敗戦忌2010/11/03 10:30

 「童子」11月号が届いた。

 見本誌の9月を含めて3冊目の「童子」である。

 今号では、「わらべ賞」の発表とか、「エッセー賞」の募集等が載っているが、僕には、関係ない。

 維持会員で更に1万5千円を支払うと、毎号1句自分の作品が掲載してもらえるそうだ。別にそこまでして自分の作品が活字になることに拘らない。会費が年間1万9千円で、更に1万5千円となると、大変な出費である。

 会員の方は、大抵が年輩の方なので、お金を持っておられる人が多いのだろうと思うが、贅沢な趣味であると思う。こうした会は、お金をどうやって集めるかが問題になるので、仕方がない面もあるが、ホームレス直前の自分にはそぐわないかも。

 今号の面白かった俳句は、「露光集」(中村ふみさん)の

 げげげげと赤子の笑ひ崩れ梁
 泣く時は口を四角に糸瓜水

 「げげげげ」というのが、気味が悪いが可愛らしくて良い。

 こうした俳句の雑誌をみていた感じるのは、先生方から同人のメンバーまで、句評やエッセイ等に力を入れておられていることで、評論と創作のウエイトが、拮抗に近い位だと思う。

 これは、俳句をやられている人に共通している様で、佛大通信大学院国文学専攻(今や、稔典先生の俳句学校と化している。)でも、句評ではないが、それぞれの方の研究発表の時に一番、強固な論陣を張られていたのが、やはり、俳人としても有名なUさん等であり、さすが、慣れておられて、彼らとの論戦に勝利することは、難しいと思われた。

 今回、その様な昔を想い出させる様な内容の記事が掲載されている。それが、「桃子草子 終戦記念日」である。

 「終戦日」、「敗戦忌」は、戦後の俳句界では季語と定められている。例えば角川書店の『図説俳句大歳時記』では、「終戦記念日」で立項し、「敗戦忌」が傍題として挙げられている。
 
 桃子氏は、「虚子は、新聞記者に問われて、『戦争は俳句にはなんの影響も与えなかった』と言ったという。」という事実を挙げている。

 Uさんは、佛教大学大学院修士論文の中間発表会で、この虚子の言葉を取りあげられた。そうして、「虚子にとって戦争とは何だったんだ。」という疑問を提示された。

 そうして、日中戦争で日本軍が各地で勝利しているのをみた虚子が書いた文章の幾つかについても解釈された。

 その発表内容に、同日の発表会に参加されていた、E先生(日本書記の分巻論のご研究をされている。)が異議を唱えられた。E先生は、その前の年まで、中国研修で1年間を過ごされたので、日中関係のあり方について、ナーバスになられていたのか、かなりエキセントリックな討論の内容で、聞いていて面白かった。

 「戦争は俳句にはなんの影響も与えなかった」というのは、その表現の伝統であると桃子先生は捉えられているのだろう。

 「敗戦」は日本人の心を変えてしまったし、それは、やはり文学作品にも影響を与えている。仮に、戦争に勝利しておれば、それは、幾分輝かしいものであったかも知れないが、いずれにしろ、何らかの日本文化・日本精神に影響を与えたに違いない。

 「俳句は芸術ではない。」とか「第2芸術だ。」とかいろいろ言われているが、やはり、この様な伝統的な表現法への拘りが批判されたのかも。

 でも、実際には、前衛的な俳句も戦後多く生まれたし、作句の視点もかなり変わって、僕は、むしろ戦後の俳句の方が面白くなったのではないかと思った。

 社会文化学の視点からみれば、俳句の読み手(制作者)には、「階層分化」ということが生じた。それは、プロとアマの区別がハッキリしたという点である。

 連歌・連句、蕉風以来の江戸時代の俳句の伝統、そして、子規の写生の精神が、戦後になってもそのまま引き継がれているのが、庶民の俳句である。そこには、日常的な生活体験をベースにした視点が中心となっている。

 「童子」は、9~11月号を読ませていただいた限りでは、やはり、後者の伝統的な視点での俳句づくりである。

 この句作態度でのプロフェッショナリズムは、その日常的な視点から、その境界を乗り越えて、新たな境地を積み上げようとしているのだと理解しているが、それが果たして成功しているのか否かは、私には、この段階では、判らない。

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