4つの歌をめぐって ― 2008/11/10 21:30
風邪なのか、今日も夕方になると高熱が出たが、今は嘘の様に下がっている。季節外れの冬の様な寒さで、一日中、ブラームスの室内楽を先日アップした真空管プレイヤー・アンプの組合せで聞く。
ブラームスでない時は、シューベルトの晩年のピアノソナタをケンプのピアノで聴く。
今回は、とにかくブラームスだ。
この程度の装置では、ピアノ独奏や室内楽が一番で、最初は、シェリング(Vn)とルビンスタイン(p)のバイオリンソナタ、その後、ボザールトリオのピアノ四重奏曲集、ジャック・ランスロのクラリネット五重奏曲、クラリネットソナタ、チェロソナタ、ポリーニとイタリア弦楽四重奏団のピアノ5重奏曲、ホルン三重奏曲等、ピアノソナタ以外の大抵の曲を聴いた後で、最後にたどり着くのが、歌曲集「4つの厳粛な歌」でキャサリーン・フェリアの独唱の古いモノラル録音である。
この4つの厳粛な歌は、ブラームスの最晩年の作品で、この後にオルガンのコラール曲集を作曲した後、肝臓癌で亡くなる。
この作品も人生の終わり・死を扱っている。特に第1曲の人の子らに臨むところは、旧約聖書のソロモン「伝道の書」に拠る詩編が元に作曲されている。映画「ベニスに死す」で死の影が忍び寄る主人公が、この歌が歌われているのを聞くことで死の宣告を受ける場面で使われている。
人生の最後を4つの歌で締めくくるのは、この他にもR・シュトラウスの「4つの最後の歌」で、これも晩年のヘルマン・ヘッセが庭仕事をしながら考えた人生の終わりの詩集から引用されているが、シュトラウスの曲は、こんな最後の作品(やはり彼の最後の作品)でも外面的な華やかさ、明るさがあり、薔薇の花が散っていくような、そして死を肯定的というか前向きに捉える様な東洋的な終末観が描かれており、阿弥陀経を思わせる様な綺麗な透き通った迦陵頻伽を思わせる様な金色に響く小鳥の囀りで締めくくられている。
ところが、ブラームスのこの曲は、どうだろう。
第3曲「死よ、苦痛な死を」とある様に、苦渋に満ちた死に臨む人間の宿命を地味な旋律で歌い上げている。
ブラームスの曲はピアノ伴奏だし、アルト独唱というのも如何にも渋い感じである。
キャサリーン・フェリアは、この数年後に僅か41歳で癌の為に世を去る。電話交換手をしていて歌手として見いだされたという。
彼女の歌は、下手くそだ。現在では、大学の声楽科にも合格しないだろう。きっとソルフェージュで落第だ。
高音はかならず上擦るし、安定していない。それでも声の質は素晴らしいし、何よりも、歌詞の内容が活きており、質の良い朗読を聞くようだ。
朗読と言えば、昔、フィシャー・ディスカウのクラスで、ハイネの原詩によるリートクラスの講義で、やはり、原詩の朗読から授業を開始する。1語1句の意味をたわいない花の可憐さを歌った歌詞でも、その暗喩を含めて、歌の意味を噛みしめて朗読するところから始める。
この花の青さは、実は夜の暗さを表し、更に夜の暗さがイメージさせるものは...等の言葉の説明である。
メロディーと歌詞の自然な結びつきというのは、ちょうど、絵巻と詞書の結びつきの様なもので、言葉の意味を良く理解して、作曲され、歌われ、描かれた世界は、多彩な魅力に満ちている。
フェリアーの良さもこうした点にあるのかも知れない。
ブラームスのこの作品は、こうしたアプローチが最も適している。R・シュトラウスの作品では、ヤノビッツやシントワとカラヤンベルリンフィルの様な華麗な組合せで演奏されるが、ブラームスの作品は、実に、この様に素朴で、心の奥底に響く表現を必要としている。
ブラームスでない時は、シューベルトの晩年のピアノソナタをケンプのピアノで聴く。
今回は、とにかくブラームスだ。
この程度の装置では、ピアノ独奏や室内楽が一番で、最初は、シェリング(Vn)とルビンスタイン(p)のバイオリンソナタ、その後、ボザールトリオのピアノ四重奏曲集、ジャック・ランスロのクラリネット五重奏曲、クラリネットソナタ、チェロソナタ、ポリーニとイタリア弦楽四重奏団のピアノ5重奏曲、ホルン三重奏曲等、ピアノソナタ以外の大抵の曲を聴いた後で、最後にたどり着くのが、歌曲集「4つの厳粛な歌」でキャサリーン・フェリアの独唱の古いモノラル録音である。
この4つの厳粛な歌は、ブラームスの最晩年の作品で、この後にオルガンのコラール曲集を作曲した後、肝臓癌で亡くなる。
この作品も人生の終わり・死を扱っている。特に第1曲の人の子らに臨むところは、旧約聖書のソロモン「伝道の書」に拠る詩編が元に作曲されている。映画「ベニスに死す」で死の影が忍び寄る主人公が、この歌が歌われているのを聞くことで死の宣告を受ける場面で使われている。
人生の最後を4つの歌で締めくくるのは、この他にもR・シュトラウスの「4つの最後の歌」で、これも晩年のヘルマン・ヘッセが庭仕事をしながら考えた人生の終わりの詩集から引用されているが、シュトラウスの曲は、こんな最後の作品(やはり彼の最後の作品)でも外面的な華やかさ、明るさがあり、薔薇の花が散っていくような、そして死を肯定的というか前向きに捉える様な東洋的な終末観が描かれており、阿弥陀経を思わせる様な綺麗な透き通った迦陵頻伽を思わせる様な金色に響く小鳥の囀りで締めくくられている。
ところが、ブラームスのこの曲は、どうだろう。
第3曲「死よ、苦痛な死を」とある様に、苦渋に満ちた死に臨む人間の宿命を地味な旋律で歌い上げている。
ブラームスの曲はピアノ伴奏だし、アルト独唱というのも如何にも渋い感じである。
キャサリーン・フェリアは、この数年後に僅か41歳で癌の為に世を去る。電話交換手をしていて歌手として見いだされたという。
彼女の歌は、下手くそだ。現在では、大学の声楽科にも合格しないだろう。きっとソルフェージュで落第だ。
高音はかならず上擦るし、安定していない。それでも声の質は素晴らしいし、何よりも、歌詞の内容が活きており、質の良い朗読を聞くようだ。
朗読と言えば、昔、フィシャー・ディスカウのクラスで、ハイネの原詩によるリートクラスの講義で、やはり、原詩の朗読から授業を開始する。1語1句の意味をたわいない花の可憐さを歌った歌詞でも、その暗喩を含めて、歌の意味を噛みしめて朗読するところから始める。
この花の青さは、実は夜の暗さを表し、更に夜の暗さがイメージさせるものは...等の言葉の説明である。
メロディーと歌詞の自然な結びつきというのは、ちょうど、絵巻と詞書の結びつきの様なもので、言葉の意味を良く理解して、作曲され、歌われ、描かれた世界は、多彩な魅力に満ちている。
フェリアーの良さもこうした点にあるのかも知れない。
ブラームスのこの作品は、こうしたアプローチが最も適している。R・シュトラウスの作品では、ヤノビッツやシントワとカラヤンベルリンフィルの様な華麗な組合せで演奏されるが、ブラームスの作品は、実に、この様に素朴で、心の奥底に響く表現を必要としている。
せっかくのPENTAXを買収してもお荷物に ― 2008/11/11 13:28
ペンタックス・HOYAの中間決算短信によるとペンタックス事業部門は、合併の成果も現れず、営業損失が発生、HOYAは買収して得するどころか損失が膨らむ結果となったようだ。
当期の売上高は、695億1600万円であったが、営業損失は、24億9600万円となった。
今朝の日経朝刊にデジタルカメラ業界の雲行きが怪しくなってきたことが書かれていた。勝ち組だとされているCANONの決算内容も悪い。
パナソニックの収益性は、この業界トップであるが、デジタル1眼を積極的に展開したことが表と出るか裏と出るか。
ペンタックスの場合は、デジイチの販売はそれ程落ち込まなかったが、過当競争(価格競争)で利益率が大幅にダウンしたことが響いている。たしかにペンタックスの新製品KMのレンズキットで7万円割れている(メーカー直販でさえ)安売りで、これでは、赤字になる筈だと思う。
それよりも、案の定、コンパクトデジタルカメラ部門が駄目になってしまった。私も始めて購入したコンパクトデジカメ「オプティオS」の小型で精密感のあるイメージ、独自のレンズ収納システムに惚れ込んだが、現在の製品は、似ても似つかぬ不細工で、凡庸なデザインに殺されてしまっており、これでは売れないと思ったが、果たして、その通りとなった。
携帯電話市場を真似ようと、携帯電話の様なデザインに製品を変えたのが、失敗の原因だ。
デジタルカメラ市場、それは、実用品市場ではない。嗜好品市場である。消費者は、既に何台もカメラを持っているので、買い換え需要を促さなければならない。
この為、考えつかれたのが、カラフルで、様々なデザインの製品が百花繚乱の携帯電話市場を真似るということだが、携帯の場合は機種交換も契約によって殆ど実費がかからないので、どんどん買い換えるが、デジカメの場合は、1年ごとに買い換えていたら、お金がかかってしょうがない。
パナソニックは、こんな状況に注目、独自の買い取りキャンペーン(3000円アップ、他社品も買い取り)を実施している。早速、利用し、今日、宅配業者が集荷に来たが、手数がかからず簡単なもので、これまで店頭に買い取ってもらいに行っていたのが嘘の様。
不況の今日このごろ、買い換えを促すには、新車を買って3年ごとに乗り換える自動車市場を見習わなければならない。新品から中古品の市場の多様化が活性化につながる。
携帯電話→自動車市場への展開
これがキーポイントになりそうだ。
でも、一番良いのは、各社とも自粛(協定)して、新製品を出すスパンを伸ばしてくれたら、ユーザーも、メーカーも助かる筈なのだが。
消費者は、メーカーの宣伝に踊らされている感じだ。
写真は、往年の名機PENTAX-SP、40年経っても現役だ。現在のデジイチ、デジカメで40年経っても使える機種があるだろうか。そうした製品を世に出していくことが、カメラメーカーの役割であり、一眼レフの高級感を維持する唯一の手段だと思うのだが。
当期の売上高は、695億1600万円であったが、営業損失は、24億9600万円となった。
今朝の日経朝刊にデジタルカメラ業界の雲行きが怪しくなってきたことが書かれていた。勝ち組だとされているCANONの決算内容も悪い。
パナソニックの収益性は、この業界トップであるが、デジタル1眼を積極的に展開したことが表と出るか裏と出るか。
ペンタックスの場合は、デジイチの販売はそれ程落ち込まなかったが、過当競争(価格競争)で利益率が大幅にダウンしたことが響いている。たしかにペンタックスの新製品KMのレンズキットで7万円割れている(メーカー直販でさえ)安売りで、これでは、赤字になる筈だと思う。
それよりも、案の定、コンパクトデジタルカメラ部門が駄目になってしまった。私も始めて購入したコンパクトデジカメ「オプティオS」の小型で精密感のあるイメージ、独自のレンズ収納システムに惚れ込んだが、現在の製品は、似ても似つかぬ不細工で、凡庸なデザインに殺されてしまっており、これでは売れないと思ったが、果たして、その通りとなった。
携帯電話市場を真似ようと、携帯電話の様なデザインに製品を変えたのが、失敗の原因だ。
デジタルカメラ市場、それは、実用品市場ではない。嗜好品市場である。消費者は、既に何台もカメラを持っているので、買い換え需要を促さなければならない。
この為、考えつかれたのが、カラフルで、様々なデザインの製品が百花繚乱の携帯電話市場を真似るということだが、携帯の場合は機種交換も契約によって殆ど実費がかからないので、どんどん買い換えるが、デジカメの場合は、1年ごとに買い換えていたら、お金がかかってしょうがない。
パナソニックは、こんな状況に注目、独自の買い取りキャンペーン(3000円アップ、他社品も買い取り)を実施している。早速、利用し、今日、宅配業者が集荷に来たが、手数がかからず簡単なもので、これまで店頭に買い取ってもらいに行っていたのが嘘の様。
不況の今日このごろ、買い換えを促すには、新車を買って3年ごとに乗り換える自動車市場を見習わなければならない。新品から中古品の市場の多様化が活性化につながる。
携帯電話→自動車市場への展開
これがキーポイントになりそうだ。
でも、一番良いのは、各社とも自粛(協定)して、新製品を出すスパンを伸ばしてくれたら、ユーザーも、メーカーも助かる筈なのだが。
消費者は、メーカーの宣伝に踊らされている感じだ。
写真は、往年の名機PENTAX-SP、40年経っても現役だ。現在のデジイチ、デジカメで40年経っても使える機種があるだろうか。そうした製品を世に出していくことが、カメラメーカーの役割であり、一眼レフの高級感を維持する唯一の手段だと思うのだが。
秘密集会タントラ奥義 ― 2008/11/12 22:12
今、結構、夢中になって読み進んでいる。
インド、チベットの密教と日本の密教との関係がこれで仏教史の側面から理解することができた。
龍樹中論の真の実践者とも言えるツォンカパの生涯を知らずして、空理論の理解は難しいだろう。
また、ツォンカパを理解することで、空理論と密教(中期を含めて)の関係が浮かび上がってくるのではないのだろうか。
秘密集会タントラや潅頂の儀式は、現在の日本の宗派仏教はおろか、一般の宗教の常識を逸脱しているが、その成立事情や意義を研究すれば、当然のことのように見えてくるのがマカ不思議。
金剛頂経や理趣経に書かれているのは決して冗談ではなくて真面目な解脱への道ということ。
これを読めば、弓削道鏡なんて、実は、真面目な密教修行者であると考えが変わってしまう。
序章には、オウム真理教のことも書かれている。これも結構、読んでみるとと面白いのでは。
但し、興味本位で読んでしまうと、具合が悪いと思う。あくまでも仏教思想史の書物として読まないとチベット仏教への偏見も起きかねない。
この辺が難しいところだと思う。
インド、チベットの密教と日本の密教との関係がこれで仏教史の側面から理解することができた。
龍樹中論の真の実践者とも言えるツォンカパの生涯を知らずして、空理論の理解は難しいだろう。
また、ツォンカパを理解することで、空理論と密教(中期を含めて)の関係が浮かび上がってくるのではないのだろうか。
秘密集会タントラや潅頂の儀式は、現在の日本の宗派仏教はおろか、一般の宗教の常識を逸脱しているが、その成立事情や意義を研究すれば、当然のことのように見えてくるのがマカ不思議。
金剛頂経や理趣経に書かれているのは決して冗談ではなくて真面目な解脱への道ということ。
これを読めば、弓削道鏡なんて、実は、真面目な密教修行者であると考えが変わってしまう。
序章には、オウム真理教のことも書かれている。これも結構、読んでみるとと面白いのでは。
但し、興味本位で読んでしまうと、具合が悪いと思う。あくまでも仏教思想史の書物として読まないとチベット仏教への偏見も起きかねない。
この辺が難しいところだと思う。
歴史学部構想 ― 2008/11/12 23:03
ついに佛教大学の将来構想計画が公表された。といってもWEBは未完成で骨子だけ。
http://www.bukkyo-u.ac.jp/100th/
「将来の発展を願って」という福原学長の文章のみが現時点では、状況を知る手がかりだ。
まず、仏教学部を立ち上げる構想(これは、既に発表済み)
でも驚かされたのは、なんと、「歴史学部」をつくるということで、これは、寝耳に水。こうした変化を踏まえて、現在、文学部は解体・リストラ(文字通り再構築)が徹底的に進められる。気になるのは日本語日本文学コースである。これは、歴史でもないし、仏教でもない、そうなれば、歴史とも仏教とも切り離された残余の文学部で、どの様に残されるのだろうか。それとも仏教学部の一部の学科コースとして位置づけられるのだろうか。
(以下削除しました。)
http://www.bukkyo-u.ac.jp/100th/
「将来の発展を願って」という福原学長の文章のみが現時点では、状況を知る手がかりだ。
まず、仏教学部を立ち上げる構想(これは、既に発表済み)
でも驚かされたのは、なんと、「歴史学部」をつくるということで、これは、寝耳に水。こうした変化を踏まえて、現在、文学部は解体・リストラ(文字通り再構築)が徹底的に進められる。気になるのは日本語日本文学コースである。これは、歴史でもないし、仏教でもない、そうなれば、歴史とも仏教とも切り離された残余の文学部で、どの様に残されるのだろうか。それとも仏教学部の一部の学科コースとして位置づけられるのだろうか。
(以下削除しました。)
あんさん、ご機嫌でんな ― 2008/11/15 22:56
『肥田先生のなにわ学』(INAX出版)、3年前に出された本で、肥田先生(ご自身と蔵書の展覧会)の展覧が行われた時に作られた本である。
この結構、インパクトが強いので何時も手元において眺めている。
肥田先生は、たしか、1983~84年頃に関西大学の教授になられた。私は、初授業の時にマスコミとかTV関係者が来られている中での授業で私の肥満した姿も週間文春か新潮に掲載されていたことを記憶している。
肥田先生の授業は、書誌学ということで江戸文学から近代文学に至るまでの関西に関係ある文芸作品の整版本から初版本に至るまでの稀覯書を風呂敷包みに入れて教室に持ってきて学生に見せて説明するという授業で、全然、授業らしい感じはしなかった。
それでも、和本の体裁や本の姿形等について教えていただいた。一番、感心したのは、江戸文学ではなくて与謝野晶子の何かの作品の初版本が昨日本屋さんで買ってきたばかりの様な保存状態が良いのを拝見した時であった。(思わず、複製本なのかと思ってしまった。)
卒業後、数年間は、関西大学におられてから、大学を退職されてもうだいぶになる。それでも、年賀状などのやり取りもするし、隣町(池田市)にお住まいなので、阪急の一番宝塚よりの車両でお目にかかったり、堂島地下街や淀屋橋で飲んでいた時(こういったきまりが悪い時ばかりにお目にかかる)にたまたま出逢って、「あんさん、ご機嫌でんな。」と声をかけられたこともあった。
肥田先生は、私のことを、「あんさん、あんさん」と呼ばれる
肥田先生は、一度、みた書籍や雑誌などの内容は絶対に忘れられない。それで、週刊文春か新潮に載っていた私の姿をずっと覚えられていて顔見知りになった。先生は、一般の大学教育は受けておられない。全て、独学でやって来られて、それが認められて大学教授になられたので、それが、当時のマスコミには新鮮だったようだ。
肥田先生の偉大さは、その後、佛教大学の大学院に来てから知らされることになる。特に先生の元で中之島図書館に勤務されていた長友千代治先生からも、あるいは、話芸(安楽案策伝)の研究をされておられる関山和夫先生などの御著書で資料の出所が肥田先生であること等を知ったりして、近世上方文学では、先生が必要不可欠な存在であることを改めて思い知らされたのである。
肥田先生は、私の祖父の素人歌舞伎の舞台姿もみておられて、そんな大昔の出来事も最近みてきた様に話される。
俳句や和歌よりも読み本が中心だが、芸能関係も詳しい。江戸時代だけではなくて、昭和初期に至るまで、あらゆるものを集めておられる。それ以外に草草子、カルタ、その他ものもろの子供の遊びに関係あるものも収集されておられる。
2005年の展覧会の時は、短い間だけであったが先生のお姿やお話を聞くことが出来た。その後は、ご無沙汰であったが、昨日、阪急の車内でボヤーっとIPODで音楽を聴こうとしていたら、右側に先生がいつの間にか座られておられるので、慌てて挨拶をする羽目に。
先生との出逢い方は、何時も、こんなのである。「ちょうど、あんさんがどうしてはるかなと考えていたところでんねん。源氏物語千年紀で清水先生のことやら想いだしていたら、あんたのことを想いだした訳や。」
先生とは、不思議な因縁につながっているのかも知れない。これから中之島図書館の展覧にいくという。先生は、大分お年をとられて、髪の毛のすっかり白くなり、足も少しご不自由なのか杖をついておられた。
でも、着物を粋に着こなしておられて、袂から見えるお肌も透き通る様である。不思議な感じがする。
先生は、中之島図書館の本の精霊か何かも知れない。
この図書館で江戸時代から伝わる資料で先生しか、その価値が判らないものも多々あるようだ。
近世初期の歌壇に関係する話を色々聞かされたが、未だ学会に知らされていない貴重な事実につながるネタを僅かなお話の中に感じ取ることが出来た。
先生の先生のお年は、今年で、78歳という。何時までも長生きして欲しいと思った。
この結構、インパクトが強いので何時も手元において眺めている。
肥田先生は、たしか、1983~84年頃に関西大学の教授になられた。私は、初授業の時にマスコミとかTV関係者が来られている中での授業で私の肥満した姿も週間文春か新潮に掲載されていたことを記憶している。
肥田先生の授業は、書誌学ということで江戸文学から近代文学に至るまでの関西に関係ある文芸作品の整版本から初版本に至るまでの稀覯書を風呂敷包みに入れて教室に持ってきて学生に見せて説明するという授業で、全然、授業らしい感じはしなかった。
それでも、和本の体裁や本の姿形等について教えていただいた。一番、感心したのは、江戸文学ではなくて与謝野晶子の何かの作品の初版本が昨日本屋さんで買ってきたばかりの様な保存状態が良いのを拝見した時であった。(思わず、複製本なのかと思ってしまった。)
卒業後、数年間は、関西大学におられてから、大学を退職されてもうだいぶになる。それでも、年賀状などのやり取りもするし、隣町(池田市)にお住まいなので、阪急の一番宝塚よりの車両でお目にかかったり、堂島地下街や淀屋橋で飲んでいた時(こういったきまりが悪い時ばかりにお目にかかる)にたまたま出逢って、「あんさん、ご機嫌でんな。」と声をかけられたこともあった。
肥田先生は、私のことを、「あんさん、あんさん」と呼ばれる
肥田先生は、一度、みた書籍や雑誌などの内容は絶対に忘れられない。それで、週刊文春か新潮に載っていた私の姿をずっと覚えられていて顔見知りになった。先生は、一般の大学教育は受けておられない。全て、独学でやって来られて、それが認められて大学教授になられたので、それが、当時のマスコミには新鮮だったようだ。
肥田先生の偉大さは、その後、佛教大学の大学院に来てから知らされることになる。特に先生の元で中之島図書館に勤務されていた長友千代治先生からも、あるいは、話芸(安楽案策伝)の研究をされておられる関山和夫先生などの御著書で資料の出所が肥田先生であること等を知ったりして、近世上方文学では、先生が必要不可欠な存在であることを改めて思い知らされたのである。
肥田先生は、私の祖父の素人歌舞伎の舞台姿もみておられて、そんな大昔の出来事も最近みてきた様に話される。
俳句や和歌よりも読み本が中心だが、芸能関係も詳しい。江戸時代だけではなくて、昭和初期に至るまで、あらゆるものを集めておられる。それ以外に草草子、カルタ、その他ものもろの子供の遊びに関係あるものも収集されておられる。
2005年の展覧会の時は、短い間だけであったが先生のお姿やお話を聞くことが出来た。その後は、ご無沙汰であったが、昨日、阪急の車内でボヤーっとIPODで音楽を聴こうとしていたら、右側に先生がいつの間にか座られておられるので、慌てて挨拶をする羽目に。
先生との出逢い方は、何時も、こんなのである。「ちょうど、あんさんがどうしてはるかなと考えていたところでんねん。源氏物語千年紀で清水先生のことやら想いだしていたら、あんたのことを想いだした訳や。」
先生とは、不思議な因縁につながっているのかも知れない。これから中之島図書館の展覧にいくという。先生は、大分お年をとられて、髪の毛のすっかり白くなり、足も少しご不自由なのか杖をついておられた。
でも、着物を粋に着こなしておられて、袂から見えるお肌も透き通る様である。不思議な感じがする。
先生は、中之島図書館の本の精霊か何かも知れない。
この図書館で江戸時代から伝わる資料で先生しか、その価値が判らないものも多々あるようだ。
近世初期の歌壇に関係する話を色々聞かされたが、未だ学会に知らされていない貴重な事実につながるネタを僅かなお話の中に感じ取ることが出来た。
先生の先生のお年は、今年で、78歳という。何時までも長生きして欲しいと思った。
ついにPHS300が発売 ― 2008/11/16 10:45
ついに期待していた製品が日本でも発売された。
それは、どこでもWifiを可能にしてしまうPHS300という製品。
スタパブログに紹介記事が掲載されていた。
http://bb.watch.impress.co.jp/stapa_blog/archives/2008/11/14/
製品自体のリリースは、
http://cmtrshop.com/
ポータブル無線ルーターであるが、例えば、PSP等のゲーム端末で、無線LANしか接続手段がない様な機器や、あるいは、モバイルパソコンと、Wifi対応のカメラをセットで使えば、撮影した画像を瞬時にパソコンに取り込むことが出来る等、色々な使用法が考えられる。
同時数台のパソコンがアクセス出来るので、セキュリティの面で少し心配だが、お仲間同志で、PSPでのスカイプも楽しむことが出来る。
USB接続のHSPDA(High Speed Downlink Packet Accessの略)モデム、ぶっちゃけた話、イーモバイル以外の製品の動作は保証されていない。これが、ウィルコム等に対応していたら、直ぐに買いだが、その点を確認してからになりそう。
PSPの場合は、ブロードバンドから配信されるビデオのストリーム再生機能がついていないので、遅い回線で十分。
これで、無線LAN後進地帯の大阪でのWifi環境は飛躍的に改善する筈。
ああ、イーモバイルにしておけば良かった。
価格が1万9800円が果たして安いか高いか。
どうせ、イーモバイルは、商売熱心なので、セット製品が発売されるだろう。
それは、どこでもWifiを可能にしてしまうPHS300という製品。
スタパブログに紹介記事が掲載されていた。
http://bb.watch.impress.co.jp/stapa_blog/archives/2008/11/14/
製品自体のリリースは、
http://cmtrshop.com/
ポータブル無線ルーターであるが、例えば、PSP等のゲーム端末で、無線LANしか接続手段がない様な機器や、あるいは、モバイルパソコンと、Wifi対応のカメラをセットで使えば、撮影した画像を瞬時にパソコンに取り込むことが出来る等、色々な使用法が考えられる。
同時数台のパソコンがアクセス出来るので、セキュリティの面で少し心配だが、お仲間同志で、PSPでのスカイプも楽しむことが出来る。
USB接続のHSPDA(High Speed Downlink Packet Accessの略)モデム、ぶっちゃけた話、イーモバイル以外の製品の動作は保証されていない。これが、ウィルコム等に対応していたら、直ぐに買いだが、その点を確認してからになりそう。
PSPの場合は、ブロードバンドから配信されるビデオのストリーム再生機能がついていないので、遅い回線で十分。
これで、無線LAN後進地帯の大阪でのWifi環境は飛躍的に改善する筈。
ああ、イーモバイルにしておけば良かった。
価格が1万9800円が果たして安いか高いか。
どうせ、イーモバイルは、商売熱心なので、セット製品が発売されるだろう。
アナ・アナ好みの私です。(追記:LP-R500について) ― 2008/11/16 11:20
ヤフオクでブルックナー交響曲第3番「ワーグナー」(シューリヒト指揮・ウィーンフィル)のLPを落とし損なってアナログの虫が騒ぎ出した。
手元のカールベーム指揮、ウィーンフィル(ロンドン国内盤)のアナ→アナダビングをしてみる。
真空管式のCRイコライザーを点検後、点火して、暫く様子を見る。
カセットレコーダは、3ヘッドのTDV721で往年の高級機。
バイアスやキャリブレーションの設定機能付で学生の頃には買いたくても買えなかったものが、今では、ジャンク同様の価格で手に入る。(写真上、下は、現在使用中のDAコンバータ、D/AC800米国パラサウンド製、試聴してこれが一番音が良かったので購入して10年位になる。これでにCDをつなぐと音が生き返る。)
一番、情けないのはカセットテープで、30年前の百花繚乱の時代には、ローノイズ、ノーマルタイプだけで、数十種類が発売されていたが、今ではTDKの2~3種類の製品だけ。
PCM放送を聞きながら、レベル調整、TAPE、SORCEを切り換え(3ヘッドなので、少し遅れてSORCE音声が再生されるが、実際にテープに録音されている音を聞きながら、作業が出来るので便利。)ながら、バイアスのレベルを決定する。ノイズリダクションは使いたくないが、CDに汚染された耳には、ヒスノイズがどうしても耳につくので、ドルビーCを使用する。
なんども試聴を繰りかえして最善のバイアス値を探し出してから、おもむろに、YAMAHAGT750を起動、アームの調整や清掃を行ってから、レコード盤をターンテーブルに載せる。
レコード盤の清掃、針先の清掃、注意深くスタピライザーを載せて録音開始。
ブルックナーの長大な曲が1枚のLPに入れてあるので、第2楽章の途中でA面が終わってしまうので、裏返す際に音のつながりに注意しなければならない。
ようやく録音し終わったものをカセットで聞いている。
同じ曲のCD盤も持っているが、実におだやかでふくよかな音である。CD化されたことで音は、硬質に変わっていたのが、もともとのウィーンフィルとムジークフェライン、そして、巨匠ベームの演奏が聴ける。
最近は、LPをCD化するのが流行っているらしく、ライン端子からパソコンに直接取り込むことが出来る。
しかし、パソコンの電源自体が汚染されているので、ここでラインレベルの音質が悪くなってしまう。この為、私は、LPをデジタル化するのは、クリエイティブ・サウンドブラスターというUSB端子接続のADコンバーターを使用して、パソコンに信号を取り込む時には、デジタル信号に変換している。
レベル補正、ノイズ除去、トラックの番号打ち、CDの焼き込みまで、最善の注意を払って行っているが、やはり、音は、デジタル臭がする。
世の中、アナ~デジブームでTEACからは、LP-R500という製品が発売された。価格は、7万円、LP、SP、カセット、FM放送からCD-R、CD-RWにお手軽にデジタル変換して録音できる商品。
先行のLP-R400を更に機能アップし、高級化を図った商品。でも、私として気になるのは、MCカートリッジが使えないことや、イコライザーの性能、ターンテーブルのSN比(モーターやデジタルサーボ系の乱ノイズの影響を受ける)等々気になるが、SPレコードが簡単に録音できる(専用の針先で再生しないと大切なSPレコードを痛めてしまうので注意)のは評価出来ると思う。来月に発売されるらしい。
http://www.teac.co.jp/audio/teac/lpr500/index.html
団塊・熟年世代向けの商品らしい。
私は、アナ・アナを選ぶ。アナログはアナログで聞かれるべきだと思う。
追記:高針圧で貴重なLPレコードを痛めない為に
LP-R500の仕様を確認してみたが、レコードプレイヤー部のカートリッジは、セラミックタイプだと判明。カートリッジの交換は出来ない仕組み。セラミックカートリッジは、圧電素子をセラミックのV字型突起(オス)に貼り付けて、音溝をトレースして振動する針から直接V字型の金属製のメス溝から左右のステレオに分離した圧力振動に変換、更に圧電素子からステレオの電気信号を取り出す仕組み。
信号の増幅率は高く、しかも圧電素子の高域特性が悪いので、RIAAカーブから高倍率増幅・補正するイコライザー回路も不要で、そのままライン信号レベルとして取り出すことが出来る。これらのメリットから、幼児向けのソノシートプレイヤー等のオモチャや普及品でも最も安い価格帯の製品に採用されていた。
また、最大の難点としては、針圧が4.5㎏と非常に高いので、LPの溝を痛めてしまう可能性もあるので、大切なレコードをこれらのプレイヤーでかけない方が良い。
何故、高級品を含めてLPレコードプレイヤーやMMやVMカートリッジの老舗であるTEACがこんな製品を売るのか理解に苦しむ。
その理由として考えられるのは、LP、SPレコードをカートリッジの交換をせずに針先交換だけ再生するには、セラミックカートリッジがもっとも無難ということだろう。SPの場合は、音溝が粗いので、専用の針先と高針圧が必要、また、通常カーブで録音されているので、イコライザー回路も要らない。つまり、針先交換だけで、SPレコードを簡単に再生できてしまうという一応のメリットはある。
また、セラミックカートリッジの高域特製の悪さを持ってしても、SPの狭い再生周波数帯域をクリアできるので、SPレコードは、このプレイヤーで専用の針先を使用すれば、安全に再生可能。(音質は、やはり、それなりだと思う。)
但し、価格が7万円だということ。SPレコードを再生する人は購入者の内、10人1人程度だと思われるので、不要の機能だと思う。そうしたら、LPレコード再生専用にして、交換可能か、最悪でもMM(ムービングコイル式)のカートリッジ、軽量・自動制御のトーンアームを採用するすれば、実用に耐える製品が出来たのにと思う。
この程度の機能であれば、オーディオテクニカの1万円位のMM式カートリッジがついて、再生イコライザー回路内蔵のLPプレイヤーを購入して、変換コネクト経由で、パソコンのラインイン端子から、フリーウエアの超録やソースネクスト等で販売されている録音ソフトを使用して、デジタル変換し、CDを焼いた方がずっと音が良いものが出来ると思う。
費用もずっと安く出来る。カセットだって、ウォークマンや安物のラジカセからラインイン録音すれば、簡単に採れてしまう。
不思議というか、さすが、TEACだと、思うのは、ターンテーブルの回転系は、クォーツDDサーボ制御の高級モーターが使用されている点である。でも、これも、全体のスペックから言えば過剰品質だと思う。
SPレコードをCD-R等に焼いてみたい人は買ってみても損はないと思う。また、不幸にして、LP-R500を買ってしまった場合は、外付けで、安物の専用LPプレイヤー(イコライザー付き)を接続して、ラインインで録音したら、案外、良い音でダビング出来るかもしれない。
手元のカールベーム指揮、ウィーンフィル(ロンドン国内盤)のアナ→アナダビングをしてみる。
真空管式のCRイコライザーを点検後、点火して、暫く様子を見る。
カセットレコーダは、3ヘッドのTDV721で往年の高級機。
バイアスやキャリブレーションの設定機能付で学生の頃には買いたくても買えなかったものが、今では、ジャンク同様の価格で手に入る。(写真上、下は、現在使用中のDAコンバータ、D/AC800米国パラサウンド製、試聴してこれが一番音が良かったので購入して10年位になる。これでにCDをつなぐと音が生き返る。)
一番、情けないのはカセットテープで、30年前の百花繚乱の時代には、ローノイズ、ノーマルタイプだけで、数十種類が発売されていたが、今ではTDKの2~3種類の製品だけ。
PCM放送を聞きながら、レベル調整、TAPE、SORCEを切り換え(3ヘッドなので、少し遅れてSORCE音声が再生されるが、実際にテープに録音されている音を聞きながら、作業が出来るので便利。)ながら、バイアスのレベルを決定する。ノイズリダクションは使いたくないが、CDに汚染された耳には、ヒスノイズがどうしても耳につくので、ドルビーCを使用する。
なんども試聴を繰りかえして最善のバイアス値を探し出してから、おもむろに、YAMAHAGT750を起動、アームの調整や清掃を行ってから、レコード盤をターンテーブルに載せる。
レコード盤の清掃、針先の清掃、注意深くスタピライザーを載せて録音開始。
ブルックナーの長大な曲が1枚のLPに入れてあるので、第2楽章の途中でA面が終わってしまうので、裏返す際に音のつながりに注意しなければならない。
ようやく録音し終わったものをカセットで聞いている。
同じ曲のCD盤も持っているが、実におだやかでふくよかな音である。CD化されたことで音は、硬質に変わっていたのが、もともとのウィーンフィルとムジークフェライン、そして、巨匠ベームの演奏が聴ける。
最近は、LPをCD化するのが流行っているらしく、ライン端子からパソコンに直接取り込むことが出来る。
しかし、パソコンの電源自体が汚染されているので、ここでラインレベルの音質が悪くなってしまう。この為、私は、LPをデジタル化するのは、クリエイティブ・サウンドブラスターというUSB端子接続のADコンバーターを使用して、パソコンに信号を取り込む時には、デジタル信号に変換している。
レベル補正、ノイズ除去、トラックの番号打ち、CDの焼き込みまで、最善の注意を払って行っているが、やはり、音は、デジタル臭がする。
世の中、アナ~デジブームでTEACからは、LP-R500という製品が発売された。価格は、7万円、LP、SP、カセット、FM放送からCD-R、CD-RWにお手軽にデジタル変換して録音できる商品。
先行のLP-R400を更に機能アップし、高級化を図った商品。でも、私として気になるのは、MCカートリッジが使えないことや、イコライザーの性能、ターンテーブルのSN比(モーターやデジタルサーボ系の乱ノイズの影響を受ける)等々気になるが、SPレコードが簡単に録音できる(専用の針先で再生しないと大切なSPレコードを痛めてしまうので注意)のは評価出来ると思う。来月に発売されるらしい。
http://www.teac.co.jp/audio/teac/lpr500/index.html
団塊・熟年世代向けの商品らしい。
私は、アナ・アナを選ぶ。アナログはアナログで聞かれるべきだと思う。
追記:高針圧で貴重なLPレコードを痛めない為に
LP-R500の仕様を確認してみたが、レコードプレイヤー部のカートリッジは、セラミックタイプだと判明。カートリッジの交換は出来ない仕組み。セラミックカートリッジは、圧電素子をセラミックのV字型突起(オス)に貼り付けて、音溝をトレースして振動する針から直接V字型の金属製のメス溝から左右のステレオに分離した圧力振動に変換、更に圧電素子からステレオの電気信号を取り出す仕組み。
信号の増幅率は高く、しかも圧電素子の高域特性が悪いので、RIAAカーブから高倍率増幅・補正するイコライザー回路も不要で、そのままライン信号レベルとして取り出すことが出来る。これらのメリットから、幼児向けのソノシートプレイヤー等のオモチャや普及品でも最も安い価格帯の製品に採用されていた。
また、最大の難点としては、針圧が4.5㎏と非常に高いので、LPの溝を痛めてしまう可能性もあるので、大切なレコードをこれらのプレイヤーでかけない方が良い。
何故、高級品を含めてLPレコードプレイヤーやMMやVMカートリッジの老舗であるTEACがこんな製品を売るのか理解に苦しむ。
その理由として考えられるのは、LP、SPレコードをカートリッジの交換をせずに針先交換だけ再生するには、セラミックカートリッジがもっとも無難ということだろう。SPの場合は、音溝が粗いので、専用の針先と高針圧が必要、また、通常カーブで録音されているので、イコライザー回路も要らない。つまり、針先交換だけで、SPレコードを簡単に再生できてしまうという一応のメリットはある。
また、セラミックカートリッジの高域特製の悪さを持ってしても、SPの狭い再生周波数帯域をクリアできるので、SPレコードは、このプレイヤーで専用の針先を使用すれば、安全に再生可能。(音質は、やはり、それなりだと思う。)
但し、価格が7万円だということ。SPレコードを再生する人は購入者の内、10人1人程度だと思われるので、不要の機能だと思う。そうしたら、LPレコード再生専用にして、交換可能か、最悪でもMM(ムービングコイル式)のカートリッジ、軽量・自動制御のトーンアームを採用するすれば、実用に耐える製品が出来たのにと思う。
この程度の機能であれば、オーディオテクニカの1万円位のMM式カートリッジがついて、再生イコライザー回路内蔵のLPプレイヤーを購入して、変換コネクト経由で、パソコンのラインイン端子から、フリーウエアの超録やソースネクスト等で販売されている録音ソフトを使用して、デジタル変換し、CDを焼いた方がずっと音が良いものが出来ると思う。
費用もずっと安く出来る。カセットだって、ウォークマンや安物のラジカセからラインイン録音すれば、簡単に採れてしまう。
不思議というか、さすが、TEACだと、思うのは、ターンテーブルの回転系は、クォーツDDサーボ制御の高級モーターが使用されている点である。でも、これも、全体のスペックから言えば過剰品質だと思う。
SPレコードをCD-R等に焼いてみたい人は買ってみても損はないと思う。また、不幸にして、LP-R500を買ってしまった場合は、外付けで、安物の専用LPプレイヤー(イコライザー付き)を接続して、ラインインで録音したら、案外、良い音でダビング出来るかもしれない。
和歌山から大阪に向けて歩行中 ― 2008/11/16 19:52
新学部構想明らかに ― 2008/11/17 12:59
佛大の学部構想が発表された。
http://www.bukkyo-u.ac.jp/100th/project/department/
文学部は、仏教学部、文学部、歴史学部の3学部に分かれる。文学部の中に、日本語日本文学科、中国学科、英米学科が設置されることになる。
日本語日本文学部は、現行のシステムでも日本語日本文学コースに格下げされていたのが、学科に復権、返り咲くこととなった。
まずは、めでたし、めでたし。
旧日本史コース、アジア史コース、地域文化コースは、歴史学部の中で、史学科と歴史文化学科に分かれる。つまり、地域文化コースと、アジア史コースが解体されてしまいアジア史コースは、史学科の1部門、地域文化コースは、歴史文化学科と仏教文化コースに再び分かれる。
不可思議なのは、神懸かり等の研究で著名な斎藤秀喜先生の所属しておられるのは、現行の人文学科地域文化コースであるが、これは、歴史文化というよりも、仏教文化の方に移動してしまうのだろうか。もともとが、文学部仏教学科仏教文化コースに所属されていたので、「里帰り」ということか。
つまり、地域文化は、仏教文化と歴史文化の両方に包含されるが、この辺りの学際的領域への対応が明らかにされていない。
また、八木先生の民俗学は、仏教文化にも関わっているし、歴史文化にも関わっているし、地域社会学にも関わっている。どちらにも分類できる。定義づけは無理だ。
例えば、「薬師・観音信仰の地域性」といった研究テーマで論文を書きたいとすれば、どの学科、学部に進学したら良いのだろうか。「仏教文化」的研究となれば、表現史や表現形態、あるいは、寺院毎の展開といったことが主眼になるだろうし、歴史文化学科であれば、神仏習合と地域固有文化との関係、地域文化の展開の中で、薬師・観音信仰がどの様に展開されていたか、時代毎に考察を加えていくだろう。
今回の区分けで問題になるのは、学際的要素が幾分薄らいだこと。歴史学部構想の中で、地域文化との関わりが希薄になった点である。現代の史学研究は、文献学を基礎に地域叙述を検証していくといった方向性よりも、より学際的な地域社会・文化との関わりの方に向いてきているだけに、今回の改編で、史学・考古学や仏教文化の地域との関わりが薄らいでしまったことである。
これまで以上に入学前のガイダンスが大変になることは間違いないだろう。
今回の改編で、せっかくの学際的な領域の交流の可能性がかなり薄らいでしまったのは、残念だ。
分類・区分は、文献学に基づいた文学研究のベースとなる仕業だけに、それが曖昧な今回の組織改編は、やはり、この大学の研究レベルを示すものと言えそうだ。
http://www.bukkyo-u.ac.jp/100th/project/department/
文学部は、仏教学部、文学部、歴史学部の3学部に分かれる。文学部の中に、日本語日本文学科、中国学科、英米学科が設置されることになる。
日本語日本文学部は、現行のシステムでも日本語日本文学コースに格下げされていたのが、学科に復権、返り咲くこととなった。
まずは、めでたし、めでたし。
旧日本史コース、アジア史コース、地域文化コースは、歴史学部の中で、史学科と歴史文化学科に分かれる。つまり、地域文化コースと、アジア史コースが解体されてしまいアジア史コースは、史学科の1部門、地域文化コースは、歴史文化学科と仏教文化コースに再び分かれる。
不可思議なのは、神懸かり等の研究で著名な斎藤秀喜先生の所属しておられるのは、現行の人文学科地域文化コースであるが、これは、歴史文化というよりも、仏教文化の方に移動してしまうのだろうか。もともとが、文学部仏教学科仏教文化コースに所属されていたので、「里帰り」ということか。
つまり、地域文化は、仏教文化と歴史文化の両方に包含されるが、この辺りの学際的領域への対応が明らかにされていない。
また、八木先生の民俗学は、仏教文化にも関わっているし、歴史文化にも関わっているし、地域社会学にも関わっている。どちらにも分類できる。定義づけは無理だ。
例えば、「薬師・観音信仰の地域性」といった研究テーマで論文を書きたいとすれば、どの学科、学部に進学したら良いのだろうか。「仏教文化」的研究となれば、表現史や表現形態、あるいは、寺院毎の展開といったことが主眼になるだろうし、歴史文化学科であれば、神仏習合と地域固有文化との関係、地域文化の展開の中で、薬師・観音信仰がどの様に展開されていたか、時代毎に考察を加えていくだろう。
今回の区分けで問題になるのは、学際的要素が幾分薄らいだこと。歴史学部構想の中で、地域文化との関わりが希薄になった点である。現代の史学研究は、文献学を基礎に地域叙述を検証していくといった方向性よりも、より学際的な地域社会・文化との関わりの方に向いてきているだけに、今回の改編で、史学・考古学や仏教文化の地域との関わりが薄らいでしまったことである。
これまで以上に入学前のガイダンスが大変になることは間違いないだろう。
今回の改編で、せっかくの学際的な領域の交流の可能性がかなり薄らいでしまったのは、残念だ。
分類・区分は、文献学に基づいた文学研究のベースとなる仕業だけに、それが曖昧な今回の組織改編は、やはり、この大学の研究レベルを示すものと言えそうだ。
仏教文化と仏教芸術はどう違うんだろうか。 ― 2008/11/17 23:19
「文化」なのか「芸術」なのか、その区別や定義が未だに明確化出来ないところに、日本という国の「文化」程度の低さ、世界の一流国になれないという原因が存在しているのだと思う。
私は、ついこの間、佛教大学の「文学部・人文学科・仏教芸術コース」を卒業したが、今回の学部改組で、「仏教学部・仏教学科・仏教文化コース」に改編されることとなった。
単なる「言い回し・文字の表記」の違いではないかと言われそうだが、実際には、大きな違いが存在すると思う。現行の仏教芸術コースに異議を持たれている仏教・浄土コースの先生にも出逢ったりした。また、以前の仏教文化コースにおられた先生で、大学を去られた先生も存じあげている。
「文化」の名称が良いのか、「芸術」のそれが良いのかは、かなり、観点が異なってくると思う。「文化」という言葉も多義性を持っている。ドイツ芸術至上主義の「文化」というのは、「精神文化」を中心とした形而上学的な要素を多く含んだニュアンスである。
日本の戦前の美学教育は、京大等に、特に癖が強い先生がおられて、受け継がれているが、アカデミズムと「精神文化」を融合させた日本独自の理想主義の観点である。一方、文化人類学、文化社会学、あるいは、生活文化といった「文化」、あるいは、「文化住宅」、「文化鍋」等といった名称に使われる文化とは、どの様な語義的性質を持つのだろうか。多分にこれは、様式=文化という意味合いが強い。例えば、弥生文化、縄文文化というのは、生活様式、土器や木器、石器といった遺物から認められる生活様式を文化として定義づけて分類される。
また、社会学の「文化」とは、日常の社会集団の生活の中で、培われた生活が、様式化されたものを指しているのだと思う。今回の佛教大学の仏教文化コースは、どの様な観点を指しているのだろうか。
また、仏教芸術コースの「芸術」とはなんであったのだろう。仏教芸術コースに入学した最初に悩んだのはこれである。文化ではないことは事実だ。
実際のカリキュラムを見れば、説話文学、仏教文学、あるいは、経典の解釈といった部分から切り離された単なる絵画、彫刻(仏像等)、芸能(唱導)等の表現手法に限定されたものであった。
とすれば、「芸術」は、表象的なのだろうか。それも浅薄な考えであり、卒業論文でもそれらの表現様式、方法等の表象的な部分について分析、論じたとしても、結局は、「何故、この様な表現方法を採ったのだろうか。」という問題点に突き当たり、次の段階では、「何故、この様な表現が産み出される様に至ったのだろうか。人間の衝動・宗教的感情がどの様にして芸術表現に結びついていくのだろうか。」というテーマを究極的に追求していくのに他ならない。
そうすれば、結局、仏教に関する芸術表現というのは、宗教の精神的背景の究明に結びついていくことになるのだと思う。つまり、「仏教芸術コースは、仏教の精神や理論的背景が希薄なので、存在意義がない。」と言われていた仏教学科の先生への反論にもなる。逆に、「仏教文化コース」という名称が、先述の語彙・語義的考察からすれば、必ずしも精神的であるとは言えない。
佛教大学の坪内捻典先生が、私の詩歌や俳句の創作に対する考え方をたしなめたことがある。それは、私の元々の考えである「和歌、俳句、詩歌は、芸術的感興が衝動的に抑えきれなくなった時に自然に発生し、つくられるものだという。」という考え方は、間違っていると指摘され、「芸術的感興は、確かに表現意欲はつながるが、それよりも、既成の語義(ひらったく言えばことば)を如何に効果的に組みあげて、客観的・普遍的に第3者に理解される様にコンストラクトすることが重要である。」と言われたことを記憶している。
つまり、「俳句」は、「芸術」では、なくて「文化」なのである。
仏教芸術と仏教文化の定義づけもそういった方向に近いのではないかと私は考えている。
私は、ついこの間、佛教大学の「文学部・人文学科・仏教芸術コース」を卒業したが、今回の学部改組で、「仏教学部・仏教学科・仏教文化コース」に改編されることとなった。
単なる「言い回し・文字の表記」の違いではないかと言われそうだが、実際には、大きな違いが存在すると思う。現行の仏教芸術コースに異議を持たれている仏教・浄土コースの先生にも出逢ったりした。また、以前の仏教文化コースにおられた先生で、大学を去られた先生も存じあげている。
「文化」の名称が良いのか、「芸術」のそれが良いのかは、かなり、観点が異なってくると思う。「文化」という言葉も多義性を持っている。ドイツ芸術至上主義の「文化」というのは、「精神文化」を中心とした形而上学的な要素を多く含んだニュアンスである。
日本の戦前の美学教育は、京大等に、特に癖が強い先生がおられて、受け継がれているが、アカデミズムと「精神文化」を融合させた日本独自の理想主義の観点である。一方、文化人類学、文化社会学、あるいは、生活文化といった「文化」、あるいは、「文化住宅」、「文化鍋」等といった名称に使われる文化とは、どの様な語義的性質を持つのだろうか。多分にこれは、様式=文化という意味合いが強い。例えば、弥生文化、縄文文化というのは、生活様式、土器や木器、石器といった遺物から認められる生活様式を文化として定義づけて分類される。
また、社会学の「文化」とは、日常の社会集団の生活の中で、培われた生活が、様式化されたものを指しているのだと思う。今回の佛教大学の仏教文化コースは、どの様な観点を指しているのだろうか。
また、仏教芸術コースの「芸術」とはなんであったのだろう。仏教芸術コースに入学した最初に悩んだのはこれである。文化ではないことは事実だ。
実際のカリキュラムを見れば、説話文学、仏教文学、あるいは、経典の解釈といった部分から切り離された単なる絵画、彫刻(仏像等)、芸能(唱導)等の表現手法に限定されたものであった。
とすれば、「芸術」は、表象的なのだろうか。それも浅薄な考えであり、卒業論文でもそれらの表現様式、方法等の表象的な部分について分析、論じたとしても、結局は、「何故、この様な表現方法を採ったのだろうか。」という問題点に突き当たり、次の段階では、「何故、この様な表現が産み出される様に至ったのだろうか。人間の衝動・宗教的感情がどの様にして芸術表現に結びついていくのだろうか。」というテーマを究極的に追求していくのに他ならない。
そうすれば、結局、仏教に関する芸術表現というのは、宗教の精神的背景の究明に結びついていくことになるのだと思う。つまり、「仏教芸術コースは、仏教の精神や理論的背景が希薄なので、存在意義がない。」と言われていた仏教学科の先生への反論にもなる。逆に、「仏教文化コース」という名称が、先述の語彙・語義的考察からすれば、必ずしも精神的であるとは言えない。
佛教大学の坪内捻典先生が、私の詩歌や俳句の創作に対する考え方をたしなめたことがある。それは、私の元々の考えである「和歌、俳句、詩歌は、芸術的感興が衝動的に抑えきれなくなった時に自然に発生し、つくられるものだという。」という考え方は、間違っていると指摘され、「芸術的感興は、確かに表現意欲はつながるが、それよりも、既成の語義(ひらったく言えばことば)を如何に効果的に組みあげて、客観的・普遍的に第3者に理解される様にコンストラクトすることが重要である。」と言われたことを記憶している。
つまり、「俳句」は、「芸術」では、なくて「文化」なのである。
仏教芸術と仏教文化の定義づけもそういった方向に近いのではないかと私は考えている。








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