パルナックファンでーす2008/12/10 22:53

IXYDIGITAL70で撮影。
 僕がこよなく愛するパルナック君達である。彼らの産みの親は、オスカーパルナックである。
 1916年に、当時、それ程、有名でなかったドイツのカメラメーカーライツ社に勤めていた技術者オスカー・パルナックが、当時の標準機だった重い乾板を利用した大型カメラとは異なる、小さいネガを採用した小型カメラ「ウル・ライカ」を独自に考案した。
 このカメラは、35㎜映写機のフィルムを飯ごう型の筐体に収納し、彼の考案になるフォーカルプレインシャッターで撮影するという仕組みで、小型カメラでは、世界最初のものである。
 この小さなカメラ、最初は、全然、注目されなかった。コンパクトカメラというものが、どんなに素晴らしいものか当時の人達が気づくまでにかなりの時間を要した訳である。
 しかし、一度、その便利さが評価されると、パルナック・ライカとして瞬く間に時代を席巻した。
 アマチュア・カメラマンの時代がやってきた訳だ。
 写真の上の右側が、当時のパルナック考案のカメラに一番近い初期のライカである。このカメラは、レンズが通常のライカマウントと異なるし、距離計が内蔵されていない等、非常に原始的な特徴を備えている。中古カメラ店でボロボロになっていたのを修復して、撮影可能にした。
 レンズをマウントする金具に「0」の刻印がある。
 一番左側が、ライカⅢaで私が唯一使用している純正のまともに撮影出来るパルナックライカで、レンズは、ズミター50㎜F2である。
 左側から2番目がソビエト連邦で1930年代にコピーカメラの生産が開始され、ゾルキーという名前が付けられたカメラである。これは、ゾルキーⅠ型であるが、かなり、後の時代に作られたもの。
 左から3番目がフェドⅠ型で、ゾルキーよりも更に前の時代(スターリン時代?)にドイツのライカのコピーとして生産が始められたもので、これも1950年代の戦後製である。
 左から4番目がロシアになってからフェド、もしくは、ゾルキーをベースにフェイクライカとして生産されたものである。同じく5番目もおなじフェイクライカで黄金色で木目調
の美しい筐体を持っている。
 ロシアになってからのフェイクライカは、本質的にゾルキー等とは違う。ゾルキーやフェドは、ナチスドイツのライカが入手困難となり、独自のコンパクトカメラを国民に提供する為に国策として生産されたものである。
 ロシアのフェイクライカは、税関でぶっ潰されているローレックス等のフェイクと同じ目的で生産されたもので、日本等の物好きが目当てである。
 パルナックライカは、左側のファインダーで焦点を合わせて右側のファインダーでフレーミングを行うという2度手間であること、更にシャッターダイヤルが内部のフォーマルプレインの軸を連動して、シャッターを切ると必ず回転する。また、速度合わせは、必ず巻き上げてからしないと壊れてしまう。
 でも何よりも厄介なのは、経験者は判ると思うが、飯ごうの底の蓋の部分を明けて、フィルムを装填するのだが、これが、秘法に近い特殊技術がいる。現代のフィルムは、くびれがないので、パルナックライカでは、底から、そのまま装填しようとしても歯車に引っかかってしまって、旨く入らない。
 そこで、フィルムの端の片面を切り落としたり、あるいは、テレホンカード等を先に差し込んで、歯車の部分をカバーしてからフィルムを装填して静かにテレホンカードを抜き取って、巻き上げて歯車に噛み合わせるという、もの凄く厄介な作業が必要である。
 こんな不便さもあって、パルナックライカは、廃れてしまった。それでもクラシックカメラ好きの変わり者は、必ずカメラとテレカを持ち歩いていて、フィルム装填に備える。
 面白いのは、DPE店でこんなカメラを目の前で、フィルムを巻き戻して、飯ごうの底の蓋の部分開けて、フィルムを撮りだして渡すと、「ヤレヤレ」と言った顔で、渋々現像を引き受けてくれる様子を観察することで、大抵の店員さんは、「災難やなー」という顔をされる。
 何時も、程度の低いフィルムを現像に出しているからなので、自業自得ということだが。
 こんな変な不便なカメラでも現代というか20世紀末まで続いたフィルムコンパクトカメラに比べても小型であり、持ち運びが非常に便利だし、Lマウントのレンズを色々と交換して写りの違いを楽しめる等、飽きないカメラである。