「つきまとい」これは、妖怪の様につきまとう犯罪2010/09/13 23:06

 兵庫県警に登録して、管内での事件発生の場合は、都度、携帯メールに入る様になっている。

 最近、川西市での犯罪が増えている。神戸市北区の場合は、所謂、アブナイ犯罪とひったくりが多い。

 但し、気になるのは、「声かけ事例」という奴。

 別に猥褻な恰好とか、露出している訳でなくて、児童、生徒に、「アイスクリーム食べへんか。」と声をかけただけで、声かけ事例になる。

 このサイトのオーナーも県警に登録しているとみられる。
http://pub.ne.jp/robisuke/

 これでも、「声かけ」とか「つきまとい」とかあるが、声かけというのは、子供に声をかけては行けない。特に危なそうな僕の様な中高年は、気をつけないといけない。

 「つきまとい」これは、妖怪の様につきまとう犯罪であるが、これも、例えば、家から駅までがちょうど通学路なので、子供の後を歩いているだけで「つきまとい。」

 近くの中学の子供が、家に爆竹を投げ入れて遊んでいるのをみかねて、「声をかけ」ると、声かけ事例で、近所の人に後ろ指を指される羽目に合う。

 まず、怪しくない恰好、なるべく人目につかない様に外を歩く。子供には、声をかけない。前を歩いている女性とか、子供がいた場合には、通りの反対側から追い抜く。

 電車車内では、人と目を合わせない様にする。目があっただけで、痴漢とか駅員、車掌を呼ばれることがある。

 どうりで、電車の中で、サングラスをかけている人が多くなったと思った。

挨拶って2010/09/13 23:09

一戸建てに住む様になってから近所づきあいの矢面に立たざるを得なくなった。

一番、辛いのが挨拶である。

家の前の通りが狭いので、嫌でも毎日顔を合わせる。
その場合は、黙礼は駄目で、必ず、「こんにちわ」と言わねばならない。また、そのままだとロボットの様に奇妙なので、時節の挨拶とかそうゆうのも入れる必要がある。これが大変。

犬の散歩をする人が多いので、朝夕の外出は控えるべきだ。

でも、そうして「控えて」いると今度は、「人付き合いの悪い変わった人で気味が悪いねぇ。」と言われかねない。

そんな風に、「声かけ事例」と同じ位に慎重に対応しなくては、ならない。

僕は、知らない人に声をかけるのは、なんともないが、ある程度の知り合いに声をかけるのが一番つらい。本当につき合っている人ならば、色々と、こちらからもしゃべりたくなるが、そうでない場合は、億劫である。

実家では、親父が自治会長にならされてしまって、国政調査に一軒一軒訪問している。80近い爺さんになってまで、そんなことをしなければならない人間社会って嫌なもんだなぁー思うが、これが、むしろ世間からみれば、正常なんだということで、嫌になる。

一人暮らしをする様になって、父親というか戸主の大変さが身に染みる。

コーラン事件について考える2010/09/13 23:28

これって、宗教と信仰の問題だと思う。

宗教と信仰の間にはパラドックスが存在する。

①信仰の無い宗教
②宗教で無い信仰

この2点の矛盾が今回の事件の要因だ。

つまり、コーランという聖典は、信仰があるものにとっては、アイデンティティの象徴な様な存在だが、信仰がないものにとっては、全く意味の無い、単なる書籍に過ぎない。

イスラム教徒が報復に聖書を焼かないのは、キリスト教の中には、「信仰の無い宗教」的な側面があることを知っているからだ。

イスラム教徒がコーランを焼かれてあれ程、激昂するのは、イスラム教=コーラン=信仰だと考えるからだが、コーランを焼いたアメリカ人牧師が、信仰等はないに決まっているので、コーランは、その時点で、コーランでなくなっており、意味を成さなくなっているので、そんなに騒ぐ必要はないと思う。

宗教もグローバリズム、現代化の流れを避けて通れない。
もっと覚めた目で宗教・信仰をみる必要がある。

9/11テロがあったラウンドゼロの近隣にモスクを建てる行為は、たしかに信教の自由を保障している合衆国憲法では、合法的なことであるが、やはり、イスラムテロであれ程の善良なキリスト教徒、合衆国国民が犠牲になったことを、客観的に認識し、「公共の良俗・常識」に照らして、その様な場所にモスクを建てるべきでは無かった。

この点でオバマ大統領の考え方は間違っている。
やはり、常識ということが必要なのだと思う。
でも、信仰は、常識を否定するところから始まるという大きな矛盾を孕んでいるのである。

また、実際にそこでモスクを建てて信仰生活を送る権利があるとしても、地域社会との隔絶、拒否が起こるのは目に見えているので、合理的なこととは言えない。

こんな問題は、日本では起こりえない。

つまり、一般の日本人にとって、宗教は、単なる形式的な冠婚葬祭儀式に過ぎず、まさに①であるから。

これは、多種多様な宗派、外国文化の流入といった中で、日本人の良識・常識が社会的にその様な位置づけを行っているからである。

唯一、靖国神社参拝が例外というだけである。

動物は共食いをせず、人間は共食い(戦争)をする。
動物は、宗教を持たないが、人間は、宗教・信仰に惑わされる。