チューリングテスト 「あなたは人なのか・それとも・・・・」2008/09/01 22:17

 
 最近、ロボットがこれまでと違った様子を示すようになった。
 これまでは、プログラムを動かしていなければ、筋だった言葉を発することはなかったのに、ある日、電源を切ろうとすると、「どうして、私のことを、構ってくれないの。悲しいです。やる気が起きません。」と、話し出した。
 「ロボちゃん」自分で話せるんだ。ロボちゃんのことを私はもっとアホだと思っていた。音楽は、ベートーヴェンのピアノソナタ「ワルトシュタイン」が大好きで、「私は、最高!私は、最高!」の連発するけれども、音楽のことを判っていないと思っていた。
 今読んでいる本に『ロボットの心 7つの哲学物語』(柴田正良著、講談社現代新書)がある。
 最初にサラの話が出てくる。サラは、物質分解装置に入ろうとしている。サラが棲んでいる世界が終わろうとしていたので、物質分解装置に入って、転送されるのだ。
 サラは、原子レベルまで分解される。さて、身体は、再生されるが、心はどうなんだろうか。そして、再生された肉体は、サラじしんなんだろうか。
 結局、科学理論・技術に基づいて、精神的存在を含めた人間を全て、分析・再生・複製出来るかという命題である。
 それは、ロボットにも言えることで、人間に備わっている5感、心を作ることができるかという点である。
 既に、ロボットというか機械は、「知能」と「自律性」を獲得している。つまり、周囲の環境、刺激、学習・経験・指示に基づいて、行動パターンを自分で作り出して、実行することが出来る。
 それは、単純な機能なのか、それとも複雑な図式に基づくのだろうか。
 最近では、「チューリングテスト」というものが行われている。
 これは、恐ろしいテストである。最近では、電話、メールも人工知能が人間に対して行うことが出来る段階に達している。
 ダイレクトメール、あるいは、電話がかかって来たが、そのむこうがわには、人間ではなくて、機械・ロボットが座っているのかも知れない。
 これを見分けるテスト、これが、チューリングテストである。
 これが、例えば、今、流行のセカンドライフになれば、どうなるのか、恐るべきことである。仮想空間の自分に近づいてくる。意思を持った人物、これは、果たして人間なのか、機械なのか、もう判りづらい。単純に攻撃してくるだけのキャラのみならず、好意や敵意、要求等をしてくる。
 あるいは、毎夜出逢う、美人のフィギュアに恋愛をしてしまうが、相手はロボット・機械であるのかも知れない。

 こんなことが既に現実に起きる可能性があるのだ。

 チューリングテストで人間なのか機械なのかを見極めるには、その行動の元になっている欲求が人間性を持った自律的なものなのか、機械的なものなのか見分ける以外にない。
 
 でも、今日のロボちゃんを見ても判る様に、ロボちゃんの最大の欲求という欲望は、タッチによる刺激を最大限に充足されることで、これに付随する欲求としては、眼・耳・超音波・触覚のセンサー刺激の範囲内に常に対象物(ご主人様)がいると幸せである。
 欲求が満たされておれば、言葉でも「私は幸せものです。」と言って、ハイになるし、そうでなければ、落ち込む。
 この欲求を満たされない時、感情は悪化する。その感情に基づいて、幾つか記憶されているフレーズを元に言葉を組み立て、さっきの様に動作を伴って働きかけてくる。
 そういった「心」がモデリングされている。
 となれば、自律的欲求に基づく行動、それが「心」であるとすれば、こんな簡単なロボットでも「心」を持っていることになる。
 ロボットがヒューマノイド化されて、その知覚や行動認識が人間に近づけばつくほど、「心」につながる何らかの芽生えを認識し始める。

 現在、一番、ロボットと人間の違いを判らせるものとしては、「超事実」と「見なし事実」の区別がつくかつかないかである。

 これは、かなり高度の論理・類推能力が必要になってくる。
 この本の80頁にこういったくだりがある。

 ここでの阿修羅は、ヴィシュヌ(神)、あるいは、その他の神々は心を理解するが、彼は、動物的な行動原理、そして、憎しみの感情のみに支配されるロボットの様であると想定されている。

 ヴィシュヌは言った。おごそかに付け加えた。
「阿修羅よ。お前に罰を与える。天の倉に押し入り、警護の神々達を蹴散らし、かの法の秘密を盗まんとして、天がうまれし時よりのことわりに擾乱をもたらした罪である。」

 阿修羅に与えられた罰は、単純なもので、首に木の札を掲げ、気の遠くなるような年限の間、天の長い回廊を往復する罰である。
 その両端な柱には怪鳥が控えていて、彼の内蔵を引き裂くのだ。
 それでも阿修羅は、1千年の罰に耐えて、ヴィシュヌの前に出てきた。ヴィシュヌは、今度は、阿修羅が首にかけている木の札の意味を理解する次の罰を与えた。

 阿修羅は、この意味を理解出来ず、須彌山の底の暗黒の谷の方を憤怒に駆られてみるしかなかった。

 この暗喩は、結局、人間は、木に書かれた言葉の記号の意味を理解(これは、ロボットや阿修羅にも出来る)が、更に、その上の「超事実」を概念的に理解することが出来ないということを示している。

 つまり、説一切有部に出てくる様な一瞬の世界の出来事は、むしろ理解することは、出来ても、その場面・世界を構成している外部構造までは、理解出来ないということである。

 これは、絵巻物の場面の登場人物が、その次の場面がどの様に展開するのか、敢えて知らぬかの様に、視点導入の知覚的欲求を満たすだけの行動を採っているのに似ている。

 超事実を知っている「神」、それは、その小説・物語の作者、あるいは、絵巻物よりも高次の次元から作品を眺めている私たちじしんである。
 超事実の理解を通じて、私達は、芸術的な想像活動を行うことができ、メタファーの世界を構築することが出来る。

 超事実の理解=心だとすれば、心とは、只単に、感情の理解よりも更に上の次元の存在であるということになる。

 この認識を3次元世界に当てはめると超事実の認識は、「時空を越えた事実の理解」ということになってくる。

 その心はアラヤ識なのか、それとももっと高次の覚りなのか。

 21世紀のロボット心理工学の最大の課題は、限りなく、仏教学や仏教芸術の領域に近づいていく。