMIX程ではないが、やはり、AFが間に合わないこともあった。マニュアルフォーカスもこの姿勢では使えず、苦労した。
カメラは、PentaxのistDLで600万画素であるが、このカメラの田舎びた独特の発色で紫陽花や田舎の風景を撮影してみたいと思って撮影した。
撮影結果は、こちらにアップしてある。
http://www.picmate.jp/156433488/albums/294162/
このアルバムには、あの懐かしい赤い郵便ポストも撮影されている。ここは、時代が逆戻りしたようである。一面の紫陽花と一緒に味わって欲しい。
家を10時位に出て、山上についたのは、11時位だったと思うから、案外、近いところにある撮影ポイントである。
駅からケーブルカー乗り場まで結構、離れていて一汗かいた。痛風の足にはつらいものがある。
ケーブルカーで山上についた時点で、幾つかの紫陽花の群落が存在する。少し距離を歩いて、さて、お楽しみのリフトカーにである。
左右には紫陽花の花が満開で。壁の様になっている。中には、リフトカーの通路まではみ出ているのもあり、花がリフトでこすれて可哀想なのもあった。
後ろにリュックで、リフトのポールを右手で抱え込んで、更に、前に腕を伸ばして、カメラを構えるという極めて不安定な姿勢での、ぶら下がり撮影であった。
かなり高いところも通行するので、恐かったが、撮影が始めるとそれも忘れた。
タムロンの18~200㎜ズームで撮影であったが、大抵テレ端。LUMIX程ではないが、やはり、AFが間に合わないこともあった。マニュアルフォーカスもこの姿勢では使えず、苦労した。
カメラは、PentaxのistDLで600万画素であるが、このカメラの田舎びた独特の発色で紫陽花や田舎の風景を撮影してみたいと思って撮影した。
撮影結果は、こちらにアップしてある。
http://www.picmate.jp/156433488/albums/294162/
このアルバムには、あの懐かしい赤い郵便ポストも撮影されている。ここは、時代が逆戻りしたようである。一面の紫陽花と一緒に味わって欲しい。
佛教大学社会学部主催の「テレビの現在と明日を考える」視聴感想等 ― 2009/07/05 17:13
佛教大学社会学部主催の「テレビの現在と明日を考える」というパネルディスカッションが、先月の19日に開催されたが、時刻が悪かったので、私は行けなかった。
幸い、この様にBUアーカイブスで一般の方も視聴出来る。
http://trymax-stream.sakura.ne.jp/bu_stream/cgibin/archives/29.html
画像は、HDモードだが、ADSLの接続条件でもフルスクリーンでアナログTV画面並みの画質で再生出来た。
結局、一番の問題は、TVメディアの享受層と供給事情の乖離ということである。
一番、TV離れしているのは、若年層であり、その背景には、メディアの多様化、メディアリテラシーの普及が挙げられる。実際に、一番TVを良く視聴しているのは、高齢者層であるが、若年者層向けの番組が多いのは、TV放送局に言わせれば、「コスト」の問題であるという。
若年向けには、バラエティー番組がウケルとTV放送局側では考えているようで、こういった番組が一番、お金がかからない。報道特集やドラマ等は制作費が相当嵩んでくる。
民放の場合は、スポンサーの膠着化といった問題もある。つまり、企業文化やイメージにマッチした内容、あるいは、企業倫理といった問題にそぐわない番組にはスポンサーがつかない。
今回のディスカッションをみていると、特に、アナログ放送全盛期には、結構、自由な立場の番組が多かったが、日本のメディア文化自体がグローバル化の潮流に晒され、アメリカ的なニューメディア文化、つまり、企業のメディア支配力が一層強まり、企業とのコラボレーション前提のメディア文化に変質した影響が日本のTV番組にも現れているのではないかと考えられた。
結局、これらの状況から、TVメディアの需要と供給の乖離が深刻化しており、TV離れが一層進展することが危惧されている。特にニュースや必要な情報、あるいは、ドラマ映像まで、ブロードバンドのオンデマンドの方が質が高く、アクセスもフリーである。
当然、情報リテラシーに長けた享受層は、TVよりも、一層、多様なインターネット経由のメディアへと傾斜していく。
こういった中で、アナログ放送が終わろうとしている。
今回のパネリストの中で、衝撃的な事実が打ち明けられた。現在、デジタル、地デジの普及割合は、全体の50%でアナログ放送が終了が迫っていることを考えられると驚異的な低さである。
****更なる嫌がらせがまもなく始まる!!!****
現在は、画面に「アナログ」とテロップが入っているが、更に「嫌がらせ」が強まり、アナログ放送自体の画面が従来の1/4に縮小されるらしい。アナログ離れ、デジタル乗り換えを進展させるのが狙いらしい。
************************
佛大社会学部の大場教授は、「バラエティー番組が、絶対に、ハイビジョンデジタルでなければ、と考えている視聴者は、ほとんどいないのではないだろうか。」と述べた。
どうしてもデジタル放送でなければという決め手に欠ける中で、強制的にデジタル放送に切り換えた場合には、これまでアナログを見ていた居間からTVが消えても、新たに4~5万円も投資した買い換えようとは思わない人達が出てくるのではないだろうか。」と、強制的なアナ→デジ転換の行政的な手法に疑問を提示した。
メディアの質が大きく変化し、TV放送自体の意義の希薄化が進む中で、アナ→デジへの転換が一層のTV離れを進めるのではないだろうかというのが、今回のディスカッションの結論であったような気がする。
では、「TV局、番組制作側はどうすればよいのか、視聴者の要望がTVメディアに反映されるには、どうすればよいのだろうか。」といった建設的な意見は、あまり、提示されなかったようだ。
画面をみていると聴衆もまばらであるし、もっともっとPRする必要がある。
これは、やはり、TV自体への一般大衆の関心の薄らぎが、今回のディスカッションに出席したオーディエンスの数にも現れていたような来がした。
幸い、この様にBUアーカイブスで一般の方も視聴出来る。
http://trymax-stream.sakura.ne.jp/bu_stream/cgibin/archives/29.html
画像は、HDモードだが、ADSLの接続条件でもフルスクリーンでアナログTV画面並みの画質で再生出来た。
結局、一番の問題は、TVメディアの享受層と供給事情の乖離ということである。
一番、TV離れしているのは、若年層であり、その背景には、メディアの多様化、メディアリテラシーの普及が挙げられる。実際に、一番TVを良く視聴しているのは、高齢者層であるが、若年者層向けの番組が多いのは、TV放送局に言わせれば、「コスト」の問題であるという。
若年向けには、バラエティー番組がウケルとTV放送局側では考えているようで、こういった番組が一番、お金がかからない。報道特集やドラマ等は制作費が相当嵩んでくる。
民放の場合は、スポンサーの膠着化といった問題もある。つまり、企業文化やイメージにマッチした内容、あるいは、企業倫理といった問題にそぐわない番組にはスポンサーがつかない。
今回のディスカッションをみていると、特に、アナログ放送全盛期には、結構、自由な立場の番組が多かったが、日本のメディア文化自体がグローバル化の潮流に晒され、アメリカ的なニューメディア文化、つまり、企業のメディア支配力が一層強まり、企業とのコラボレーション前提のメディア文化に変質した影響が日本のTV番組にも現れているのではないかと考えられた。
結局、これらの状況から、TVメディアの需要と供給の乖離が深刻化しており、TV離れが一層進展することが危惧されている。特にニュースや必要な情報、あるいは、ドラマ映像まで、ブロードバンドのオンデマンドの方が質が高く、アクセスもフリーである。
当然、情報リテラシーに長けた享受層は、TVよりも、一層、多様なインターネット経由のメディアへと傾斜していく。
こういった中で、アナログ放送が終わろうとしている。
今回のパネリストの中で、衝撃的な事実が打ち明けられた。現在、デジタル、地デジの普及割合は、全体の50%でアナログ放送が終了が迫っていることを考えられると驚異的な低さである。
****更なる嫌がらせがまもなく始まる!!!****
現在は、画面に「アナログ」とテロップが入っているが、更に「嫌がらせ」が強まり、アナログ放送自体の画面が従来の1/4に縮小されるらしい。アナログ離れ、デジタル乗り換えを進展させるのが狙いらしい。
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佛大社会学部の大場教授は、「バラエティー番組が、絶対に、ハイビジョンデジタルでなければ、と考えている視聴者は、ほとんどいないのではないだろうか。」と述べた。
どうしてもデジタル放送でなければという決め手に欠ける中で、強制的にデジタル放送に切り換えた場合には、これまでアナログを見ていた居間からTVが消えても、新たに4~5万円も投資した買い換えようとは思わない人達が出てくるのではないだろうか。」と、強制的なアナ→デジ転換の行政的な手法に疑問を提示した。
メディアの質が大きく変化し、TV放送自体の意義の希薄化が進む中で、アナ→デジへの転換が一層のTV離れを進めるのではないだろうかというのが、今回のディスカッションの結論であったような気がする。
では、「TV局、番組制作側はどうすればよいのか、視聴者の要望がTVメディアに反映されるには、どうすればよいのだろうか。」といった建設的な意見は、あまり、提示されなかったようだ。
画面をみていると聴衆もまばらであるし、もっともっとPRする必要がある。
これは、やはり、TV自体への一般大衆の関心の薄らぎが、今回のディスカッションに出席したオーディエンスの数にも現れていたような来がした。
えっ!O先生が歴史学部の先生に(驚) ― 2009/07/05 19:59
佛大の新大学案内(受験生向け)がネットで閲覧できる。
http://www.bukkyo-u.ac.jp/nyushi/pamphlet/
ソフトウエア等の環境が必要で、実際に少し動作が私のマシンでは重い。
仏教学部仏教学科が、新規設置されるが、その教授陣をみると、インド・中国仏教、浄土教・浄土宗関連及び仏教思想(日本思想史)の先生方が、仏教学部におられるのは、予想された通りだった。
ところが、チベット仏教史のO先生や仏教芸術関連のA先生は、仏教学部の範疇から離れて、歴史学部歴史文化学科、芸術文化コースに配属されていることが、学部組織の具体的内容が初めてオーソライズされた資料として公表されている今回の案内ガイドで明らかになったことに驚くというか呆れかえっている次第である。
つまり、仏像や仏画、絵巻等の研究が仏教の学問体系とは、「外道」であると判断されたことになる。最初、O先生がタンカを前に教壇に立たれているお姿が、歴史学部の頁に印刷されているのをみて、唖然とした。よくみると、日本神話のS先生、A先生もこちらに居られる。
「仏像は、仏教ではないのだろうか。」と私は思うし、一般の方々もおそらく同意されるだろう。
O先生は、たしかにチベット美術や音楽では、我が国屈指の存在であられるが、同時にブッダから始まったインド仏教の最後の伝統を受け継ぎ、大切に伝承して来たチベット仏典、仏教思想の権威である。
チベット仏教の流れを理解しないことには、インド、中国、日本、その他の仏教思想の体系的な把握は、困難である。つまり、仏教思想と強い関わりを持っており、本来は仏教学部仏教学科もしくは、仏教文化コースにおられるのが正しいのだと思う。
A先生も然りであり、仏像や仏画は、たしかに外形・意匠的な側面からの理解も可能であるが、大乗仏教や密教の日本化の過程における思潮、神仏習合の影響等は、やはり、仏教思想と切っては切れない関係にある筈なのに、歴史文化の方に配置されているのはどうゆう訳だろうか。
かつて私が卒論にとりあげた源氏物語絵巻でさえも、その絵画化の過程をみていく上で、仏教思想と強いつながりがあることが、卒論履修の過程で私は、理解したつもりだったが、それらは、一切、誤解であったことになるのである。
昨年9月末まで私が仏教芸術コースでやってきたことは、新しい佛大の教学大系では、歴史文化の範疇にされてしまう。
畑違いながらも、私の卒論を担当して下さったO先生の専攻研究分野であるチベット仏教や仏教美術は、たしかに、歴史文化の一部であると言えなくもないが、それらを更に広く包含する仏教学の中に含まれ、その結果、周辺学問との連携につながっていくことになる筈である。
大切なのは、チベット仏教、文化が「歴史という過去の遺物」ではなくて、現代社会にも息づいている点である。
NHK文化センターの講演冒頭挨拶で、 S先生は、「私は、日本神話をやっております。法然上人を信捧している佛大のなかでは、外道と呼ばれる存在なんです。」とおっしゃられたが、仏教芸術コースも結局、仏教学からみれば、外道ということになってしまう。
そうなれば、絵の解釈と経典と深い関わりと持っている過去現在因果経や絵画を知覚的現象と連結する唯識的な理解(O先生がヒントを与えてくださった)は、どうなっていくのだろうか。また、SE先生に教わった仏教芸能は、仏教学とは離れた歴史文化的理解にとどまって良いのだろうか。
節談説教の研究でも第1人者であられるSE先生によれば、「説教と学問は異質なものであり、説教者の信仰を背景にした音声の荘厳である。」とおっしゃられている。
たしかに説教節は、「仏教(学)」とは異なるが、深遠な仏教思想の芸術的な表明であることには変わらない。つまり、学問を単なる形骸として捉えない限りは、仏教学・仏教思想と強い関わりを持たざるを得ない訳である。
大学院では、文学研究科仏教文化専攻と日本史学専攻と分野が分かれているが、この分類は、国内の学会組織が伝統的な分類によって行われているの同和を図る為に施されたものであるが、学部教育組織と乖離してしまって、学部を卒業して、大学院のどの専攻に進学すべきか等の「選択の迷い」が生じかねない状況となっている。
前回の人文学科組織再編は、あまりにも簡単・簡潔にやりすぎて、色々な先生に、私が、「人文学科ってやっててどうでした。」と意見を聞くと、「あれは、間違いだったよ。」と異口同音の答えが返ってきた。
今回の仏教学部、文学部の新学部・新学科構想は、史学科や元日本語日本文学コースの先生方や学生には、大歓迎であるが、やはり、急激な変革の皺寄せが考えもしなかったところに来ているのには、閉口させられる。
文科省が奨励する最近の学術・教育は、「学際」と言われているが、実際には、鉛筆で線引きしたり、つなげたりした様に形骸的にそれを示しているに過ぎない。本来は、深く理解しなければ判らないそれぞれの分野の間の「縁」(えにし)の本質的理解がなおざりにされている。今回の学部・学科編成をみても、残念ながら、その様な一端がうかがわれた。
ところで、ガイドの111頁にある総合学生支援「縁」コミュニティはなかなか面白い模式図であり、佛大の教育の理念を判りやすく示しているが、その内容をみると、別に「縁」に拘らなくも、正常な人間関係(師弟、同窓、組織)が保たれておれば、自然に実現できることで、別にSNSと言葉を言い換えてまでも拘る必要はないと思う。
○佛大に求められている教育理念とは、実は、「縁」=SNSで絵解き・表現されていくコミュニティ状態を具体的にどの様に実化・実現していくかということではないだろうか。
更に、この「縁(えにし)」コミュニティの図は、大切な要素が欠落している。それは、企業インターンシップ、求人活動、教育実習、福祉介護実習、お酒造りや喫茶店経営等でみられる地域コミュニティ、あるいは、学生の父母、宗門関連の方々....あらゆるものが、実は、「縁(えにし)」コミュニティと「共生(ともいき)」関係にある訳で、これらが欠落しておれば、教学や学生生活等あり得ない筈である。
内輪(ウチワ)のことしか考えない教団体質が現れてしまっている。
注)少し、ブログに実名を書いただけで、検索エンジンに乗ってしまって迷惑をかけていると思われるので、ニュースや明らかに公表された事実、著書、論文の著者としての扱い以外は、今後は、実名を伏せることにする。今回も、その旨、修正を行った。
http://www.bukkyo-u.ac.jp/nyushi/pamphlet/
ソフトウエア等の環境が必要で、実際に少し動作が私のマシンでは重い。
仏教学部仏教学科が、新規設置されるが、その教授陣をみると、インド・中国仏教、浄土教・浄土宗関連及び仏教思想(日本思想史)の先生方が、仏教学部におられるのは、予想された通りだった。
ところが、チベット仏教史のO先生や仏教芸術関連のA先生は、仏教学部の範疇から離れて、歴史学部歴史文化学科、芸術文化コースに配属されていることが、学部組織の具体的内容が初めてオーソライズされた資料として公表されている今回の案内ガイドで明らかになったことに驚くというか呆れかえっている次第である。
つまり、仏像や仏画、絵巻等の研究が仏教の学問体系とは、「外道」であると判断されたことになる。最初、O先生がタンカを前に教壇に立たれているお姿が、歴史学部の頁に印刷されているのをみて、唖然とした。よくみると、日本神話のS先生、A先生もこちらに居られる。
「仏像は、仏教ではないのだろうか。」と私は思うし、一般の方々もおそらく同意されるだろう。
O先生は、たしかにチベット美術や音楽では、我が国屈指の存在であられるが、同時にブッダから始まったインド仏教の最後の伝統を受け継ぎ、大切に伝承して来たチベット仏典、仏教思想の権威である。
チベット仏教の流れを理解しないことには、インド、中国、日本、その他の仏教思想の体系的な把握は、困難である。つまり、仏教思想と強い関わりを持っており、本来は仏教学部仏教学科もしくは、仏教文化コースにおられるのが正しいのだと思う。
A先生も然りであり、仏像や仏画は、たしかに外形・意匠的な側面からの理解も可能であるが、大乗仏教や密教の日本化の過程における思潮、神仏習合の影響等は、やはり、仏教思想と切っては切れない関係にある筈なのに、歴史文化の方に配置されているのはどうゆう訳だろうか。
かつて私が卒論にとりあげた源氏物語絵巻でさえも、その絵画化の過程をみていく上で、仏教思想と強いつながりがあることが、卒論履修の過程で私は、理解したつもりだったが、それらは、一切、誤解であったことになるのである。
昨年9月末まで私が仏教芸術コースでやってきたことは、新しい佛大の教学大系では、歴史文化の範疇にされてしまう。
畑違いながらも、私の卒論を担当して下さったO先生の専攻研究分野であるチベット仏教や仏教美術は、たしかに、歴史文化の一部であると言えなくもないが、それらを更に広く包含する仏教学の中に含まれ、その結果、周辺学問との連携につながっていくことになる筈である。
大切なのは、チベット仏教、文化が「歴史という過去の遺物」ではなくて、現代社会にも息づいている点である。
NHK文化センターの講演冒頭挨拶で、 S先生は、「私は、日本神話をやっております。法然上人を信捧している佛大のなかでは、外道と呼ばれる存在なんです。」とおっしゃられたが、仏教芸術コースも結局、仏教学からみれば、外道ということになってしまう。
そうなれば、絵の解釈と経典と深い関わりと持っている過去現在因果経や絵画を知覚的現象と連結する唯識的な理解(O先生がヒントを与えてくださった)は、どうなっていくのだろうか。また、SE先生に教わった仏教芸能は、仏教学とは離れた歴史文化的理解にとどまって良いのだろうか。
節談説教の研究でも第1人者であられるSE先生によれば、「説教と学問は異質なものであり、説教者の信仰を背景にした音声の荘厳である。」とおっしゃられている。
たしかに説教節は、「仏教(学)」とは異なるが、深遠な仏教思想の芸術的な表明であることには変わらない。つまり、学問を単なる形骸として捉えない限りは、仏教学・仏教思想と強い関わりを持たざるを得ない訳である。
大学院では、文学研究科仏教文化専攻と日本史学専攻と分野が分かれているが、この分類は、国内の学会組織が伝統的な分類によって行われているの同和を図る為に施されたものであるが、学部教育組織と乖離してしまって、学部を卒業して、大学院のどの専攻に進学すべきか等の「選択の迷い」が生じかねない状況となっている。
前回の人文学科組織再編は、あまりにも簡単・簡潔にやりすぎて、色々な先生に、私が、「人文学科ってやっててどうでした。」と意見を聞くと、「あれは、間違いだったよ。」と異口同音の答えが返ってきた。
今回の仏教学部、文学部の新学部・新学科構想は、史学科や元日本語日本文学コースの先生方や学生には、大歓迎であるが、やはり、急激な変革の皺寄せが考えもしなかったところに来ているのには、閉口させられる。
文科省が奨励する最近の学術・教育は、「学際」と言われているが、実際には、鉛筆で線引きしたり、つなげたりした様に形骸的にそれを示しているに過ぎない。本来は、深く理解しなければ判らないそれぞれの分野の間の「縁」(えにし)の本質的理解がなおざりにされている。今回の学部・学科編成をみても、残念ながら、その様な一端がうかがわれた。
ところで、ガイドの111頁にある総合学生支援「縁」コミュニティはなかなか面白い模式図であり、佛大の教育の理念を判りやすく示しているが、その内容をみると、別に「縁」に拘らなくも、正常な人間関係(師弟、同窓、組織)が保たれておれば、自然に実現できることで、別にSNSと言葉を言い換えてまでも拘る必要はないと思う。
○佛大に求められている教育理念とは、実は、「縁」=SNSで絵解き・表現されていくコミュニティ状態を具体的にどの様に実化・実現していくかということではないだろうか。
更に、この「縁(えにし)」コミュニティの図は、大切な要素が欠落している。それは、企業インターンシップ、求人活動、教育実習、福祉介護実習、お酒造りや喫茶店経営等でみられる地域コミュニティ、あるいは、学生の父母、宗門関連の方々....あらゆるものが、実は、「縁(えにし)」コミュニティと「共生(ともいき)」関係にある訳で、これらが欠落しておれば、教学や学生生活等あり得ない筈である。
内輪(ウチワ)のことしか考えない教団体質が現れてしまっている。
注)少し、ブログに実名を書いただけで、検索エンジンに乗ってしまって迷惑をかけていると思われるので、ニュースや明らかに公表された事実、著書、論文の著者としての扱い以外は、今後は、実名を伏せることにする。今回も、その旨、修正を行った。
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