佛大詰め合わせセット2011/01/02 22:27

佛大から「佛大詰め合わせセット」が届いた。

 同窓会報「紫野82号」、「佛教大学案内」、「先生ありがとうキャンペーン冊子」、「佛教大学B-ISM」である。

 これだけの冊子を全ての会員に送るだけ、大変な費用がかかっていると思う。僕が払った寄付金も吹っ飛んでしまうだろう。

 しかし、紫野、B-ISM等をみていると、「佛大と卒業生」の関係というのが、ちゃんと同窓会活動のコンセプトに組み込まれているのは、意義があると思う。

 関大の校友会誌も送られてくるが、卒業後と、その後に規約改正時に「終身会費」を2回も払ったのに、更新期間がくると、クルマの車検みたいに10年毎に1万円ずつ払わないいう滅茶苦茶なシステムになって、どう考えてもおかしいのに、しつこく請求用紙が送られてくるのも考え物。

 それに関大の校友会は、大学と卒業生とのつながりという部分が希薄で、単なる応援団、仲良しグループであるので、参加しても意味を感じない。

 それに比べて、佛教大学の場合は、「大学教育は、在学時だけではない。むしろ、卒業してから、学んだことを社会に有意義に活かすかということの方がずっと重要である。」という考え方らしくって、好感がもてる。

 大学案内は、残念ながら、編集が平凡でつまらない。これを大学のことを知らない人がみたら、インパクトに欠けるつまらない資料になってしまうので、もっとメリハリがある編集にしないと、PR要素に欠けると思う。

 一番、ショックだったのは、通学生と通信制の割合で、以前は、通学1:通信2 という時期もあったのに、今は、通信生が通学生を下回っている状況である。

 このままでは、通信教育部の採算が合わなくなり学費の値上げとか募集の打ち切りにならないかとか心配である。

『俳句界』1月号を読んで2010/12/27 23:54

 酒に酔うと本屋をさまよい歩き、金がないのに、つまらない本を買ってしまう悪い癖がある。

 『俳句界』1月号である。

 今月は、「俳句論」の特集である。佛大の通信大学院で、ご一緒した上野一孝先生も「俺の俳句論を聞け」ということで、議論好きな先生らしい記事が肖像写真月で掲載されている。

 僕にとっては、「俳句って議論必要なのかよ。」ということを議論したいようなしたくないような。

 俳句って、結局、好き勝手に詠んで、精々、句会の時に論評すればよいのだと思っている。

 俳句王国に稔典先生が出ているので、稔典先生のファンの母親とみていると、句会というのは、点数がつくようだけれど、1点当たり、千円ずつ賭けたら面白いかも。

 等々罰当たりなことをいうが、江戸時代の句会って、それに近いものだったらしい。胴元(主催者)がいて、勝ち負けを決める。

 ウチの先祖もこうした道楽をしていたとみえて、柿本人麻呂像が伝わっている。

 連句の会では、人麻呂像を前において、勝負をやるのだそうだ。

 話が横道にそれてしまったが、俳句名評論が掲載されており、まぁ、「近代俳句史」なるものが、学問的に成立するとすれば、必携の論文が正岡子規から金子兜太、高柳重信等まで挙げられている。

 一番有名なのは、やはり、桑原武夫の「俳句第二芸術論」であろうか。

 「稔典先生の俳句教室」にも書かれているが、この「芸術」という言葉がくせ者である。

 結局、明治以降、西欧から何もかも輸入した日本。文学の近代化(実は、欧米の猿まねに過ぎない)を図った日本。文学、美術の評論を行うに当たって西欧の「芸術論」をそのまま取り入れており、ブツゾウとかそういったものにも岡倉天心当たりが、西欧に芸術論の観点から、廃仏毀釈の魔手からブツゾウ達を救ったのは良いとしても、それ以外は、まさに猿まねである。


 大体、西欧においても、「芸術」という概念は、「近代的な自我の形成」、すなわち、宗教とか封建的な束縛からの個性の開放によって、新しい理想像を追求する規範として、19世紀になってようやく「芸術論」というのが起きてくる。

 しかし、その「芸術」というのが、結局は、キリスト教の「愛」から出発しているので、

 愛→真・善・美→理想→芸術となり、この「愛」は、中世に遡ると、キリスト教の人間愛の実践に基づく。

 つまり、大乗仏教における六波羅蜜に近いような理想論、それが芸術の本質である。

 そのような価値観が醸成される様な基礎的な土壌は、日本文化の根底にはまるで存在していない。

 桑原の時代、比較文化論の芽生え的なものは、一部の文芸評論にみられるが、その歴史的な背景を含めた包括的な価値判断の手法、つまり、「比較文化史論」が成立していない時代だったので、こんなに的外れな議論、例えば、芭蕉は、第一芸術で、現代俳句は、第二芸術だという馬鹿げた判断が起こるのだと思う。

 江戸時代から続いてきた俳諧は、結局は、遊戯である。日本の文学や芸能、工芸には、西洋の「芸術」や「美学」などという考え方等、存在せず、西洋かぶれになってから、その様な価値判断が起こって来たので、ナンセンスである。

 俳句は、その「つくりかた」が面白ければ、それで良いのだと思う。芸術だとかどうだとかいうよりも、言葉の組み立て方を楽しむ文芸で、この芸は、「藝」であり、西洋的な理想論等もない。

 正岡子規の「写生」も西洋のリアリズムとかとは離れた、むしろ、北斎の漫画にみられる様な表現の面白さを追求したものに他ならない。

 この事は、例えば、源氏物語や近松浄瑠璃等の研究にも西洋かぶれした文芸評論、つまり、「芸術」の立場から作品を論じようとする姿勢が未だにも、キリスト教系の大学の先生にみられることで、日本文学の研究に西洋文学の研究法を導入しようとすること自体が、間違えで、全く、違う、文明・文化の出来事なのだと思う。

 あのリヒャルト・ワーグナーが、心臓発作を起こして、死のうとした、最後に原稿に書き残した言葉は、「愛、それは死」であるが、これは、キリスト教美学に基づく芸術理想論では、「愛」が「死」(犠牲)によって浄化される過程を描くこと、まさに、それが、西洋の「芸術」ということになるのだろうか。

 ドナルド・キーンの日本文学史論で、近松の曾根崎心中を取りあげたものがあるが、まさに、西洋的な「芸術観」でみれば、心中の美学は、まさに、芸術の理想である「愛、それは死」に近い。

 この点について、以前、長友千代治先生が、「ドナルド・キーンみたいな程度の低い奴の評論等は、学問研究に値しない。」と酷評された。

 当時、僕は、江戸文学の研究において、やはり西洋的な「芸術論」にとらわれていたのか、ドナルド・キーンの評論を引用したが、ボロッかすに酷評された。その後、長友先生にお目にかかった時、「F君、ドナルド・キーンが来たよ。」と馬鹿にした様にからかわれたものだ。

 近松の浄瑠璃は、結局、そんな西洋的な「愛と死の犠牲」の芸術表現を目指したものではない。テレビのワイドショーの様に、好奇な心中事件を興業収入が挙がることを大きな目的として、取りあげたに過ぎない。

 「俳句」もそうで、芸術的な表現云々よりも、座の文芸の面白さということで、その楽しみにネタに景事を素材に、折節の言葉でまとめてその機知をお互いに評して楽しむゲームに過ぎないのだと思う。

 こんな風につまらない評論ばかりだ。

 但し、辻桃子先生の「つながれて秋のボートになりにけり」という句が加藤先生の評論に取りあげられていたが、「つながれて春のボートになりにけり」とどう違うのか、桑原先生の「芸術論」をツールとして、分析・評論しても区別することは出来ないだろう。

 つまり、そのような区別は、キリスト教を根幹とした「西洋美学、芸術論」では、なし得ないだと思う。

佛大通信教育部の紹介ビデオ2010/12/25 16:22

佛大通信教育部の紹介ビデオが出来た。

http://media.bukkyo-u.ac.jp/ext/tushin-net01.wmv

なかなか良いビデオだと思う。
もっと前から出来ていたらと思う。これで学生さんが増えてくれたら良い。

A先生が、先日、僕がブログに書いた迦瑠羅と不動明王像についてお話されている映像が印象的だった。
http://fry.asablo.jp/blog/2010/11/25/5537761

少しだけ霊鳥としての迦瑠羅のお話をされている。

今時、灯油を買っているのは、ウチだけ2010/12/21 21:19

 今日の天気予報は、当たってしまって月食がみられず、誠に残念であった。

 しかし、気象庁の中長期予報だと、今年は、寒い冬だというが、12月に入って比較的暖かい日が多い。去年の今頃は、かなり寒かった。

 夜になると、今居る四畳半の和室もセラミックファンヒーターでは、耐えられない程、昨年は、寒かったが、「弱」600Wにしても十分。

 石油ファンヒーターも2階の居間にしている六畳や,ダイニングの横にある浴室に入る時には、つけているが、灯油の減りが遅い。

 今日は、灯油の配達の日だったが、ポリタンク1個目も半分以上が残っているのでパス。

 昨年だったら、一週間では間に合わない程、灯油が減った。朝は、さすがに室内でも2~3℃の時もあるが、昨年は、零度以下(部屋の中)になった。息も室内で白かったが、今年は、そんなこともない。

 佛大の気象観測データをみても、DECとJANを比較したら判る様に、3~4℃は、昨年の今頃は低かった。


 嬉しい限りである。でも、クリスマス以降は寒くなるという。実家に帰るとご馳走があるかと言えば、そうでもないので、こちらに居るつもり。

 ところで、この通り(おうぶの谷底)にある家で、今時、灯油を買っているのは、ウチだけで、近所の人から嫌な目でみられる。

 火事とか出されたら、嫌だなということだろう。1階の音楽室のエアコンは、暖房も使えるが、電気代が高いので殆ど使用していない。やはり、石油ファンヒータが一番、安上がりである。

 臭い匂いがたまに傷。また、シュポシュポポンプを使用しているのも自分だけのようだ。電器式のがあるそうだが、どこに販売されているのだろうか。

五味は、○○○だから、こんな馬鹿でかい音で聴きよるんか2010/12/19 22:53

 炬燵に入ってクラシック音楽等を聴くのが楽しい季節になった。

 特にウィーンフィルでカールベームのシューベルトとかモーツァルトのシンフォニーが好き。

 今日は、シューベルトの交響曲第5番を聴いた。この曲がシューベルトの交響曲で一番好き。一番嫌いなのが、あのザ・グレート(長いだけの様な気がする。)

 装置は、K先生のとは比べものにならない「貧困コンポ」である。

 12年前に初めて制作したエレキットのTU870は、良い音がしている。ボリウムにガリが出たので交換したが、基盤に載せるタイプのボリウムなので、アルプス電気等を捜したが、基盤の穴に合うものがなかったので、基盤に電線を這わしてつけている。ついでもツマミも交換した。

 このアンプキットはシャブリ尽くした感じ。回路図もあったので、全く、回路でデッドコピーしてタンゴのトランスで作り直したのもある。トランスがタンゴに換わると,さすがにレンジが伸びるから不思議。

http://www.asahi-net.or.jp/~ZZ2T-FRY/6bm8.htm


 右は、真空管式CDプレイヤーで、これもエレキットのもの。最初に販売されたもの。音の方は、真空管を使っている割りには,音が固い。少しでも柔らかい音を出させる為に、12AU7Aをオールド品に交換したいと思っている。

 右は、先日、ヤフオクで5千円で落札した、パイオニアのエッジレススピーカー。

 エッジレススピーカーは、この会社幾つか販売しており、管球王国にも「球向き」と紹介されていたが、実際、自然な音がして良い。但し、中音域にややエコーがかかった様な音(つまり音像がボヤケ気味)になるのが、気になる。ボーカル等は良いが、器楽では、やや中抜け感にもつながる。低音は凄くなる。ソフトドームが潰れていたので、安かった。

 何時も不思議に思うのは、ヨドバシとかの展示品でもソフトドームが潰れたのをみかけるが、あれをどうしても潰したくなる人っているのね。

 これもガムテープとか粘着力のあるテープで窪みに何か尖った棒で擦り擦りして、くっつけてから、ボチッと引っ張る様にしていると、徐々に元通りになる。

 いずれにしても、こんな貧弱なシステムでも十分に楽しめるので、高価なシステムを買う金があったら、CDとかソフトを買ったり、実際の演奏会等に出かけたりした方が、どっかの先生よりも知的だと思いますが。

 この先生は、部屋全体をエンクロージャーにして、80㎝超低音ウーハーを入れているというが、いずれ、コンクリートホーンへと進化を遂げるかも。

 そうなると五味康祐の『オーディオ遍歴』という新潮文庫を読んだことが想い出される。

http://toyovax.sakura.ne.jp/audio/tannoy.htm

 高城重躬というエライ先生が勧めたんでコンクリートホーンにしたのだが、巨大な噴火口の様なホーンの入り口から空気の様に迫ってくる超低音に感動。まるでバイロイトのオーケストラボックスから上がってくる音の様と最初は思っていたのだが、こういった超低音、大型のホーンやスピーカーから聞こえてくる音は、「実体感」がない。

 小林秀雄が五味の家に来て、「五味は、○○○だから、こんな馬鹿でかい音で聴きよるんか。」といったそう。

 小林がオーディオ談義しているSP録音を聴いたことがあるが、この人の毒舌ぶりは凄い。

 そんな話は別にして、マルチアンプシステムで別々のシステムから音が出てくると、例えば、1人のソリストが数人別々の楽器を演奏している様で、なじめないということで、タンノイのオートグラフに替えたという文章がある。

 僕もそう思う。マルチアンプ・スピーカーのシステムは、まだ、ネットワークならば、救いようがあるが、チャンネルデバイダーを介して、別々のパワーアンプで、1個の楽器音が再生された場合、およそ実体感の無い、不気味な音に聞こえる。

 また、マルチスピーカーにネットワークを介しても、結局、このネットワークというのが、交流理論を学んだ人は、判ると思うが、アスペクトが狂ってしまうので、正確な音の再生は、難しい。

 だから、1階の部屋で、アナログ専用のシステムに使用しているSE-120が、ロクハン1本で、これがベストだと思う。

貧乏から貧困へ2010/12/18 15:02


「貧乏」という言葉には定義がない。つまり、主観的な「言葉」であろう。年収1500万円以上のサラリーマンが、「こんなに貧乏なのに税金控除がなくなるなんて。」と言っていても間違いではないわけ。


一方、社会学では、「貧困」については、生活分析から定義づけがある。そこには、「最低生活水準」というのを経済、文化、教育、医療その他諸々のジャンルから定義づけしていく。

「生活保護」は、「最低生活水準」を定めており、それが達成出来ない所得しか無い対象者に支援を行う制度である。しかし、「最低生活水準」については、法的な観点、あるいは行政指針、更には、生活者、被支援者によって異なってくるだろう。

いずれにしても「貧困」は、客観的に定義出来る状態である。

うちの会社、更に色々と他の社員の話を聞いて愕然とした知らない間に、健康保険とか厚生年金を外された人もいるという。

そういえば、ある人の離職票がテーブルに置いてあった。その人は、今も社員として勤務しているが、会社が折半の保険料を払うことが出来なくなったみたい。それが先月のことで、私には知らされていないが、何か、財政状態を急に悪くする様なことが起こったのだろうか。

「類は友を呼ぶ」ということで、貧困業界で仕事をしていると、その得意先も貧困なので、倒産等で売掛金の回収が出来ないとか、そういったことも起こるのだろう。

僕は家で仕事をしているので、何が起こったのかしれないが、そのうち、自分の保険も外されるだろう。そうなると、まさに「貧乏」から「貧困」への移行である。

身体に異常が発見された今、医療保険から外されることは大変つらい。CMでやっていたが、癌で入院すれば、1日2万かかるという。つまり、ホテルのスウィートに2週間泊まり続ける様な出費である。それだけ、貯金を使い果たしてしまう。

こんなに困窮しているのに、馬鹿な私は、佛大に月々2500円の寄付金を払い続けている。これもおかしな話である。

一方で、好きな学問をやりたい放題、高級オーディオシステムを聞き放題、30畳の広大な書庫に万巻の書という贅沢三昧が可能な給与を教員に支払っている大学にどうして、僕の様な貧者がなけなしの収入から寄付金を支払い続ければならないのだろうか。

寄付金を申し込んだ自分の愚かさを通り越して、腹が立つ。でも寄付金は、税金とは違って本人の意志なので、「喜捨」として考えれば、それで良いかも。

信じられへん!! あの黒田先生がクリスキットハイパーユーザーなんて2010/12/17 21:41

 クリスキットと言えば、桝谷英哉先生の開発したトランジスターアンプ及びスピーカーのシステムである。

 アナログ時代は、MARK8までのプリアンプには、イコライザーアンプが搭載されており、その透明度が高く、ハイフィディリティの音質には、定評があった。

 CD時代には、MARK8Dに変わって、イコライザーアンプの部分が外された。音質的には、それ程、大きな変化はみられない素直な再生特性を持つ。

 パワーアンプは、P35-Ⅲである。これも大きな特色は持たない。残念ながら、僕が持っているのは、後期モデルなので、トランジスターが、当時、安定供給可能な型番に変更されて、かなり音質自体が変わってしまったと聞いている。

 実際の周波数測定を私が行ったデータがあるが、平坦な再生特性なので、安心して使えるし、飽きも来にくい良質なセットだと思う。

http://fry.asablo.jp/blog/2008/12/25/4027163

 パーツセット(完成を保証するキットではない。あくまでも必要な部品をそろえたという建前での販売されていた。)

 電気用品取締法等の制約があり、この方法での販売手法を採られたのだと思う。

 今、発売元の神戸のクリスコーポレーション自体が営業を停止しており、キットの販売は行われていない。従って、このキットを入手したい人は、ヤフーオークションや中古品で入手する以外に方法はない。

 発売が中止されてからそろそろコンデンサ(電解)等の交換時期に来ているが、交換パーツを手に入れることは、難しいので、代替品に置き換えるしかないようだ。

 私も一時期、入れ込んだ時期があって、ホーンスピーカーやチャンネルデバイダー等もそろえてやったが、音質的には、SE-120の120リットル密閉箱とP-610DBの組み合わせがベストと判断して、このシステムしばらく聞き込んでいた。

 その後は、残念ながら、騒音クレーム等が来て、より出力の低い管球アンプ(オリジナル自作回路)に置き換えて、おうぶの家で聞いている。

 従ってクリスキットは、スピーカーボックスだけという状態。アンプ自体は、プリ2台、チャンネルデバイダー1台、パワー2台を保有しているが、休眠状態になってしまっている。

 クリスコーポレーションが操業を停止して、クリスキットの信者を守り続けている殊勝な人は、減ってしまって、それらのシステムがオークションで販売されている。

 ところがというか、悪夢というか、信じられないことが起こった。

 なんと、佛教大学の通信大学院でお世話になった黒田彰先生が、熱心なクリスキットの信者さんであったのだ。驚き。それも恐らく、国内で最高のクリスキットのシステムを現役で最高の環境で運用されている。

 黒田先生は、中世日本文学のご専攻で、同じ関大の同窓生なので、何度もお目にかかったのに、今回、初めて、そのことを知ったのが、佛教大学四条センターの機関誌。

 写真をみるかぎり、ウーハーのシステムは、クリスキットのオリジナル密閉箱ではなくなっているが、アンプ類は、クリスキットを恐らく左右独立で使用されておられるとみえて、チャンネルデバイダーから、アンプまで、通常の倍の数を使用されている。

 あの今の世にも珍しい篤学、学問一筋にやっていらっしゃると思った黒田先生がオーディオマニア、それも、「日本最強のクリスキット愛好者」なんて、悪夢かしら、およそ平家物語や孝子伝の世界とかけ離れている。

 夢であったら覚めて欲しいが、身近な親族から、「隠れキリシタン」あるいは、実は、「アンヌ君、僕は、ウルトラマンなんだ。」と打ち明けられた科学特捜隊の隊員の衝撃に匹敵する。

 でもシステムの音を是非、聞かせていただきたい。

 もっと衝撃的だったのは、黒田先生は、ワグネリアンだったのだ。

 ワグネリアンと平家物語剣巻との関連性って、実は、大ありなんですよ。

「造る自分」2010/12/09 23:00

『坪内稔典の俳句の授業』(黎明書房)を京都烏丸のじゅんく堂で買った。電車の中で、読んでいたが、第3章の「現代俳句の世界」が面白いというか納得。

飯田蛇笏や飯田龍太、森澄雄、金子兜太等々お歴々の登場、非定型とか前衛俳句等もでてくる。

つまり、大正期から昭和時代に至るまでの近現代俳句史の世界である。

季語や定型の破壊は,何故、行われたのか、そして、その限界とは、そういった問題について、稔典先生なりの考え方で書かれている。

ここで印象的なのは、稔典先生の場合は、子規の写生の忠実な蹈襲者としての辻桃子先生等に比べて、「写生」ということについて一歩、下がって客観的にみている点である。

つまり、俳句づくりは、「写生」そのものではなくて、あくまでも「写生」は、創作の手法の1つであること、金子の初期の前衛俳句は、何故、その様な表現を生んだのか。或いは、同時代の社会派の俳句とは。

そういった問題点に触れており、興味深い。

しかし、何故、金子兜太が、その後、伝統的な俳句に戻り、現代の俳句界も、部外者からみれば、後退・退化とも言える、定型表現の世界に戻ってしまったのかということである。

これについても結論は書かれていない。但し、ヒントになるものはある。
それが、「造る自分」ということで、社会という中で、自分を絶対的存在として、切り離して考えるのか、それとも、融合して存在として考えるのかという点である。

現代の俳句という文芸は、江戸時代の昔に帰ったというか、句会の中での連衆文芸としての集団性をみせる社会的遊戯の1種となっている。つまり、こうした中では、表現理解の共有、つまり表現の普遍性ということが1つの前提条件になってしまうのである。

「造る自分」を社会と切り離した場合には、「同人誌」というメディア媒体を通じて読者、俳句仲間との交流があるが、今の同人というのは、あくまでも句会での直接交流が中心で、同人誌は、あくまでも、「機関誌」としての役割になっているのである。

そうなると、表現は、不定形とか前衛とかそういったものは成り立たなくなっている。

ひらったくいえば、「変わり者」は、排除されるのである。

こうした流れ、現代のクラシック音楽の流れと類似している。つまり、古典派、ロマン派、後期ロマン、ネオロマン、現代、前衛という流れは、実に俳諧・俳句の歴史に非常に類似している。

特に20世紀に入るとクラシック音楽は、王侯貴族の遊戯的側面から離れて、社会と切り離された純粋な自己表現の場となり、普遍性よりも、絶対的表現価値を求める動きに変化していった。

その行き着くところが、1950年~1960年代のジョン・ケージやシュトックハウゼン、あるいは、リゲティとかいった連中で、彼らの音楽は、完全に孤立しており、超俗的であった。しかし、結局は、廃れていったのである。

クラシック音楽の場合は、再び聴衆との交流、社会と融合した自己表現の世界に戻った要因は、音楽メディアの発達であった。つまり、新たな音楽商業主義、メディア融合により、独立的な個性の表現よりも、一般に理解しやすい表現、普遍性が求められる様になっていった。

こうした、調整、あるいはリズムさえも破壊の限りを尽くし、最後には、ジョンケージの様に「音の実在」さえも捨て去り、時間の経過のみが音楽とする「禅」の様な世界から、誰もが理解出来る調性、リズム、歌、和音等の音楽に回帰してしまったのである。

結局、こうした流れの中で、「俳句」、「音楽」も本来の芸術ではなくて、大衆文芸・芸術、第2芸術といった見方もあるが、それは、社会性と芸術・文芸の連携を肯定するか否定するかの立場に違いに他ならない。

 松ぼっくりジョンケージを気取りたる

☆☆☆
今日の俳句、何かエロイイメージが浮かんだので、俳句らしきものを造ってみた。(またまた夢の世界である。)

氷層の緑青蹴散らす冬氷河
ヒーターで色香増したる網タイツ
バニー嬢ワイン注ぐ手寒さ知る
瑠璃色の爪暖炉求めて動くなり
天道虫お日様捜す冬の朝
黄金の隈取りの雲霜降らす
鬼ごっこ鵯(ひよ)の加勢で負けにけり

また、こんな夢をみた。2010/12/05 14:21

 また、こんな夢をみた。

 ある沙門が僕の前に現れて、次の様な説明を繰りかえす。

 場面といえば、説一切有部の考え方をしていまうが、「諸行無常」が、何故、そうなるのかという説明づけについて、説一切有部では、現象(人間の感覚・意識で捉えられる対象)とは、刹那単位で点滅を繰りかえすフィルムの1コマの様なものだと説明している。

 瞬間的に止滅するので、人が意識している時には、もうその現象は存在しないのである。この無数の繰り返しが、私達が、諸行無常として捉えているものである。

 ブッダの教えによると、「我」は存在しないという。「我」は、アートマンと呼ばれるもので、突き詰めれば、1つの方向性を持った現象の集合体である。

 それは、例えば、生前に善行を行ったかそうでないかで、極楽か地獄か、あるいは、畜生の世界に生まれ変わる様な輪廻を続けるかの道筋が決定されることである。

 もし、その様な方向付けが可能であるとすれば、現象ユニット(認識される)間を関係づける因果ユニット(人には認識出来ない)が1つの方向性を持って動いていることになる。
 
 ブッダは、アートマンを否定しているのだから、1枚・1枚の現象ユニットを結合させている因果ユニットは、バインダーの様な存在だが、これは、個々の現象ユニットを接着しているだけで、全体としての方向の位置づけはない。

 つまり、ニューラルネットワークの様な連鎖によって、現象は進行していくと認識されている。

 つまり、アートマンは存在し得ないのである。

 龍樹は、去るモノもなく、止まるモノもなく、来るモノもないといっているが、これは、現象ユニットも人に認識されている時には、止滅しているので、実体としての存在はないとしている。

 人に認識されない存在はないという考え方ならば、たしかに、虚であるが、論理自体の存在を否定すれば、その論理の存在を否定する人(私)も対象も何かも存在し得ないというパラドックスに陥ってしまう。
 
 ブッダは、そこまでは、言い切っていないと思う。現象は、その瞬間瞬間の因果関係によって、恣意的に移り変わっていくといっているのみ。

 つまり、後世の仏教的な源氏物語の理解の根底にある宿世・因果(この場合は、マクロとしての「我」と連動する因果)は、存在せず、私達は、未来を如何様にも変えることが出来る筈である。

 従って、過去へのトラウマ、現在への不満、未来への不安を考える必要はないということを悟り、極端な因果につながる様な行動を控えることによって、止滅する現象さえもが、安定した状態に保たれる中道の生き方を奨励している訳だと思う。

 だから、修行という概念は、ブッダにない。しかし、中道の生活を行う為の生活環境を維持することには意義があり、教団・サンガが形成された。

 こうしたことを大乗仏教の立場からみれば、自ら修行して自ら悟りを開くという見方になるが、実際は、そうではないのだということが、部派仏教について考えると判る。

 
 また、僕は、上下・左右が無限に広がる空間に沙門に手を引かれてつれだされた。

 よく見ると、無数のホースの様なものが見える。それは、血管の様に不気味に曲がったり、不規則な動きをしている。

 そう、ここは4次元世界なので、現象ユニットとの関連が視覚化されているのである。ある現象の管は、別の現象の管と交わっている。これは、新たな現象間の「縁」が生じたことを意味している。

 沙門は言った。

 「君は、物理の時間に習わなかっただろうか。曲線、曲面は、無限の時空間を旅した後で、再び元の出発地点に戻ってきて、また、出発を繰りかえす、エバーループなんだ。」

 「しかし、その様なものは、仮定の世界だけであって、この不合理な拡散的な世界には、存在しない。曲線・曲面というのは、一定の特性を持った「我」なんである。そう、だから、「我」なんてものは、この世界には、存在し得ないのだ。」

 大乗の場合は、まさに「我」の宗教である。この「我」は、善と救済の特性を持っていると仮定しているが、その仮定自体に無理がある。

 よく、部派仏教を「小乗仏教」と蔑視して、「彼らは、自分の解脱・成仏のみを考えて修行している。」と軽蔑しているが、本来の原始仏教には、「修行」という行為は存在せず、ただ、論理的・合理的に暮らすということである。

 ブッダは、修行を本来否定されていることは、「仏伝」として、大乗仏教の思想でも理解されているので、本当は、修行を通じて、教団を維持していく方向性にある集団にとっては、まことに都合が悪い。

 しかし、菩薩業として、一切利他(自分以外の全ての衆生の仏性を肯定し、解脱に導く)の方向性を見いだしていくという方便で修行活動を肯定する様になっていった。

 しかし、それが新たな矛盾を産み、輪廻転生といった本来ブッダを否定した考え方が定着し、仏教は、非合理的側面を色濃くしていく。

 佛教大学の仏教学部長の松田先生は、「仏教の歴史とは、本来のブッダの教えを否定していく過程の繰り返しに他ならない。」とおっしゃられた。

 僕もその通りだと思った。

 また、ブッダは、「非インド化」を前提に、インターナショナルな教えとして仏教を考えつかれた。「我」とか「輪廻・転生」、「難行苦行」というインドの古代宗教が持つ特性を否定する点から出発されたのだとも言われている。

 これもその通りだと思う。

 しかし、ブッダによれば、「万事、諸行無常」であるので、当然、言葉(理論)・思想・教義自体も年月を経て変化し、滅びていくのは必然であると言われている。だから、「仏教」の進化の最終仮定で、チベット密教の様な、本来のブッダの教えと全くあべこべのことをやっていく宗教に変化しても、これも必然であり、広い視点からみれば、これも、「釈迦の教え」ということになっていくのだと思う。

 以上は、僕が夢にみた屁理屈である。だから、正当な考え方ではないので、ご容赦いだたきたい。

昨晩の夢の中で、こんな研究構想を思いついた2010/12/05 10:18

 昨晩の夢の中で、こんな研究構想を思いついたので、早速、メモしたものをこのブログで紹介してみる。
 支離滅裂であるが、僕が考えているのは、こんな風。

 私の年齢は、既に50歳を過ぎて、老齢期に入っている。源氏物語等の平安朝では、皇族や貴族でも50歳と言えば、天寿をまっとうしたと言える年齢である。源氏物語の若菜下や幻巻等を読んでいても、その様な記述に行き当たる。

 そうした中で、後、数ヶ月で、私の身辺の経済的な命運も尽きかけている状況なので、これまで研究して来たことをまとめてみようかと思っている。

 ①修士論文「光源氏の言葉」の改訂

  修士論文「光源氏の言葉」は、その研究手法として、統計的な分析手法を用いようとしたが、これは、本来、これは、別の研究ジャンルに属するので、「統計的解析で把握出来る源氏物語の構造」という論文に分けようとと思う。そうして、場面中における発話表現を光源氏と他の登場人物とで、幾つかの要素を設定して、それらを分析、比較する作業を中心に、場面における「光源氏の言葉」と発話表現について考察した論文に書き改めようと思う。

 ②新論文「源氏物語の構造研究の新展開 
             ユニットとしての場面展開の特性について」

 ①を踏まえて、新論文を考えたのが、このテーマである。この論文の基礎研究として、以前、学位論文として制作した「源氏物語の絵画化の手法」の内容を更に発展させて、この論文のもう1本の柱とする計画である。

 これまで、拙論「光源氏の言葉」において、源氏物語の発話表現と場面の構造を分析し、この物語のストーリーは、幾つかの場面の組合せによって、展開していくことについての検証を試みた。

 その場面を成立させている要素として、視覚的表現があり、それに関連して、発話表現等の付随的な要素が配置されている。

 一方、場面表現の視覚性に注目されば、物語絵巻という絵画化メディアにおいて、映像と音読(音声・発話表現)の密接な関わりについても注目されるに至った。

 絵巻物は、画像(映像化)されたストーリーユニットの組合せで、享受者に物語の進行を理解させる機能を持っている。ある意味、源氏物語の構想の時点で、そういった視覚化されたストーリーユニットの組合せで構想された可能性もあり得るということ。つまり、その絵巻物の画面・場面の組合せによっては、違った物語の展開を原作者は、楽しんでおり、その中で、最も効果的な組合せを選択しているのではないかとも考えられるのである。

 つまり、作者、紫式部は平安朝における偉大なゲーム作家でありえたのかも知れないということ。

 こうした研究は、現在のゲームメディアや、今後、考えられるこれまで誰もが考えもつかなかった新ジャンルの創造につながると考えている。

 それは、ようやくIPAD等のメディアツールが登場したことで可能になる。
  
 現代のメディア技術の発展による最大の恩恵は、その「可変性」にある。

 つまり、これまでのメディア享受の形態は、その映像や音声、テキストデータ処理技術の発達によって、自由にストーリーユニットの組合せを楽しむことが出来る様になる訳。

 現代のフィクションの作家は、新時代が到来した中で、新らたな作業を課せられる様になるだろう。

 作家は、予め登場人物や場面設定等のデザインを行い、プラットフォーム的なストーリー環境を読者・享受者に提供(既存型のメディア)し、その後、ストーリーユニットの組合せの選択は、享受者に委ねられて、作品自体で自在な変幻と遂げていく。こんな風にペーパーメディアでは、あり得ない様な、作品を作り上げることが可能となっている。

 20世紀の終わり頃から発生、発展を続け、現在、その先鞭・皓歯となっているのが、いくつかロールプレイゲームである。つまり、これは、享受者(ゲーマー)の意志で、場面の組合せを選択肢、更に画面の展開と共にヒロインの性質や能力も連動して変化していくシステムを楽しめる様になっている。

 現在、小説と言えば、ペーパーメディアが中心であり、読者は、固定化されたストーリーを享受する他はないが、IPAD等の電子メディアでは、一応、基本となる場面、映像、文章の組合せが準備されており、定型的な楽しみ方も出来るし、あるいは、読者の趣味による選択、あるいは、偶然性(シャッフリング)によって、毎回、違った作品展開を楽しくことが出来る様になるのではないだろうか。

 つまり、1つの作品でありながら、1つとして同じものはない作品を作ることが出来る様になる。

 そうした中で、一番重要になってくるのが、源氏物語の研究で取りあげた様な精緻な場面設計と効果的な表現である。まさに、これは、現代の仮想空間技術と融合してくる。享受者は、別に文章を読む必要はないのである。ゴーグルを被り、アパターとして、映像空間に浸透していく、そうして、様々な体験を行う。その行為が、作品享受として成立する様になるし、仮想空間のオンライン化を図れば、複数の参加者で、この作品を楽しむことが出来る。


 僕が住宅に興味を持っているのは、まさに現代人の生活空間・人生の舞台としての「家」なのである。

 源氏物語絵巻や、物語本文にも精緻な家屋構造の描写が登場する。

 こうしてみると、源氏物語って凄いと思う。遙か10世紀の時空・年月を遡って、現代のニューメディアの世界を予見していたかのようだ。