皇国史観と防御ネット・バリアー2008/12/17 13:26

 佛大の教授先生のブログで一番、充実しているというか、殆ど毎日の様に更新されているのが斎藤英喜先生の日記「日記抄」である。
http://www5.diary.ne.jp/user/504046/
 最近では、「皇国史観」というテーマで書かれておられるが、アジア太平洋先生のプロパとして利用された「皇国史観」と北畠親房以来の伝統的な「皇国史観」とどう異なるのか、八紘一宇の由来等、結構、知らなかったことも書き込まれていて参考になった。
 私個人の意見としては、特に文化的領域に深く入り込んでいる人は、あんまり、昭和史にも関わる様な政治的な問題にも絡んでくる問題に関わらない方が良いと思う。
 文化現象を色眼鏡をかけることなし、自分の直感を信じて、まず、感じてから分析していく姿勢の方が発展があると思う。
 佛教大学の学風で何時も違和感があるのが、この点である。なんでもかんでも「先行研究」で先日の国文学会の院生の発表でも「初めに自分ありき」ではなくて、興味を持ったテーマについて先行研究をまずまとめて、それを抄訳・吸収する技術はたしかに必要だが、それは、元来、自分じしんの研究・学問を発展させるのにはなんら役に立たないと思う。
 先行研究や思想等の偏見をまず離れて対照と対峙することの大切である。そこで感じた直感的な疑問や問題点を分析し得た時点で、ようやく先行研究や同時代、あるいは、指導教員、同僚の意見を参考することが出来て生きてくるのだと思う。
 また、12月8日の「研究の途上に立ち会う」では、徳田和夫の「中世神話論の可能性」について取りあげているが、中世日本紀の位置づけを国文学ではなくて、文化論の見方から、どの様な位置づけとなっているのかが興味深かった。
 但し、私は、作成中の修士論文について、まだ、個々の方向性が固まらないうちに、発表して討論することは嫌いである。
 やはり、草稿というか最初の原形が出来るまでは、自分自身を信じて進むべきだと思う。有能な指導教官や同僚であれば、良いが、逆に足を引っ張られる可能性がある。草稿のメインの部分が完成してから、この様なディベート的な討論に望む事は有効である。自分の弱点のどこかが攻撃されるのかを体験することが出来て、「防御ネット・バリアー」対策をすることが出来るからだ。
 しかし、近年の人文学系統の学問の閉塞性を産み出しているのは、この様な非建設的な攻撃と応酬が、学問の進歩に結びついていない点である。そうなれば、派閥・徒党を組む以外になく、結局、学問の場が、衆愚の場と化してしまう。
 法然上人が言われる還愚の精神とは異なる、「鎧を纏った愚者」であり、何ら建設性はない。

 斎藤先生のブログは大変面白いので、ここに定期的に感想・批評などを載せていくことにしよう。

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