視点導入による表現とはなんであるか ― 2008/08/31 23:21
卒論の口頭試問の時にきちんと答えられなかった質問である。
要するに、「知覚的欲求に導かれるままに描かれた視覚的光景の描写」というべきか。
一層、判りにくくなってしまった。源氏物語に描かれた場面も映画もドラマも小説も、今、こうしてあなたが見ているこのディスプレー画面もそうである。
「知覚的欲求」それは、仏教の立場から説明すれば、それは、「煩悩」である。
「視点導入」の道筋、それは、「煩悩の流れ」を意味する。
源氏物語の場面描写で、視点導入表現の行き着く先は、和歌の朗詠・男女の唱和である。
それは、煩悩の行き着く先である。和歌の表現する世界は、場面を超越している。そして、その象徴性は、殆どの場合は、前栽の草木として表現されている。
「人が小説や絵画、映画、ドラマ等で、視覚的光景を場面としてつくる時、それは、時間を止めていることだ。果たして、そこには、どの様な意義があるのか。」
これが小野田先生の質問だった。
ずっと一日考え続けていても判らない。
一度、書いたブログコメントもそれが為に削除した。
唯識と空との関係についても考えてみたが、和歌・前裁・象徴的存在が空という訳でもない。但し、時間、場面を越えた超越的な存在であることは確かである。
以前、修士論文で場面の発話表現と和歌の関係についての模式図を作成したが、この辺りに関連してくるのかも知れない。
視点導入の場面は、対座場面も行動場面の両者を包含する広い領域を支配しているが、和歌は、更に、それ以外の「見えない世界につながる何か」を持っている。
それが作品全体の構想につながっているらしいという推測が立つ。
つまり、小野田先生が言われた様に、「視点導入・場面を描くということは、結果的に、見えない世界に導かれる。作品の構成にも関与していく。」ということになるのだろうか。
それが、結果的には、源氏物語の作品構想と仏教思想との関わり方を解き明かす、鍵になると教えて下さっているのかも知れない。
特に若菜と柏木巻の背後には、大日経が関わっていると考えることも出来るが、それは、色々と調べて上で挙げてみたい。
要するに、「知覚的欲求に導かれるままに描かれた視覚的光景の描写」というべきか。
一層、判りにくくなってしまった。源氏物語に描かれた場面も映画もドラマも小説も、今、こうしてあなたが見ているこのディスプレー画面もそうである。
「知覚的欲求」それは、仏教の立場から説明すれば、それは、「煩悩」である。
「視点導入」の道筋、それは、「煩悩の流れ」を意味する。
源氏物語の場面描写で、視点導入表現の行き着く先は、和歌の朗詠・男女の唱和である。
それは、煩悩の行き着く先である。和歌の表現する世界は、場面を超越している。そして、その象徴性は、殆どの場合は、前栽の草木として表現されている。
「人が小説や絵画、映画、ドラマ等で、視覚的光景を場面としてつくる時、それは、時間を止めていることだ。果たして、そこには、どの様な意義があるのか。」
これが小野田先生の質問だった。
ずっと一日考え続けていても判らない。
一度、書いたブログコメントもそれが為に削除した。
唯識と空との関係についても考えてみたが、和歌・前裁・象徴的存在が空という訳でもない。但し、時間、場面を越えた超越的な存在であることは確かである。
以前、修士論文で場面の発話表現と和歌の関係についての模式図を作成したが、この辺りに関連してくるのかも知れない。
視点導入の場面は、対座場面も行動場面の両者を包含する広い領域を支配しているが、和歌は、更に、それ以外の「見えない世界につながる何か」を持っている。
それが作品全体の構想につながっているらしいという推測が立つ。
つまり、小野田先生が言われた様に、「視点導入・場面を描くということは、結果的に、見えない世界に導かれる。作品の構成にも関与していく。」ということになるのだろうか。
それが、結果的には、源氏物語の作品構想と仏教思想との関わり方を解き明かす、鍵になると教えて下さっているのかも知れない。
特に若菜と柏木巻の背後には、大日経が関わっていると考えることも出来るが、それは、色々と調べて上で挙げてみたい。
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