新しい仏教の本(宮本武蔵からイエスキリストまで)2008/08/07 21:39

『ブッダの世界』(玉城康四郎 木村清孝著 NHKブックス 定価870円+税)

 最近、仏教関係の本をお酒が入ると書店に立ち寄ったら訳が分からずに買っていることが多い。

 この本もその様な一冊でなんで購入したのか判らない。
 翌日の電車の中で読みながら考えてみたら、「新しい仏教とともに生きる」という惹句に惹かれて買ったのだろうと思った。

 実際には、「新しい仏教」というほどではない。

 従来の「ブッダの世界」ものは、佛大の教科書等にみられる様にお釈迦様の御生涯を主体にして、梵天勧請の後、五比丘への説教、初転法輪に至り、その根本理論である四諦説や縁起等が中心に解説され、釈迦の入滅後の結集を経て、部派仏教やアビダルマ理論の初歩程度の解説にとどまる内容だとか、中村元の「ブッダのことば」や「ブッダ最後の旅」等のニルバーナの境地を中心に描いたり、解説したものが多い。そうして、覚りと言えば、阿羅漢果について述べたものが中心である。
 このコーナーで以前取りあげた寂聴の「釈迦」もその様な内容であったと思う。

 この本にも簡単なブッダの生涯や部派仏教、アビダルマについては、数頁程度の解説にとどまり、八千頌般若経、華厳経、大日経が中心であり、むしろ大乗仏教の側面からブッダの世界の本質に迫ろうとしている本である。

 一番ユニークなのは、「ダンマ・如来が業熟体に顕わにになる。」というコンセプトを全面に出している点である。

 ダンマ・如来を業熟体として具現させるには、禅定が重要であり、ブッダの修行の中で、特に禅定が大きな役割を果たしている点が特に強調されていることは、独特である。

 禅定とは、無想心三昧の境に至る修行であるが、これは、法然や親鸞の専修念仏と結局は同じことであるとの考えが述べられている。

 そうして、禅定も念仏も三昧が重要であるという点である。

 その三昧境に達して、ダンマが業熟体に顕わになるとき、修行成就の段階に至る。

 これを終地という。そうして究極の智慧を得るのである。

 般若空の境地は宮本武蔵の剣禅一致の境地と類似していると説明されている。(なんでここで宮本武蔵が出てくるのだろう。)
 それは、命への菩提心を無意識の内に得ることにつながっているのだそうだ。
 人は皆、一つの生命体とも考えられる宇宙の一員として天地と一体となっていることが体感されるのである。

 宇宙は無限・永遠の光(大日経、大無量寿経の世界)であり、それと一体となっていることに覚醒させられるのである。
(この部分は、密教の本覚思想や浄土教の思想が混乱して説明されていて判りにくい)

 挙げ句の果ては、孔子やイエスキリストまで登場する奇想天外新興宗教の様な本である。
 これが新しい仏教であると言われても少し・・・・の様な気がした。

 但し、日常、例えば、先日の鈴鹿サーキットでのカメラの流し撮りの練習をしていて、感じられたことは、目の前を数百回も走り去るバイクを追い続けていると、やがて、その動きが心の中で見え始める様になるという。

 「動体視力」とも言われるが、実際にスポーツ科学の専門家によると神経の電流の伝達速度から見ても不可能と思える反応をボクサーや野球選手にみられるという。
 練習を積み重ねてやがて三昧境に入ったら、今まで、論理的思考回路で構成されている脳にコントロールされていた知覚とは異なったものが見え始める。
 不思議なことに自分ではない何かの一員となって、コントロールされている様な気がする。

 この様な境地は、理論の学習では会得出来ず、仏教では禅定、武道、スポーツ、その他の技能では、ひたすらの練習が必要になってくる。
 密教や禅、念仏修行も、その様な境地、つまり、即身成仏の境に至る道を示してくれるのかも知れない。

 そういった点では、結構、面白い本だと思った。

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