実質的に意味がないのである。 ― 2010/10/08 10:28
最近、人文(文化関係)で評論か研究か判らないものが増えている。
最近の人文、特に文学、民俗、宗教、思想関係で、新しい「視点」を提起して、その視点から対象をみれば、新たな発見・結果が得られるというコンセプトの論文があまりにも多い。
フィクション、詩歌等の文学作品、あるいは、宗教、伝説、史実、伝記等は、そういった「評論的研究」の対象になりやすい。
つまり、具体的な実象はなくて、本質は、「空」なので、なんとでも言えるのである。そうして、実体も「空」、検証も「空」したがって結論も「空」なので、意味がない訳。
佛大の先生(一部には、文献学による実証的な研究をされている方もいらっしゃるが、この場合も、その文献の解釈によって導き出される結論の真実性を検証することは不可能で、限りなく「空」に近い。)や、院生の方々の多くが、紀要などにこうした評論的論文を多く掲載される様になってきていることは嘆かわしいことだ。
先行研究の分析・反論→視点の形成→視点に基づく仮説の証明→仮説に基づく演繹的展開→仮説の機能的検証→結論
この様なプロセスで論文が書かれるが、最初の視点自体が個々の人間によって異なり、普遍性がないので、数多くの論文を書くことは可能だが、実質的に意味がないのである。
最近の人文、特に文学、民俗、宗教、思想関係で、新しい「視点」を提起して、その視点から対象をみれば、新たな発見・結果が得られるというコンセプトの論文があまりにも多い。
フィクション、詩歌等の文学作品、あるいは、宗教、伝説、史実、伝記等は、そういった「評論的研究」の対象になりやすい。
つまり、具体的な実象はなくて、本質は、「空」なので、なんとでも言えるのである。そうして、実体も「空」、検証も「空」したがって結論も「空」なので、意味がない訳。
佛大の先生(一部には、文献学による実証的な研究をされている方もいらっしゃるが、この場合も、その文献の解釈によって導き出される結論の真実性を検証することは不可能で、限りなく「空」に近い。)や、院生の方々の多くが、紀要などにこうした評論的論文を多く掲載される様になってきていることは嘆かわしいことだ。
先行研究の分析・反論→視点の形成→視点に基づく仮説の証明→仮説に基づく演繹的展開→仮説の機能的検証→結論
この様なプロセスで論文が書かれるが、最初の視点自体が個々の人間によって異なり、普遍性がないので、数多くの論文を書くことは可能だが、実質的に意味がないのである。
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