北海道の白滝という黒曜石の大産地 ― 2010/10/11 22:33
先日の出張の帰路の帯広から南千歳間を乗車した特急の中で置いてあったJR北海道の車内誌「THE JRHokkaido」10月号に「特集 旧石器時代のパワーストーン、黒曜石」という記事を発見。
黒曜石は、旧石器時代を中心に使用された黒色のガラス質の鋭利な石器で、大きな槍の先の部分から小さなスクレーパー(切削器)に至るまで、様々に加工して使用されていた。
黒曜石と言えば、長野県の和田峠等が有名だが、北海道にも黒曜石文化が栄えていた。
この雑誌記事では、北海道の白滝という黒曜石の大産地が紹介されている。白滝の黒曜石は、オホーツクを超えてアムール川流域まで伝播している程の名産地であった。
当時の工房の後の発掘調査では、細かな破片を復元して黒曜石の鏃がくりぬかれたマザーの部分の接合資料等が紹介されているし、尖頭器、彫器、削器、搔器、細石刃等の様々な種類とか、実勢に黒曜石が採石された露頭等の様子等、凄く専門的な内容が紹介されている。
この記事の取材に答えているのが、木村英明先生で、新泉社から『北の黒曜石の道』という本を出されている。それにしても旧石器時代の遺跡の茶褐色の土壌の上に鋭く黒光りする黒曜石の石器が幾つも姿を現している出土写真も掲載されており、ワクワクさせられる。
黒曜石は、旧石器時代を中心に使用された黒色のガラス質の鋭利な石器で、大きな槍の先の部分から小さなスクレーパー(切削器)に至るまで、様々に加工して使用されていた。
黒曜石と言えば、長野県の和田峠等が有名だが、北海道にも黒曜石文化が栄えていた。
この雑誌記事では、北海道の白滝という黒曜石の大産地が紹介されている。白滝の黒曜石は、オホーツクを超えてアムール川流域まで伝播している程の名産地であった。
当時の工房の後の発掘調査では、細かな破片を復元して黒曜石の鏃がくりぬかれたマザーの部分の接合資料等が紹介されているし、尖頭器、彫器、削器、搔器、細石刃等の様々な種類とか、実勢に黒曜石が採石された露頭等の様子等、凄く専門的な内容が紹介されている。
この記事の取材に答えているのが、木村英明先生で、新泉社から『北の黒曜石の道』という本を出されている。それにしても旧石器時代の遺跡の茶褐色の土壌の上に鋭く黒光りする黒曜石の石器が幾つも姿を現している出土写真も掲載されており、ワクワクさせられる。
卑弥呼の宮殿と桃の実・日本神話の世界とのつながり ― 2010/09/17 23:12
2千個超える“魔よけの果実”発見 奈良の纒向遺跡
纒向遺跡から出土した桃の種と籠=15日、奈良県桜井市東田(沢野貴信撮影) 邪馬台国の最有力候補地とされ、「女王・卑弥呼の宮殿」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)が確認された奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡から、全国最多となる2千個以上のモモの見つかった。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100917/acd1009171959002-n1.htm
恐らく、桃の実は魔よけといっても、死者の弔いの意味もあったのだろう。
古事記のイザナギ・イザナミの黄泉の国の神話は、卑弥呼の時代の祭祀を伝えている。
このことは、9月4日付の私のブログ記事「日本神話の『幽冥界』」に佛教大学の斉藤英喜先生の佛教大学四条センターでの講座のことを書いた中で、取り上げたことがらにつながってくる。
特に、黄泉の国から地上世界へと逃亡を図る時に追っ手を追い払うのに桃の実が活躍する件について、斉藤先生が、桃の実の魔除けとしての威力について説明されたのが、今、古代遺跡の発掘で、そっくり現代に蘇ったのである。
http://fry.asablo.jp/blog/2010/09/04/5330469
こうしてみると、日本神話、古事記やその他の伝承と考古学の実際の発掘成果との関係をみていくと、なかなか面白い古代世界のイメージができあがってくるのではないだろうか。
つまり、日本でもかのトロイア発見・発掘したシュリーマンのみた夢というか幻想が現実となることが可能なのである。
写真は、真福寺本の『古事記』写本の桃の実について記述された部分。
纒向遺跡から出土した桃の種と籠=15日、奈良県桜井市東田(沢野貴信撮影) 邪馬台国の最有力候補地とされ、「女王・卑弥呼の宮殿」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)が確認された奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡から、全国最多となる2千個以上のモモの見つかった。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100917/acd1009171959002-n1.htm
恐らく、桃の実は魔よけといっても、死者の弔いの意味もあったのだろう。
古事記のイザナギ・イザナミの黄泉の国の神話は、卑弥呼の時代の祭祀を伝えている。
このことは、9月4日付の私のブログ記事「日本神話の『幽冥界』」に佛教大学の斉藤英喜先生の佛教大学四条センターでの講座のことを書いた中で、取り上げたことがらにつながってくる。
特に、黄泉の国から地上世界へと逃亡を図る時に追っ手を追い払うのに桃の実が活躍する件について、斉藤先生が、桃の実の魔除けとしての威力について説明されたのが、今、古代遺跡の発掘で、そっくり現代に蘇ったのである。
http://fry.asablo.jp/blog/2010/09/04/5330469
こうしてみると、日本神話、古事記やその他の伝承と考古学の実際の発掘成果との関係をみていくと、なかなか面白い古代世界のイメージができあがってくるのではないだろうか。
つまり、日本でもかのトロイア発見・発掘したシュリーマンのみた夢というか幻想が現実となることが可能なのである。
写真は、真福寺本の『古事記』写本の桃の実について記述された部分。
ビショビショで届きましたぁ(トホホ) ― 2010/05/23 21:26
帰宅してみるとビショビショの郵便物が。
悲惨である。中には、郵便切手が入っているのに。なんで、こんな日に配達するのだろう。
幸い、防水フィルムでパックされていたので、濡れずに済んだ。
平城遷都1300年記念切手帳(ブックレット)である。表紙には、復元された大極殿が。
中身は、誕生仏、阿修羅や愛染明王、薬師如来像、天燈鬼、千手観音や日光菩薩、多聞天、伐折羅大将等の尊像に加えて、大極殿、春日大社等々。
届いたけれどもちっとも嬉しくない。
今日は、最悪の1日だった。
今日は、最悪の1日だった。
早く忘れたいです。
画像 左右逆でした。模造とかそういうのがあるので、こうしてあります。
画像 左右逆でした。模造とかそういうのがあるので、こうしてあります。
おうぶ神社探索 ― 2010/03/14 18:21
今週の日曜日は、前日に実家から戻っていたので、丸1日おうぶの家で過ごすことになり、暇つぶしに近所の探索に出かけることにした。
最初に出逢ったのは、杵宮神社。
祭神は、おそらく、天孫瓊々杵尊あるいは、枳根命と推定される。臼の上に杵を渡して岐尼神を迎えたというが、この様な伝承よりも、例えば、能勢町の森上にある岐尼神社が神宮皇后の新羅遠征に船材の杉を提供したのと同じ様に、朝廷に大型船用の船材・木材を提供した人達が、この地域
に暮らしており、それが杵宮神社としての祭神伝承につながったと思われる。
実際に境内には、大木が祭神としてしめ縄が張られて祀られている。比較的瀬戸内海に近く、しかも豊富な木材が伐採出来るおうぶの里は、大和朝廷の昔から、大陸遠征や海賊征伐に必要な大型船を建造する為に船材である木材を提供しており、そういた森林・木への信仰が現在まで伝わったものと考えられる。
次に神鉄有馬線にとってやや神戸側に下り、更に西側に亘ったところにある大歳神社及び小上神社を訪問。ここは、両方の神社が隣り合って鎮座されている。大歳神社の祭神は、大歳御祖神で、素戔嗚尊の子供で、同時に応神天皇をも祭神としている。建立は、平安時代中期、左側のちいさなお社は、小上神社で、祭神は、橘遠保であり、橘氏の祖である敏達天皇も祀られている。社殿は、1232年に建立され、古い建築様式を残している。平安時代中期の朝廷を震撼させた平将門の乱と藤原純友の乱の時代、橘遠保が、京の都から有馬街道を通って瀬戸内海に赴いた。既に瀬戸内沿岸は純友の支配下となっており、討伐軍は、六甲の裏山を通って瀬戸内に出る以外に方法はなかった。
艱難辛苦の既に橘遠保は、純友の討伐に成功するが、疲れ果てて、このおうぶの里で客死した。当時は、この様な鄙の地で果てた時、不吉であるとして百日の供養が終わるまでは、その地を離れることが出来なかった。この為、この事件を契機に橘氏がおうぶの里に住み着くようになり、平安時代には、橘氏領となったようだ。その後、橘氏が衰えた後は、朝廷の直轄地となった。
この様に特に小上神社は、「海の戦の神・海賊封じの神」として、船乗りに信仰されていくが、この間の阪神大震災の時に石灯籠が調査された時に、一ノ谷の戦勝祈願の為に源義経が奉納したことを示す「義経銘」が発見されたと説明されている。
しかし、どこまでが事実かは、これらの神社が鈴蘭台の団地開発の為に移設されたという経緯もあり、十分に調査・検証が必要だろう。
いずれにしても、古代のこの地域において、杵の宮神社、小上神社ともに、船の材料、海賊退治、航海の安全といった信仰を集めていたことは、事実であり、興味深い。
その地域の「地域文化」を調べるならば、まず、神社を調べようというのは正解であり、今日1日の神社探索で、古代におけるおうぶの地域について、いくらかのビジョンが見えてきたような気がする。
10.すべて人はかならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也 ― 2009/12/31 09:46
○さて、上にいへるごとく、二典の次には、万葉集をよく学ぶべし。みづからも、古風の歌をまなびてよむべし。すべて人はかならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也。歌をよまでは、古の世のくはしき意(こころ)、風雅のおもむきはしりがたし。
さて、これまで述べてきた様な古事記、日本書記の次には、万葉集をよく学ぶべきことだ。そうして、自分でも(万葉集の様な古代人の心を宿した)古風な歌を学びて詠んでみることだ。総て、人はかならず歌をよむべきもの(古今集の仮名序の様に)なる中にも、学問をする人間は、尚更、歌を詠まなくてはどうしようもない。歌を詠めなくて、どうして古き世の風雅の心を知ることが出来ようか。
○万葉の歌の中にても、やすらかに長高くのびらかなるすがたをならひてよむべし、又、長歌をもよむべし。
万葉集の歌の中では、安らかにのびのびとした歌風を学んで詠んでみなさい。また、長歌を詠んでみなさい。
現代の国文学の研究、古典の学修の中で、特に欠けているのは、こうした古代の作品の心を実践して自分でも和歌や物語を書くなどの創作活動を行うことである。折口信夫氏は、まさに、20世紀の研究者の中で、この宣長の教えを実践した数少ない人である。
折口氏の長歌も素晴らしい。かの『死者の書』は、小説として構想されたものよりも、宣長の教えそのままに、長歌を詠む過程で、その叙情性と叙事性を結合せしめ、イメージが小説として、結実したのだと思う。
現代では、万葉集の朗読、朗唱活動がこうした行いに結びついていると思われる。
佛教大学の田中みどり先生や深沢彩子先生達の朗読活動は、私たちの万葉集、いにしへ心を蘇らせてくれると同時に、古代文学の研究に、新たなインスピレーションを与えてくれているのだと思う。
さて、これまで述べてきた様な古事記、日本書記の次には、万葉集をよく学ぶべきことだ。そうして、自分でも(万葉集の様な古代人の心を宿した)古風な歌を学びて詠んでみることだ。総て、人はかならず歌をよむべきもの(古今集の仮名序の様に)なる中にも、学問をする人間は、尚更、歌を詠まなくてはどうしようもない。歌を詠めなくて、どうして古き世の風雅の心を知ることが出来ようか。
○万葉の歌の中にても、やすらかに長高くのびらかなるすがたをならひてよむべし、又、長歌をもよむべし。
万葉集の歌の中では、安らかにのびのびとした歌風を学んで詠んでみなさい。また、長歌を詠んでみなさい。
現代の国文学の研究、古典の学修の中で、特に欠けているのは、こうした古代の作品の心を実践して自分でも和歌や物語を書くなどの創作活動を行うことである。折口信夫氏は、まさに、20世紀の研究者の中で、この宣長の教えを実践した数少ない人である。
折口氏の長歌も素晴らしい。かの『死者の書』は、小説として構想されたものよりも、宣長の教えそのままに、長歌を詠む過程で、その叙情性と叙事性を結合せしめ、イメージが小説として、結実したのだと思う。
現代では、万葉集の朗読、朗唱活動がこうした行いに結びついていると思われる。
佛教大学の田中みどり先生や深沢彩子先生達の朗読活動は、私たちの万葉集、いにしへ心を蘇らせてくれると同時に、古代文学の研究に、新たなインスピレーションを与えてくれているのだと思う。
結局、それぞれのポリシーで、「元伊勢」の地がどこにあるかを、決めておけばよいのだと思う。 ― 2009/11/17 22:49
今日、京都三井ビルにある佛教大学四条センターで斎藤英喜先生の講演を聴く。
会場は、驚く程の満員で、先生の人気の高さは凄い。
テーマは、「京都に棲まうアマテラス」なかなか面白い内容だった。
中世・応仁の乱前後の京都は、疫病が流行った。戦乱と流行病を鎮める為に、伊勢の地からアマテラス大御神を祀った神明社が分霊され、京都市内各地に作られていく様になる。
主なものでも、高松神神社、粟田口神明社、頼政神明、日降神明、伊勢大神宮、榊宮、朝日神明、高橋神明、宇治神明、そして、吉田神社(写真)である。
興味深いのは、必ずしも総てが伊勢本宮の許可を得て分霊されたものではなくて、無断のものや了解を得ていないものもみられた。特に粟田口神明社は、公式の御願ではなくて唱聞師によるいかがわしいものとして避難されたようだ。
結局のところ、都に多くの神明社が分霊されることでお伊勢さん、特に内宮の神威が損なわれることを心配したようだ。
いくつか社をみせていただいたが、共通しているのは、縦横の千木削ぎ方の形状で、内宮と外宮とでは、当然異なるが、先生は指摘されなかったが、総ての千木が「通し千木」であるということが神明社としての権威を示している。
色々と神社建築を研究したが、通し千木がおける社は、豊明様式(伊勢の権威)を示す社に限定されており、出雲大社、住吉大社でも置き千木である。
最大の権威である吉田神社は、卜部家の権威を示し、中世吉田神道(吉田兼倶)の元祖となったところである。卜部家のシンボルでる亀甲(占いに用いた)をシンボル化した社殿の屋根の形状、内宮と外宮が合成された千木、そして仏教との習合さえも示す宝珠である。
結局、中世伊勢神道は、応仁の乱前後の神明社の勧請が大きなきっかけになった事を示唆しており、日本神道史の中でも重要な出来事だった。
京都の神明社については、先生によれば、未だ総てが解明されていないということで、これらの調査を進めていくことで、新たな中世神道の姿を浮かび上がらせることで出来るかも。
でも、中には、ビルの谷間に小さなお社があるだけだったり、結構、チャッチイものが多い。それそれで面白みがあるので、一度、調査してみようと思う。
講義の後半は、所謂、「元伊勢」について。「元伊勢」については、古くは、日本書記に典拠があるが、特に、丹後の国、籠神社は、伊勢外宮祭神のトヨウケとも関連が深く、中世神道の展開の中で、外宮勢力によって、「元伊勢」の権威が、天御中主大神に神威にフューチャーアップされた経緯がある。
「元伊勢」とは、伊勢神宮にアマテラスがお祀りされる以前に最初は、大和、近江、美濃、そして伊勢の地に辿り着く経緯の中で、日本書記の記述にはない、その途中に、丹後吉佐宮に立ち寄った伝承を含めて言われる信仰である。
「元伊勢」の地をめぐって、現在でも福知山市大江町と京都府宮津市にあったと主張する人達が峻烈な対立抗争を繰り広げている。明治政府が、正統な「元伊勢」として認定した大江町を主張する人も多い。
今年の5月に、このブログにも書いたが、京都府立丹後郷土資料館(ふるさとミュージアム丹後)で開催された文化財講座「アマテラス神話と中世伊勢信仰」(講師、佛教大学 斎藤英喜先生)を受講する為にはるばる天橋立まで日帰り旅行した。
http://fry.asablo.jp/blog/2009/05/23/4320615
その折りにも「大江町説」を主張される人が、当日の先生が提示された資料である「倭姫命世記」「御鎮座伝記」、「御鎮座次第記」、「丹後國一宮深秘」等の資料が、「果たして正統な根拠あるのか、疑問であると。」と、鋭い反論をされた郷土史家風の人が恐かったことを覚えている。
結局、中世伊勢神道、元伊勢信仰に纏わる資料については、独自資料であり、日本の文献史等を俯瞰しても、独自資料の正当性を証明することは、新たな資料の発見か、あるいは、籠神社等を発掘して、元伊勢伝承を裏付ける様な祭祀施設等が発見されれば、証明が可能であるが、現状では、その様なことは不可能であるので、学問的実証することは出来ないと思う。
結局、それぞれのポリシーで、「元伊勢」の地がどこにあるかを、決めておけばよいのだと思う。
先生は、抜け目なく、「詳しいことは、私が書いた『読み替えられた日本神話』を参考にして下さい。立ち読みではなくて、本当に買って下さいよ。」と宣伝された。
講座が終わると外は真っ暗で、冷たい雨が未だ降り続いていた。今日聴いた、「元伊勢」のお話は、今年5月から半年の間をおいて、斎藤先生が新たな結論を提起してくれたと思うので、今年の神道・神話に関する学習の私なりの締めくくりになったのではと満足した。
会場は、驚く程の満員で、先生の人気の高さは凄い。
テーマは、「京都に棲まうアマテラス」なかなか面白い内容だった。
中世・応仁の乱前後の京都は、疫病が流行った。戦乱と流行病を鎮める為に、伊勢の地からアマテラス大御神を祀った神明社が分霊され、京都市内各地に作られていく様になる。
主なものでも、高松神神社、粟田口神明社、頼政神明、日降神明、伊勢大神宮、榊宮、朝日神明、高橋神明、宇治神明、そして、吉田神社(写真)である。
興味深いのは、必ずしも総てが伊勢本宮の許可を得て分霊されたものではなくて、無断のものや了解を得ていないものもみられた。特に粟田口神明社は、公式の御願ではなくて唱聞師によるいかがわしいものとして避難されたようだ。
結局のところ、都に多くの神明社が分霊されることでお伊勢さん、特に内宮の神威が損なわれることを心配したようだ。
いくつか社をみせていただいたが、共通しているのは、縦横の千木削ぎ方の形状で、内宮と外宮とでは、当然異なるが、先生は指摘されなかったが、総ての千木が「通し千木」であるということが神明社としての権威を示している。
色々と神社建築を研究したが、通し千木がおける社は、豊明様式(伊勢の権威)を示す社に限定されており、出雲大社、住吉大社でも置き千木である。
最大の権威である吉田神社は、卜部家の権威を示し、中世吉田神道(吉田兼倶)の元祖となったところである。卜部家のシンボルでる亀甲(占いに用いた)をシンボル化した社殿の屋根の形状、内宮と外宮が合成された千木、そして仏教との習合さえも示す宝珠である。
結局、中世伊勢神道は、応仁の乱前後の神明社の勧請が大きなきっかけになった事を示唆しており、日本神道史の中でも重要な出来事だった。
京都の神明社については、先生によれば、未だ総てが解明されていないということで、これらの調査を進めていくことで、新たな中世神道の姿を浮かび上がらせることで出来るかも。
でも、中には、ビルの谷間に小さなお社があるだけだったり、結構、チャッチイものが多い。それそれで面白みがあるので、一度、調査してみようと思う。
講義の後半は、所謂、「元伊勢」について。「元伊勢」については、古くは、日本書記に典拠があるが、特に、丹後の国、籠神社は、伊勢外宮祭神のトヨウケとも関連が深く、中世神道の展開の中で、外宮勢力によって、「元伊勢」の権威が、天御中主大神に神威にフューチャーアップされた経緯がある。
「元伊勢」とは、伊勢神宮にアマテラスがお祀りされる以前に最初は、大和、近江、美濃、そして伊勢の地に辿り着く経緯の中で、日本書記の記述にはない、その途中に、丹後吉佐宮に立ち寄った伝承を含めて言われる信仰である。
「元伊勢」の地をめぐって、現在でも福知山市大江町と京都府宮津市にあったと主張する人達が峻烈な対立抗争を繰り広げている。明治政府が、正統な「元伊勢」として認定した大江町を主張する人も多い。
今年の5月に、このブログにも書いたが、京都府立丹後郷土資料館(ふるさとミュージアム丹後)で開催された文化財講座「アマテラス神話と中世伊勢信仰」(講師、佛教大学 斎藤英喜先生)を受講する為にはるばる天橋立まで日帰り旅行した。
http://fry.asablo.jp/blog/2009/05/23/4320615
その折りにも「大江町説」を主張される人が、当日の先生が提示された資料である「倭姫命世記」「御鎮座伝記」、「御鎮座次第記」、「丹後國一宮深秘」等の資料が、「果たして正統な根拠あるのか、疑問であると。」と、鋭い反論をされた郷土史家風の人が恐かったことを覚えている。
結局、中世伊勢神道、元伊勢信仰に纏わる資料については、独自資料であり、日本の文献史等を俯瞰しても、独自資料の正当性を証明することは、新たな資料の発見か、あるいは、籠神社等を発掘して、元伊勢伝承を裏付ける様な祭祀施設等が発見されれば、証明が可能であるが、現状では、その様なことは不可能であるので、学問的実証することは出来ないと思う。
結局、それぞれのポリシーで、「元伊勢」の地がどこにあるかを、決めておけばよいのだと思う。
先生は、抜け目なく、「詳しいことは、私が書いた『読み替えられた日本神話』を参考にして下さい。立ち読みではなくて、本当に買って下さいよ。」と宣伝された。
講座が終わると外は真っ暗で、冷たい雨が未だ降り続いていた。今日聴いた、「元伊勢」のお話は、今年5月から半年の間をおいて、斎藤先生が新たな結論を提起してくれたと思うので、今年の神道・神話に関する学習の私なりの締めくくりになったのではと満足した。
それがオタク(独習者)への道である。 ― 2009/09/27 22:47
8.心にまかせて力の及ばむかぎり(本居宣長著 うひ山ぶみ)
だいぶ間が空いてしまったが続きを読み進んでいくことにする。
①凡て件の書ども、かならずしも次第を定めてよむにも及ばず。ただ便(たより)にまかせて、次第にかかはらず、これをもかれをも見るべし。
これまで紹介した凡ての書物は、必ずしも順番を定めて読まなくても良い。ただ、その折々の都合にまかせて、順番に拘るよりも色々とみる方が良い。
○これもまた、宣長らしい合理的な考え方だと思う。学問を特に独習する場合は、好奇心を持続しなければならないので、飽きては駄目である。また、時間の制約もあるので、順番に拘っていると結局、その本を読みかけのままで、独習が中断してしまうことの方が恐いのである。また、1つの本のみ拘ると、学問分野の「すぢ」すなわち体系、全体像が見えて来ないので、結局は、上達するのが遅くなるのである。
②又、いづれの書をよむとても、初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず。
また、どんな書物を読む場合も初心者の間は、凡ての文章を翻訳(理解)して読む必要もない。
○いわゆる現代の高校生でも古文が嫌になるのは、逐語訳を先生が宿題にして、更に、それを暗記して試験に臨むという繰り返しでまったく嫌になってしまうのである。私が高校生の時に教わった先生は、授業でほとんど言ってよい程、逐語訳、現代語訳をされなかった。語句の説明、大意の説明、文物、風物の説明、文学史的な解題、簡単な文法の説明等はされたが、所謂、生徒を順番にあてて、逐語訳をさせるといった授業方法をとらなかったので、非常に授業は楽しかったし、今でも古文を読み続けているのも、初心者の間のこうした心がけによるものと思う。
③まづ大抵にさらさらと見て、他の書にうつり、これやかれやと読みては、又、さきに読みたる書へ立ちかへりつつ、幾遍もよむうちには、始めに聞こえざりし事もそろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也。
まず、頁をペラペラと簡単にめくって斜め読みして、他の本にうつって、色々眺めた後で、また、元の本に戻るといったことを何回も繰りかえしているといままで、判らなかったことも判る様になる。
○佛教大学の通信教育もBカリキュラムの時は、必要なテキストを全部段ボールに詰めて送られて来た。(Cカリキュラムになってテキストは自弁となり、履修に必要なものを買い揃えるといったスタイルに改悪されてしまった。)
最初は、段ボール箱に詰められて送られて来た書物にウンザリするが、それを本棚に並べる作業をしている内に、ペラペラと眺めたり、漫然と本棚から1つ1つ書物を抜き出して、「何か面白いことが書かれていないかな。」と思ってみている内に、その学問分野の特色が徐々に掴めていく。必要な書物を買い揃えるだけの場合は、こうした楽しみ、「書林の俯瞰」と言った楽しみがないので、理解の範囲が狭くなってしまうことになるだろう。
④さて、件の書どもを数遍よむ間には、其外のよむべき書どものことも学びやうの法なども、段々に自分の料簡の出来るものなれば、其末の事は一々さとし教ふるに及ばず。心にまかせて力の及ぶかぎり、古きをも後の書をも広くも見るべく、又、簡約にしてさのみ広くはわたらずしても有りぬべし。
さて、これらの書物を数遍読んでいく内にこれ以外に読んだ方が良いといった書物や学習方法に事前に身についていくものなので、その後のこと(学習方法)等を1つ1つ諭し教える必要はない。自分の学習意欲にまかせて、力の及ぶかぎり、古今の書物を幅広くみたり、それ程、幅広くみなくても、きっと(得るものは、)あるだろう。
○独学の面白さは、自分の興味にまかせて広く知識を求めることにあって、くどくどと教師に指導される必要がない点である。それを私は、佛大の通信大学院に入ってから、本当に思い知らされた。通学の大学では、教授が、参考文献目録とか基礎文献目録等を提示して、「これを順番に読んでいきなさい。」と学生に指示するが、この様なことは、親切心で行われていても、結局は、興味を削ぐことになる。
面白いと思った分野、書物については、その書物の中で、取りあげた文献や資料、あるいは事物、場所等は、実際にゲットしてみたり、訪れてみて写真を撮ったりしている内に知識は深まっていく。
それがオタクへの道である。
興味と拘りを常に持ち続けること、自分に興味がないことは、出来るだけ避けて、時間と労力を興味分野に集中化し、深化を図ることが真髄なのだと思う。
宣長は、実に面白いことを言っている思う。
だいぶ間が空いてしまったが続きを読み進んでいくことにする。
①凡て件の書ども、かならずしも次第を定めてよむにも及ばず。ただ便(たより)にまかせて、次第にかかはらず、これをもかれをも見るべし。
これまで紹介した凡ての書物は、必ずしも順番を定めて読まなくても良い。ただ、その折々の都合にまかせて、順番に拘るよりも色々とみる方が良い。
○これもまた、宣長らしい合理的な考え方だと思う。学問を特に独習する場合は、好奇心を持続しなければならないので、飽きては駄目である。また、時間の制約もあるので、順番に拘っていると結局、その本を読みかけのままで、独習が中断してしまうことの方が恐いのである。また、1つの本のみ拘ると、学問分野の「すぢ」すなわち体系、全体像が見えて来ないので、結局は、上達するのが遅くなるのである。
②又、いづれの書をよむとても、初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず。
また、どんな書物を読む場合も初心者の間は、凡ての文章を翻訳(理解)して読む必要もない。
○いわゆる現代の高校生でも古文が嫌になるのは、逐語訳を先生が宿題にして、更に、それを暗記して試験に臨むという繰り返しでまったく嫌になってしまうのである。私が高校生の時に教わった先生は、授業でほとんど言ってよい程、逐語訳、現代語訳をされなかった。語句の説明、大意の説明、文物、風物の説明、文学史的な解題、簡単な文法の説明等はされたが、所謂、生徒を順番にあてて、逐語訳をさせるといった授業方法をとらなかったので、非常に授業は楽しかったし、今でも古文を読み続けているのも、初心者の間のこうした心がけによるものと思う。
③まづ大抵にさらさらと見て、他の書にうつり、これやかれやと読みては、又、さきに読みたる書へ立ちかへりつつ、幾遍もよむうちには、始めに聞こえざりし事もそろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也。
まず、頁をペラペラと簡単にめくって斜め読みして、他の本にうつって、色々眺めた後で、また、元の本に戻るといったことを何回も繰りかえしているといままで、判らなかったことも判る様になる。
○佛教大学の通信教育もBカリキュラムの時は、必要なテキストを全部段ボールに詰めて送られて来た。(Cカリキュラムになってテキストは自弁となり、履修に必要なものを買い揃えるといったスタイルに改悪されてしまった。)
最初は、段ボール箱に詰められて送られて来た書物にウンザリするが、それを本棚に並べる作業をしている内に、ペラペラと眺めたり、漫然と本棚から1つ1つ書物を抜き出して、「何か面白いことが書かれていないかな。」と思ってみている内に、その学問分野の特色が徐々に掴めていく。必要な書物を買い揃えるだけの場合は、こうした楽しみ、「書林の俯瞰」と言った楽しみがないので、理解の範囲が狭くなってしまうことになるだろう。
④さて、件の書どもを数遍よむ間には、其外のよむべき書どものことも学びやうの法なども、段々に自分の料簡の出来るものなれば、其末の事は一々さとし教ふるに及ばず。心にまかせて力の及ぶかぎり、古きをも後の書をも広くも見るべく、又、簡約にしてさのみ広くはわたらずしても有りぬべし。
さて、これらの書物を数遍読んでいく内にこれ以外に読んだ方が良いといった書物や学習方法に事前に身についていくものなので、その後のこと(学習方法)等を1つ1つ諭し教える必要はない。自分の学習意欲にまかせて、力の及ぶかぎり、古今の書物を幅広くみたり、それ程、幅広くみなくても、きっと(得るものは、)あるだろう。
○独学の面白さは、自分の興味にまかせて広く知識を求めることにあって、くどくどと教師に指導される必要がない点である。それを私は、佛大の通信大学院に入ってから、本当に思い知らされた。通学の大学では、教授が、参考文献目録とか基礎文献目録等を提示して、「これを順番に読んでいきなさい。」と学生に指示するが、この様なことは、親切心で行われていても、結局は、興味を削ぐことになる。
面白いと思った分野、書物については、その書物の中で、取りあげた文献や資料、あるいは事物、場所等は、実際にゲットしてみたり、訪れてみて写真を撮ったりしている内に知識は深まっていく。
それがオタクへの道である。
興味と拘りを常に持ち続けること、自分に興味がないことは、出来るだけ避けて、時間と労力を興味分野に集中化し、深化を図ることが真髄なのだと思う。
宣長は、実に面白いことを言っている思う。
ホデリ(海幸)、ホオリ(山幸)の誕生と海幸山幸の伝説 ― 2009/09/26 22:55
本日は、斎藤英喜先生のNHK文化センターの日本神話の最後であった。今回は、ニニギノミコトが高千穂に下り、コノハナノサクヤビメと婚姻、イワナガヒメを捨てるといった話から、ホデリ(海幸)、ホオリ(山幸)の誕生と海幸山幸の伝説、隼人族の服従と皇祖の一族の誕生、神武天皇に至るまでの話が中心であった。
この中で、海幸彦・山幸彦の話は、実は、皇祖の誕生説話の中で、大きな役割を担っていること、異種婚姻譚の神話の中での位置づけ等、非常に興味が深い内容だった。
海幸・山幸というのは、異境訪問と異種婚姻譚の観点から斎藤先生は、説明されたが、私は、更に貴種流離譚の話形も含まれていると先生の話を聞きながら思った。
特に私は、竹取物語や源氏物語との話形の類似性も想起された。
その説明として、貴種流離譚の始めは、より上位の世界から追放という話に始まる。海幸・山幸の場合は、上位の世界(神の子孫の世界)から海竜王の宮殿(竜宮の様に描かれているが、その正体は、海のイキモノ、鰐鮫が人間の様に振る舞って、宮殿にいる様に錯覚を起こさせている点で、海竜王は、より低級な海棲生物の世界であった。)に下る話。
比較としては、素戔嗚尊の高天原から天下る話、かぐや姫の月世界から地上、源氏物語では、光源氏の都から須磨・明石の田舎へ下るということであり、その原因としては、罪(タブー)を侵すこと、あるいは、兄弟イジメが挙げられる。
異境訪問譚は、海竜王の宮殿、光源氏の離京と明石、須磨の鄙の訪問、人間世界への降誕といった風に語られる。古事記の海幸・山幸の話で興味深いのは、山幸が海底世界を訪問するまでは、話者あるいは、山幸の視点で描かれるが、その後は、豊玉姫とその家来の視点に転換されて山幸の姿が描かれていることである。つまり、視点変換を行うことにより、上位から下位の世界への移動を表現しようとしているのである。
異種婚姻譚、これは、上位の世界にいるものが、下位の世界を訪問し、そこの世界の姫君や婿と交雑することである。かぐや姫の場合は、単なる求婚譚に終わったが、素戔嗚尊、山幸、光源氏の場合は、実際に婚姻し、子供が出来ている。この異種婚姻の世界は、結局、主人公が下位の世界から上位の世界の戻ろうとする時点で破局を迎える。かぐや姫の昇天、山幸が釣針を手に入れて兄の元に返っていく、光源氏の中央政界への復帰ということになる。
更に貴種流離+異種婚姻譚の結果生じるものは、それは、仇敵への呪詛による勝利である。例えば、山幸は、海幸を呪文によって苦しめ、降参させる。光源氏の場合、政敵・朱雀帝を病に陥れる様な復讐を遂げる。
以下の内容を次の通り整理してみた。
兄弟イジメ
貴種流離譚=罪を犯す +異境訪問譚+異種婚姻譚+敵を調伏
その他
海幸・山幸=釣り針を巡るイジメ
源氏物語 =桐壺更衣イジメ 弘徽殿女御の光源氏イジメ
罪を犯す =かぐや姫(どんな罪からは判らない)
=素戔嗚尊(天津罪)
=光源氏(朧月夜との密通)、背後には藤壺との密通
異境訪問譚=山から海へ(海竜王の宮殿へ・浦島説話)
=月から地球へ
=高天原を追放
=都から須磨・明石へ
異種婚姻譚=豊玉姫(実は、サメであった)
=かぐや姫と求婚者(婚姻には至らず。)
=クシナダヒメ
=明石の君
(当時、都の人にとっては、鄙の人は、人間とはみなされて いなかった。)
貴種流離の破局
・事情を相手に悟られる。釈明する。
(鶴女房にみられる様な「見るな」の世界)
元に世界に帰らなくてはなくなる。
(竹取の帝、翁・媼との別れ、・山幸の別れ、
光源氏と明石入道との別れ)
敵を調伏
・大蛇退治
・弘徽殿方への復讐と政界への復帰
・海幸を苦しめる
今回の海幸・山幸譚が天孫降臨という、皇祖説話に何故、結びついているのかという点が、古事記上巻では、大きな謎の1つである。
結局、天皇家の祖先は、隼人族と兄弟関係にあるが、海竜王の助けを借りて、兄弟の覇権争いに勝利し、その後の子孫繁栄につながっていくということである。皇祖神の系譜をみると、穀物豊穣につながる神々であるが、何故、海竜王と関連づけられるのか等、大きな謎であると思う。
私なりに、大胆な推理をしてみると、皇祖が誕生した頃の日本列島には、①皇祖の一族の様な太陽信仰の一族、②海洋神を信仰する一族、③もう1つの勢力が互いに覇権を争っていた。天孫降臨の場所が九州南部であること、これは、北部九州には、③のもう1つの勢力が非常に強かったものとみられる。①九州南部に発生した太陽信仰の一族の王位継承権争いが発生し、国が乱れたが、②の海洋神を信仰する一族と婚姻関係を結び、同盟を得た1族(つまりのちの皇統)が覇権を掌握した。その一族が、東征して、大和王権を確立するが、その際にもやはり、海洋神を信仰する種族協力を得ることが必要であった。
それらの種族と同盟関係のもとで政権の掌握に成功し、大和に政権を樹立したからは、もともと同盟関係にあった海洋信仰の一族を従属させていったといった様な出来事が起こったのではないかと思う。
また、何故、釣り針が出てくるか。これは、海幸が大事にしていたのは、鉄製の釣り針だからである。だから、弟が釣り針を無くしたので激怒する訳だ。山幸は、剣を潰して、針を山ほど作って返そうとするが、兄は受け取らない。それは、何故か?青銅製の剣を潰して作られた針だからだろう。
鉄の釣り針を供給出来たのは、恐らく③の種族だろう。②の海洋神を信仰する一族は、鉄器の製造能力はないが、暦法(潮の満ち干)に優れた民族であったことが知れる。
話は、脱線してしまったが、更に話を膨らませていくと、非常に、興味深いのは、源氏物語にも同様の話形がみられる点である。
この場合は、海竜王=故桐壺帝の化身が支配する須磨・明石を訪れた源氏が、明石の中宮の出生につながるエピソードを持ち、光源氏亡き後は、春宮、匂宮とポスト源氏政権の基礎の形成過程が、貴種流離の出来事を通じて、描かれている点である。
古事記の世界から伝わる日本の古代の物語の根底には、この様な話形が潜んでおり、無意識の内に取りあげられたのか。(物語の祖 竹取翁物語の様に)、あるいは、意図的に古事記のこの説話を踏まえているのかと言う点である。
卒業論文にも一部取りあげたが、例えば、国宝源氏物語絵巻の若紫巻の断簡には、コノハナサクヤヒメ=紫上=桜花、イワナガヒメ=末摘花=岩根・不滅と子孫繁栄の象徴が描かれてとしているが、話形という点からみれば、見事の古事記の天孫降臨・貴種流離のプロットがはめ込まれているのではないかと考える。
日本書紀にもよの男よりも通じていた紫式部なので、古事記のコノハナサクヤヒメをめぐる説話を知らない筈がないからである。
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いずれにしても斎藤先生の「最後の授業」、実に面白かった。NHKセンターの梅田での授業はこれで終わりで、守口や京都での講座になるそうだが、平日、午後1時からの講座、サラリーマンの私に行ける筈がない。本当に残念である。
この中で、海幸彦・山幸彦の話は、実は、皇祖の誕生説話の中で、大きな役割を担っていること、異種婚姻譚の神話の中での位置づけ等、非常に興味が深い内容だった。
海幸・山幸というのは、異境訪問と異種婚姻譚の観点から斎藤先生は、説明されたが、私は、更に貴種流離譚の話形も含まれていると先生の話を聞きながら思った。
特に私は、竹取物語や源氏物語との話形の類似性も想起された。
その説明として、貴種流離譚の始めは、より上位の世界から追放という話に始まる。海幸・山幸の場合は、上位の世界(神の子孫の世界)から海竜王の宮殿(竜宮の様に描かれているが、その正体は、海のイキモノ、鰐鮫が人間の様に振る舞って、宮殿にいる様に錯覚を起こさせている点で、海竜王は、より低級な海棲生物の世界であった。)に下る話。
比較としては、素戔嗚尊の高天原から天下る話、かぐや姫の月世界から地上、源氏物語では、光源氏の都から須磨・明石の田舎へ下るということであり、その原因としては、罪(タブー)を侵すこと、あるいは、兄弟イジメが挙げられる。
異境訪問譚は、海竜王の宮殿、光源氏の離京と明石、須磨の鄙の訪問、人間世界への降誕といった風に語られる。古事記の海幸・山幸の話で興味深いのは、山幸が海底世界を訪問するまでは、話者あるいは、山幸の視点で描かれるが、その後は、豊玉姫とその家来の視点に転換されて山幸の姿が描かれていることである。つまり、視点変換を行うことにより、上位から下位の世界への移動を表現しようとしているのである。
異種婚姻譚、これは、上位の世界にいるものが、下位の世界を訪問し、そこの世界の姫君や婿と交雑することである。かぐや姫の場合は、単なる求婚譚に終わったが、素戔嗚尊、山幸、光源氏の場合は、実際に婚姻し、子供が出来ている。この異種婚姻の世界は、結局、主人公が下位の世界から上位の世界の戻ろうとする時点で破局を迎える。かぐや姫の昇天、山幸が釣針を手に入れて兄の元に返っていく、光源氏の中央政界への復帰ということになる。
更に貴種流離+異種婚姻譚の結果生じるものは、それは、仇敵への呪詛による勝利である。例えば、山幸は、海幸を呪文によって苦しめ、降参させる。光源氏の場合、政敵・朱雀帝を病に陥れる様な復讐を遂げる。
以下の内容を次の通り整理してみた。
兄弟イジメ
貴種流離譚=罪を犯す +異境訪問譚+異種婚姻譚+敵を調伏
その他
海幸・山幸=釣り針を巡るイジメ
源氏物語 =桐壺更衣イジメ 弘徽殿女御の光源氏イジメ
罪を犯す =かぐや姫(どんな罪からは判らない)
=素戔嗚尊(天津罪)
=光源氏(朧月夜との密通)、背後には藤壺との密通
異境訪問譚=山から海へ(海竜王の宮殿へ・浦島説話)
=月から地球へ
=高天原を追放
=都から須磨・明石へ
異種婚姻譚=豊玉姫(実は、サメであった)
=かぐや姫と求婚者(婚姻には至らず。)
=クシナダヒメ
=明石の君
(当時、都の人にとっては、鄙の人は、人間とはみなされて いなかった。)
貴種流離の破局
・事情を相手に悟られる。釈明する。
(鶴女房にみられる様な「見るな」の世界)
元に世界に帰らなくてはなくなる。
(竹取の帝、翁・媼との別れ、・山幸の別れ、
光源氏と明石入道との別れ)
敵を調伏
・大蛇退治
・弘徽殿方への復讐と政界への復帰
・海幸を苦しめる
今回の海幸・山幸譚が天孫降臨という、皇祖説話に何故、結びついているのかという点が、古事記上巻では、大きな謎の1つである。
結局、天皇家の祖先は、隼人族と兄弟関係にあるが、海竜王の助けを借りて、兄弟の覇権争いに勝利し、その後の子孫繁栄につながっていくということである。皇祖神の系譜をみると、穀物豊穣につながる神々であるが、何故、海竜王と関連づけられるのか等、大きな謎であると思う。
私なりに、大胆な推理をしてみると、皇祖が誕生した頃の日本列島には、①皇祖の一族の様な太陽信仰の一族、②海洋神を信仰する一族、③もう1つの勢力が互いに覇権を争っていた。天孫降臨の場所が九州南部であること、これは、北部九州には、③のもう1つの勢力が非常に強かったものとみられる。①九州南部に発生した太陽信仰の一族の王位継承権争いが発生し、国が乱れたが、②の海洋神を信仰する一族と婚姻関係を結び、同盟を得た1族(つまりのちの皇統)が覇権を掌握した。その一族が、東征して、大和王権を確立するが、その際にもやはり、海洋神を信仰する種族協力を得ることが必要であった。
それらの種族と同盟関係のもとで政権の掌握に成功し、大和に政権を樹立したからは、もともと同盟関係にあった海洋信仰の一族を従属させていったといった様な出来事が起こったのではないかと思う。
また、何故、釣り針が出てくるか。これは、海幸が大事にしていたのは、鉄製の釣り針だからである。だから、弟が釣り針を無くしたので激怒する訳だ。山幸は、剣を潰して、針を山ほど作って返そうとするが、兄は受け取らない。それは、何故か?青銅製の剣を潰して作られた針だからだろう。
鉄の釣り針を供給出来たのは、恐らく③の種族だろう。②の海洋神を信仰する一族は、鉄器の製造能力はないが、暦法(潮の満ち干)に優れた民族であったことが知れる。
話は、脱線してしまったが、更に話を膨らませていくと、非常に、興味深いのは、源氏物語にも同様の話形がみられる点である。
この場合は、海竜王=故桐壺帝の化身が支配する須磨・明石を訪れた源氏が、明石の中宮の出生につながるエピソードを持ち、光源氏亡き後は、春宮、匂宮とポスト源氏政権の基礎の形成過程が、貴種流離の出来事を通じて、描かれている点である。
古事記の世界から伝わる日本の古代の物語の根底には、この様な話形が潜んでおり、無意識の内に取りあげられたのか。(物語の祖 竹取翁物語の様に)、あるいは、意図的に古事記のこの説話を踏まえているのかと言う点である。
卒業論文にも一部取りあげたが、例えば、国宝源氏物語絵巻の若紫巻の断簡には、コノハナサクヤヒメ=紫上=桜花、イワナガヒメ=末摘花=岩根・不滅と子孫繁栄の象徴が描かれてとしているが、話形という点からみれば、見事の古事記の天孫降臨・貴種流離のプロットがはめ込まれているのではないかと考える。
日本書紀にもよの男よりも通じていた紫式部なので、古事記のコノハナサクヤヒメをめぐる説話を知らない筈がないからである。
----------------------------------------------------------
いずれにしても斎藤先生の「最後の授業」、実に面白かった。NHKセンターの梅田での授業はこれで終わりで、守口や京都での講座になるそうだが、平日、午後1時からの講座、サラリーマンの私に行ける筈がない。本当に残念である。
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