観音信仰の持つ死の恍惚・エロス的側面2009/10/12 18:12

「補陀落 観音信仰への旅」(川村湊著,作品社,04年4月10日第2刷発行)

 「ふだらく」と呼ぶ観音信仰によって導かれる浄土の日本、中国、チベット、インド文化への影響等を総括的に論じた本である。

 「補陀落渡海」とは、那智や土佐等で行われた即身往生業であり、「うつぼ船」と呼ばれる沈むことを前提に作られた船に狂信的な観音信者あるいは、代々の補陀落寺の住職が一定の年齢に達すると、この船に乗船し、身体には重しをつけて、補陀落世界へ旅だっていくことである。


 たとえば、古代日本では、ニライカナイの思想、あるいは、先日も日本神話の項目で触れた山幸の竜宮への訪問等の海洋世界への憧れに、仏教信仰(西方極楽浄土への信仰)が融合したものであるが、自発的なものあれば、この本の著者が触れている様に、世界大戦で行われた海洋特攻行為(人間魚雷回天や震洋)も含まれている。

 青年達の純粋な愛国心を一種の狂信的信仰と捉えれば、やはり、これも一種の捨身的行為とみることができるからである。

 紀行文、論文、エッセーのどちらにも属さないジャンルの書物で、実際、この本を読んだ時の印象は、混沌としている。

 それは、「観音信仰」というものが、仏教の単なる菩薩信仰の枠を越えて、ヒンデゥー経、チベット仏教、キリスト教(三位一体以外の宗派を含む)、かくれキリシタン信仰、あるいは、神道、もろもろの土俗信仰との関わりを持っており、その範囲をみれば、この私たちが生活する全宇宙を包含していると言っても過言ではない。


 だから、この作品には、古代インド神話、法相宗、華厳経の世界、善財童子と明恵上人との関わり、鑑真とそれに纏わる日本や中国の高僧達、俵屋宗達等の美術家、お初、徳兵衛の心中と観音めぐり、生島のキリスタンの「天と地の始めのこと。」、観音と龍神信仰との関わりでみれば、道成寺縁起絵巻の世界、あるいは岡本かのこの「菩薩賛歌」に至るまで森羅万象と関わりと持っているのが「菩薩」なのである。


 この本の著者は、水産業界新聞の記者(集金も行う私等と同様の賎業)出身から、見事、文芸評論家、法政大学国際文化部教授の職についた勝ち組の人である。

 この人が、私の様に恵まれない業界新聞の記者時代に、紀伊半島等の漁村を取材や営業で旅した時に、たまたま出逢ったのが、補陀落渡海の遺跡や伝承なので、そこから、無限に広がる観音伝承、観音信仰の世界に旅立っていったのである。

 補陀落は、あのダライ・ラマチベット仏教の聖地、ポタラ宮殿のポタラと同義語であることをご存じだろうか。

 補陀落の聖地的イメージは、五体投地や捨身(自らに火を放ち仏灯明とならんとする捨身業で大きな功徳を授かるとされる。)、あるいは、西海のかなたにある竜宮・「補陀落浄土」への旅立ちである。

 16世紀に日本を訪れたイエズス会士は、補陀落渡海の儀について詳しく状況を記している。

 人々は美しく着飾って、死への恐れどころか新たな世界に旅立つ、恍惚と優越感にとらわれているのである。

 これと似た現象が、日本におけるキリシタン殉教の有様であり、聖母マリア(サンタ丸太)への憧れの言葉を口にしながら、生きながら喜悦の表情で焼かれていった信者達である。

 当時の宣教師達もこの類似性に気づいたいたと見える。また、当時、信仰されていた母子観音像と観音信仰についても興味を持っている。

 じつは、この聖母子をかたどった観音像への信仰は、西欧キリスト教世界で排斥されたキリスト教に基づく信仰が中国等の東洋世界に伝播した観音信仰に姿を変えたものであったのである。

 エロス的な側面は宗教的恍惚に結びつく。それは、インドの古代神話でも明らかだが、法華経に描かれた女人往生の世界、つまり、女性が往生する際の姿が、この観音像にも描かれており、仏教の信仰世界では、唯一観音信仰によって、エロス的側面が肯定されているのである。

 著者は、この様な万人が持つ宗教的世界観の中で、エロス的・恍惚的側面が、観音信仰、マリア信仰として姿を変えていった経緯について、思想的な背景を中心にこの本では解説、考察を試みている。

 「愛と死」、ワーグナーの楽劇ではないが、人類が持つ、宗教的な最大のテーマでもあるのだと私は思った。

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