ロボット掃除機は健康にも良い2010/12/02 09:27

 相変わらず、ロボット掃除機は活躍中。1度、玄関からの落下事件で、赤外線センサーを損傷したが、瞬間接着剤で補修して、その後は、順調に動作している。

 「手抜き掃除用」というよりも、ロボットを使う前の方が手抜きというか、ロボットでないと取れないゴミもある。

 最初、ロボット後部の黒色の円弧の部分を外して、その内側のタンクに貯まったゴミを排出していたが、ここは、粒子の粗いゴミが貯まる場所で、更に細かいゴミは、その裏のフィルターを介したタンクに貯まる仕組み。

 これに気づかずに放置していたら、ゴミを吸い込まなくなったので、調べると、細かいゴミが貯まったタンクが充満していたことが判明。

 1日でタンク半分位のゴミを吸い取る。細かい粒子状のゴミは、こんなに発生している。

 手動掃除機で一日で取れるゴミの数倍はあるので、ロボットの能力を再評価。

 数ヶ月続けた結果、部屋のゴミっぽさとかイガイガ感が取れて、空咳も出なくなった。健康にも良いようだ。

 ロボットに何時までも働いてもらいたいが、きっと寿命があるのだろうな。

寝室の天井も貼り替えることに2010/12/02 09:40

寝室の天井も貼り替えることに。

 ルームファクトリーで、サンゲツ壁紙(クロス)モダンカジュアルRE8190-8190を発注。今回も糊付き。

http://www.kmfactory.jp/01wall/07modan/re8190.htm

 茶色系統で、板目でないのを捜すと、この製品しかない。板目のものは、上手に貼れると、本物と見間違う程であるが、下手だと、奇妙な仕上がりとなる。それなりにすっきり感はあるが、やはり、不細工。

 この製品も無地ではなくて軽く濃淡が入っているが、模様柄なので、クロスの継ぎ目がずれてもあまり目立たないと思う。

 前回と同じ様に、1.5㍍位に短く切って、貼っていくつもり。この方が1人で貼る場合は無難。

 長机ともう1名の補助役の人がおれば、四畳半くらいだと3枚で貼れてしまう。但し、皺とかなくて仕上げるのは至難の技である。

 これが終わると、先ほど、2階六畳間のふすまもやろうと思う。これも、薄い上品な柄目のものを選んで貼る。

 ふすまの場合、段ボールふすまは無理で、うちの様にベニアのふすまは可能である。本来は、ピタ貼るでなくて、紙だけ買って、ふすま用糊で仕上げるのがベターであるが、面倒臭いし。

ハンドル部分の牛革は、1頭の牛から切り出したものという2010/12/02 15:55

童子二十三周年記念・オリジナルトートバッグである。

先日の大会のお土産品で、これに、柚子4個、林檎1個(会員の方が持ってこられた)等々のお土産を入れて、会員に配った。

柚子は風呂に入れて、林檎は食べた後、このバッグが残った。

最近は、色々なところトートバッグをもらう機会が多い。珍しいのでは、企業もので中部飼料の奴とかそういったものである。

この童子二十三周年記念・オリジナル帆布トートバッグは、倉敷製帆布・岡山白桃句会の久門南さんがデザイン製作したハンドメイド品である。

だから、手触りが良いので、気がついたらやはり、日常的に使用している。生協とかに買い物に行くときとか、小さな鞄しかないときに予備袋として入れてある。

しかし、ハンドル部分の牛革は、1頭の牛から切り出したものという。どんな牛さんだったんだろう。色からみたら、和牛だなと想像している。

http://www10.ocn.ne.jp/~douji/

ところで、童子十二月号が未だ届かないので、週に1度しか係の人がいない事務局に今日電話したら、「まだですのよ。」と上品なお声が。

たしかに、この11月は、二十三周年大会で多忙を極めたので、無理もない。この雑誌の分量は凄く、参加した人達も「とても1ヶ月では読み切れない」とおっしゃっている。寄稿の記事も多いので、原稿の管理とかスケジュール等も大変だと思う。

ところで、今日の陽気は、まるで、春がやってきたようなポカポカ陽気。おうぶの里も穏やかな気候に恵まれたと思って、森林植物園に紅葉散らしの時雨が降る前に見納めて置こうと思って、原チャリに乗る。

走り出して2~3分経たない内に後輪がおかしな具合。
一瞬、ポコッとなった。「パンクだ。」家の1階の車庫の扉が開けっ放しにしてあったので、いたずらされたのかも知れない。

運が良いことに歩いて5分位のところにYAMAHAショップがあるので、修理に出す。

タイヤ自体の老朽化がパンクの原因だという。後輪取り替えで、6300円もかかってしまった。紅葉も見に行けず、余分な出費がかかってしまった。タイヤの空気圧が上がっているので、凄く走りにくくって怖かった。

バイクショップのオジサンは、「(メーターをみて)あんまり走っていませんね。こいつはよく走るでしょ。今のバイクじゃ、この半分のパワーもないですよ。」と言われてしまってご機嫌。

 ただ単に2サイクルエンジンが搭載されているだけで、購入する時、坂道でもパワーが出せるのを選んだことを想い出した。

 バッテリー交換も必要だという。費用は、1万5千円位。買えようかな、放っておこうか思案中。

辺り一面は朝霞の中2010/12/03 10:02

夜中には、大分、天気は荒れたようだが、その頃には、熟睡で、目が覚めて、朝、散歩に出ると、辺り一面は朝霞の中。

裏庭に出てみると、昨日まで、辛うじて命脈を保っていた草木の生気も一層、薄れている。

冬の嵐過ぎゆく裏庭哀し

でも、何よりも悲しかったのは、インスタントコーヒーとマヨネーズが切れていたことで、早速、コンビニに買いに走った。

辺り一面に落葉が散らばっているので、近所の洋菓子店の女の人とか、散髪屋さんとか様々な人が、道を箒で掃いていた。

家に帰った後、その後、バルコニーに貯まった雨水を箒でかい出していると、クロネコヤマトがやってきた。クロネコで色々なものを配達してもらうので、すっかり、配達のお兄さんとも馴染みとなった。

寝室の天井用のクロスが届いた。週末に貼ろうと思う。

住み継ぐということ2010/12/03 23:06

 今日は、大阪市住まい情報センター3階ホールで開催された「長寿命住宅シンポジウムⅢ 住み継げる住まいを考える為の重要ポイントを発信!」を聴講させていただいた。
 参加した理由は、『住み継がれる家の価値Ⅲ』が参加者は無料でもらえるということに尽きる。

 スーク創生事務所代表の大島祥子さんという方(写真左端)が、宮古島で撮影した住宅の写真がブログに掲載されていたが、棟の構造が判りにくかったので、詳細な写真が知りたかった為。
 宮古島の住宅は、超耐気候性を備えると共に、島の気候風土(季節によって風向、風力、天候が変化)にも適応出来る柔軟設計のお家。
 一番、凄いと思ったのは、屋根の構造である。うちのボロ家もこんな風に屋根をやってもらえれば、六甲山下ろしの強風に耐えられると思う。瓦の色もうちの家に似ている。棟の補強には、漆喰を徹底的に使用している。
 少し、疑問に思ったのは、こうしてしまうと、ウチの家でも発生している様な通気性の問題が生じてしまうのでは。コーティング材にもよるが、通気性がなくなると、屋根材の劣化も速くなり、快適性(自然な除湿や温度調整機能)も失われてしまう。

 シンポジウムは延々3時間に及ぶ。


 「住み継ぐ」という言葉自体が、
 ①家という(ハードウエア)の継承
 ②社会性の継承(地域社会における役割)
 ③住みこなしの継承
 3ポイントがあり、更に、「継承」も親子、他人(第3者)等の場合がある。
 
 つまり、積水ハウスさんのエバーループの発想は、住宅を「商品」としてみて、①に、重点をおいて、動的平衡性を保ちながら、再生利用していく発想である。もちろん、家の家族構成や社会性等も考慮しないではないが、あくまでも再生利用が可能なプレハブ住宅づくりのコンセプトである。
 具体的には、頑丈な基礎構造、施主の希望や家族構成の変化等に対応しやすい柔軟設計、家の性能の維持プラスアルファの商品価値(新しさ)の維持等のコンセプトである。

 この点について京都大学大学院教授の高田先生は、異議をおっしゃられた。具体的には、「じゃあ、積水ハウスさん以外の家だったらどうするの。」ということだが、住宅メーカーとしては、商品性が表面に出てくるし、やはり、リユースの場合でも「新しさとか、商品の魅力」は、セールスポイントになるので、どうしようもない。それが大手住宅メーカーの家づくりの限界かもしれない。

 もう1つの考え方としては、古民家再生(今回は、有限会社菅家設計室の代表菅家克子さんの事例である。これは、築200年とかそれ位の代々住み継がれてきた家について、性能維持(補強)、住みやすさへの対応(家族構成や趣味性、家の社会的意義)の為のイノベーションである。

 例えば、古民家をイノベーションで商品として、新たな顧客に販売する場合もあるだろうが、多くの場合は、家に代々住み継がれていた家族の希望に答えた改築である。
 古民家の場合は、建築素材が木造でも素晴らしいものがあり、それを再利用することで、新たな付加価値の創生も可能である。

 住み継ぐということは、エコロジー、資源の保護、エネルギーの節約といった意義もあるが、個々の家族の社会性の継承である。家族と社会の関係は、相関的であり、家族の変化、社会にも影響を与え、社会の変化が家族のあり方を変えていくのである。そうした生活文化の創造の舞台として、住宅を考えるならば、住み継いでいくということは、当然であり、地域社会が存続する為に基礎的条件の1つであると、僕は、思った。
 また、住み継がれる為の家の条件としては、たしかに設計の柔軟性とかそういった側面もあるが、やはり、日本の風土に適った、長持ちする建築素材の活用が条件にあると思う。

 最近の新築の家は、美しいが、その使用されている素材によっては、2~3年で雨漏りが発生したり、紫外線等によって外壁材が変化したり、あるいは、合板素材、積層板等の粗悪のものであれば、接着剤自体が変成を起こして、家の構造材としての強度の維持するおぼつかなくなる。 

 築30年以上経過した家でも、使用材の相違により、家の耐久性や状態は、全然異なってくる。施主や住宅メーカー、建築業者に「住み継ぎ」のコンセプトがあるかなしかということになる。
 
 鉄筋の強度も、昭和初期の建築等をみても判る様に、耐久性は低い。そうなると良質な木造建築(ムクの材料)が長持ちする前提条件となるが、森林資源の保護、地球環境の保全等を考えると、木材の伐採を続ければ、材木の価格の高騰、自然環境の破壊につながる。

 こうして考えると、過疎地の古民家等を解体した材料のリユースも住み継がれる家を造る条件に入ってくると思う。

 そういえば、先々週の「渡辺篤史の建物探訪」で、島根県の古民家の解体材木を新築建築に活用している事例が紹介されたが、こういったのも、住み継がれる家づくりの1つの手段であるかもしれない。


みられない2010/12/04 09:39


警察庁の情報漏洩事件、尖閣諸島事変映像流出、そして、ウィキリークスと、情報のリーク(漏洩)が国際社会問題となっている。

これは、ネットワーク社会への警告と、その限界を示したものとして注目される。

「情報漏洩」と「知る権利」を結びつけることは、大きな危険を伴うが、政府レベルの情報がリークするというのは、情報を保有している側にも責任があると思う。

ウィキリークスを閲覧しようと思ったら、今までみれていたのが、この有様。NHK報道以来、閲覧が難しくなっている。

マスコミが騒ぎ立てるから問題になるので、そうでなければ、こんな問題には、発展しなかった。
僕らにとって一番迷惑なのは、マスコミだ。

大きな迷惑だと思った。

柚子湯2010/12/04 22:48

今日、先日の童子23周年大会でもらった最後の柚子を風呂に入れて楽しんだ。

馥郁たる香りが湯船に広がった。

おうぶの家の風呂は、次第に寒くなるに従って、狭い浴室が蒸気で満たされて、真っ白になって天井も何もかも見えなくなる。

そうなると、かえって浴室が広く見える。天井が高いので、湯気で天井が見えなくなるとなおさらそういった感がある。

実家の風呂は、30年以上前に作られた浴室とは思えなく広く、脚を全部伸ばして湯船に浸かることが出来る。しかし、当時の標準的なお風呂って今、自分が入っている風呂の様だったと思う。

30年前に能勢口の木賃アパートに棲んで、風呂もないので、先日、亡くなった絵描きの叔母の家(アトリエ)に風呂を良く借りにいったことが想い出されるし、関大に入った時も一時は、下宿していて、その文化住宅にも風呂がなくて、夏には不潔で、ボロボロの家でも、お風呂がついているのを見て、心から羨ましがったものだった。

昔、生活程度は、今の学生さん達とは比べものにならないほど、低いものだった。それでも世の中は、今よりも豊かだったと思う。

15年前には、ワンルームマンションのもっとも程度の低いのに棲んでいたが、風呂だけは、あった。震災の時に風呂が入れなくなった人を入りに来ていた。部屋が汚いので、床に新聞紙を敷かれて、換えって汚れに来たようなものだと言われたが、風呂があることが有り難かった。

こんな風に、20年間、あんな零細企業でも無事に給料をもらい続けることが出来て、安穏と風呂にも入れた。

しかし、50歳の今、思いがけない人生のどんでん返しにあって、風呂にも入れず、路頭に迷う日が刻々と近づいている。

来年には、風呂に入れる家には住めなくなるかも知れない。
だから、今日の柚子湯は本当にありがたい。

ありがたや柚子湯に浸かりて合掌す

昨晩の夢の中で、こんな研究構想を思いついた2010/12/05 10:18

 昨晩の夢の中で、こんな研究構想を思いついたので、早速、メモしたものをこのブログで紹介してみる。
 支離滅裂であるが、僕が考えているのは、こんな風。

 私の年齢は、既に50歳を過ぎて、老齢期に入っている。源氏物語等の平安朝では、皇族や貴族でも50歳と言えば、天寿をまっとうしたと言える年齢である。源氏物語の若菜下や幻巻等を読んでいても、その様な記述に行き当たる。

 そうした中で、後、数ヶ月で、私の身辺の経済的な命運も尽きかけている状況なので、これまで研究して来たことをまとめてみようかと思っている。

 ①修士論文「光源氏の言葉」の改訂

  修士論文「光源氏の言葉」は、その研究手法として、統計的な分析手法を用いようとしたが、これは、本来、これは、別の研究ジャンルに属するので、「統計的解析で把握出来る源氏物語の構造」という論文に分けようとと思う。そうして、場面中における発話表現を光源氏と他の登場人物とで、幾つかの要素を設定して、それらを分析、比較する作業を中心に、場面における「光源氏の言葉」と発話表現について考察した論文に書き改めようと思う。

 ②新論文「源氏物語の構造研究の新展開 
             ユニットとしての場面展開の特性について」

 ①を踏まえて、新論文を考えたのが、このテーマである。この論文の基礎研究として、以前、学位論文として制作した「源氏物語の絵画化の手法」の内容を更に発展させて、この論文のもう1本の柱とする計画である。

 これまで、拙論「光源氏の言葉」において、源氏物語の発話表現と場面の構造を分析し、この物語のストーリーは、幾つかの場面の組合せによって、展開していくことについての検証を試みた。

 その場面を成立させている要素として、視覚的表現があり、それに関連して、発話表現等の付随的な要素が配置されている。

 一方、場面表現の視覚性に注目されば、物語絵巻という絵画化メディアにおいて、映像と音読(音声・発話表現)の密接な関わりについても注目されるに至った。

 絵巻物は、画像(映像化)されたストーリーユニットの組合せで、享受者に物語の進行を理解させる機能を持っている。ある意味、源氏物語の構想の時点で、そういった視覚化されたストーリーユニットの組合せで構想された可能性もあり得るということ。つまり、その絵巻物の画面・場面の組合せによっては、違った物語の展開を原作者は、楽しんでおり、その中で、最も効果的な組合せを選択しているのではないかとも考えられるのである。

 つまり、作者、紫式部は平安朝における偉大なゲーム作家でありえたのかも知れないということ。

 こうした研究は、現在のゲームメディアや、今後、考えられるこれまで誰もが考えもつかなかった新ジャンルの創造につながると考えている。

 それは、ようやくIPAD等のメディアツールが登場したことで可能になる。
  
 現代のメディア技術の発展による最大の恩恵は、その「可変性」にある。

 つまり、これまでのメディア享受の形態は、その映像や音声、テキストデータ処理技術の発達によって、自由にストーリーユニットの組合せを楽しむことが出来る様になる訳。

 現代のフィクションの作家は、新時代が到来した中で、新らたな作業を課せられる様になるだろう。

 作家は、予め登場人物や場面設定等のデザインを行い、プラットフォーム的なストーリー環境を読者・享受者に提供(既存型のメディア)し、その後、ストーリーユニットの組合せの選択は、享受者に委ねられて、作品自体で自在な変幻と遂げていく。こんな風にペーパーメディアでは、あり得ない様な、作品を作り上げることが可能となっている。

 20世紀の終わり頃から発生、発展を続け、現在、その先鞭・皓歯となっているのが、いくつかロールプレイゲームである。つまり、これは、享受者(ゲーマー)の意志で、場面の組合せを選択肢、更に画面の展開と共にヒロインの性質や能力も連動して変化していくシステムを楽しめる様になっている。

 現在、小説と言えば、ペーパーメディアが中心であり、読者は、固定化されたストーリーを享受する他はないが、IPAD等の電子メディアでは、一応、基本となる場面、映像、文章の組合せが準備されており、定型的な楽しみ方も出来るし、あるいは、読者の趣味による選択、あるいは、偶然性(シャッフリング)によって、毎回、違った作品展開を楽しくことが出来る様になるのではないだろうか。

 つまり、1つの作品でありながら、1つとして同じものはない作品を作ることが出来る様になる。

 そうした中で、一番重要になってくるのが、源氏物語の研究で取りあげた様な精緻な場面設計と効果的な表現である。まさに、これは、現代の仮想空間技術と融合してくる。享受者は、別に文章を読む必要はないのである。ゴーグルを被り、アパターとして、映像空間に浸透していく、そうして、様々な体験を行う。その行為が、作品享受として成立する様になるし、仮想空間のオンライン化を図れば、複数の参加者で、この作品を楽しむことが出来る。


 僕が住宅に興味を持っているのは、まさに現代人の生活空間・人生の舞台としての「家」なのである。

 源氏物語絵巻や、物語本文にも精緻な家屋構造の描写が登場する。

 こうしてみると、源氏物語って凄いと思う。遙か10世紀の時空・年月を遡って、現代のニューメディアの世界を予見していたかのようだ。

また、こんな夢をみた。2010/12/05 14:21

 また、こんな夢をみた。

 ある沙門が僕の前に現れて、次の様な説明を繰りかえす。

 場面といえば、説一切有部の考え方をしていまうが、「諸行無常」が、何故、そうなるのかという説明づけについて、説一切有部では、現象(人間の感覚・意識で捉えられる対象)とは、刹那単位で点滅を繰りかえすフィルムの1コマの様なものだと説明している。

 瞬間的に止滅するので、人が意識している時には、もうその現象は存在しないのである。この無数の繰り返しが、私達が、諸行無常として捉えているものである。

 ブッダの教えによると、「我」は存在しないという。「我」は、アートマンと呼ばれるもので、突き詰めれば、1つの方向性を持った現象の集合体である。

 それは、例えば、生前に善行を行ったかそうでないかで、極楽か地獄か、あるいは、畜生の世界に生まれ変わる様な輪廻を続けるかの道筋が決定されることである。

 もし、その様な方向付けが可能であるとすれば、現象ユニット(認識される)間を関係づける因果ユニット(人には認識出来ない)が1つの方向性を持って動いていることになる。
 
 ブッダは、アートマンを否定しているのだから、1枚・1枚の現象ユニットを結合させている因果ユニットは、バインダーの様な存在だが、これは、個々の現象ユニットを接着しているだけで、全体としての方向の位置づけはない。

 つまり、ニューラルネットワークの様な連鎖によって、現象は進行していくと認識されている。

 つまり、アートマンは存在し得ないのである。

 龍樹は、去るモノもなく、止まるモノもなく、来るモノもないといっているが、これは、現象ユニットも人に認識されている時には、止滅しているので、実体としての存在はないとしている。

 人に認識されない存在はないという考え方ならば、たしかに、虚であるが、論理自体の存在を否定すれば、その論理の存在を否定する人(私)も対象も何かも存在し得ないというパラドックスに陥ってしまう。
 
 ブッダは、そこまでは、言い切っていないと思う。現象は、その瞬間瞬間の因果関係によって、恣意的に移り変わっていくといっているのみ。

 つまり、後世の仏教的な源氏物語の理解の根底にある宿世・因果(この場合は、マクロとしての「我」と連動する因果)は、存在せず、私達は、未来を如何様にも変えることが出来る筈である。

 従って、過去へのトラウマ、現在への不満、未来への不安を考える必要はないということを悟り、極端な因果につながる様な行動を控えることによって、止滅する現象さえもが、安定した状態に保たれる中道の生き方を奨励している訳だと思う。

 だから、修行という概念は、ブッダにない。しかし、中道の生活を行う為の生活環境を維持することには意義があり、教団・サンガが形成された。

 こうしたことを大乗仏教の立場からみれば、自ら修行して自ら悟りを開くという見方になるが、実際は、そうではないのだということが、部派仏教について考えると判る。

 
 また、僕は、上下・左右が無限に広がる空間に沙門に手を引かれてつれだされた。

 よく見ると、無数のホースの様なものが見える。それは、血管の様に不気味に曲がったり、不規則な動きをしている。

 そう、ここは4次元世界なので、現象ユニットとの関連が視覚化されているのである。ある現象の管は、別の現象の管と交わっている。これは、新たな現象間の「縁」が生じたことを意味している。

 沙門は言った。

 「君は、物理の時間に習わなかっただろうか。曲線、曲面は、無限の時空間を旅した後で、再び元の出発地点に戻ってきて、また、出発を繰りかえす、エバーループなんだ。」

 「しかし、その様なものは、仮定の世界だけであって、この不合理な拡散的な世界には、存在しない。曲線・曲面というのは、一定の特性を持った「我」なんである。そう、だから、「我」なんてものは、この世界には、存在し得ないのだ。」

 大乗の場合は、まさに「我」の宗教である。この「我」は、善と救済の特性を持っていると仮定しているが、その仮定自体に無理がある。

 よく、部派仏教を「小乗仏教」と蔑視して、「彼らは、自分の解脱・成仏のみを考えて修行している。」と軽蔑しているが、本来の原始仏教には、「修行」という行為は存在せず、ただ、論理的・合理的に暮らすということである。

 ブッダは、修行を本来否定されていることは、「仏伝」として、大乗仏教の思想でも理解されているので、本当は、修行を通じて、教団を維持していく方向性にある集団にとっては、まことに都合が悪い。

 しかし、菩薩業として、一切利他(自分以外の全ての衆生の仏性を肯定し、解脱に導く)の方向性を見いだしていくという方便で修行活動を肯定する様になっていった。

 しかし、それが新たな矛盾を産み、輪廻転生といった本来ブッダを否定した考え方が定着し、仏教は、非合理的側面を色濃くしていく。

 佛教大学の仏教学部長の松田先生は、「仏教の歴史とは、本来のブッダの教えを否定していく過程の繰り返しに他ならない。」とおっしゃられた。

 僕もその通りだと思った。

 また、ブッダは、「非インド化」を前提に、インターナショナルな教えとして仏教を考えつかれた。「我」とか「輪廻・転生」、「難行苦行」というインドの古代宗教が持つ特性を否定する点から出発されたのだとも言われている。

 これもその通りだと思う。

 しかし、ブッダによれば、「万事、諸行無常」であるので、当然、言葉(理論)・思想・教義自体も年月を経て変化し、滅びていくのは必然であると言われている。だから、「仏教」の進化の最終仮定で、チベット密教の様な、本来のブッダの教えと全くあべこべのことをやっていく宗教に変化しても、これも必然であり、広い視点からみれば、これも、「釈迦の教え」ということになっていくのだと思う。

 以上は、僕が夢にみた屁理屈である。だから、正当な考え方ではないので、ご容赦いだたきたい。

これでは、悪い夢を色々みてしまう筈だ。2010/12/05 14:36

 寝室(四畳半)の天井の貼り替え完了。

 この部屋も以前の雨漏りの影響で、天井に心霊写真の様な染みが広がっていて不気味だったので、貼り替えることにした。

 しかし、ルームファクトリーから届いた現物をみて、少し、ヤバイかなと思った。考えていたよりも、赤色が強くてサイケな感じである。

 色等が不明というか慎重に考える人は、予めサンプルを請求した方が良いだろう。

 板目でないので、やはり、仕上がり自体は、この方が良く見える。

 作業時間は2時間位。大分速くなった。それと気がついた点であるが、以前、作業台には、長机が良いとマニュアルにも書いてあるとしたが、別にベッドでも良いことが判った。

 ベッドから手を伸ばすと天井に手が届くのである。但し、糊でベトベトになるので、カバーで養生してから作業に取りかかった方が良い。

 それにしてもサイケだなぁ。悪い夢を色々みてしまう筈だ。