今年のNHK大河ドラマの続編ともいうべき本 ― 2009/12/03 11:10
どこかの大学教授がブログで、今年の大河ドラマは手抜きであったとか書かれていたが、テーマが元々地味であるだけに仕方が無かった感がある。
但し、兼続が亡くなるシーンが、米沢かどこかになっているが、史実は、江戸藩邸で隠居後、急逝することになっている。
兼続が果たした役割、これは、江戸時代の「農民支配」の規範を最初に文章化した点で歴史的意義は大きい。
たしかに「愛」は存在するが、現在の私たちが地域に対して持っている愛着や、人間愛とは異なり、やはり為政者としての愛である。
この『米沢藩の経営学』では、そういった点について詳細な記述がみられる。米沢藩(上杉氏)、米沢に移封後、兼続の改革の成果で、暫くは安泰が続くが、あの忠臣蔵の吉良上野介に藩主が「暗殺?」され、世継ぎが断絶、改易の危機に瀕する。老中保科の口添えで、上野介の嫡子が相続するが、領地・石高は、更に半減される。
吉良家の出身だけあって、新藩主は浪費癖もあり、藩政は危機に瀕する。どこかの国の財政同様に、ごまかしごまかしで数代続いたが、重定公の時代になって、ついに藩政が立ちゆかなくなって、幕府に「版籍奉還」を申し出る。
この様な状況を打破すべく、秋月藩から新しい藩主、上杉直丸が迎えられ、新藩主となる。これら、かの有名な上杉鷹山である。
上杉家の藩政改革は、兼続、鷹山の改革が二大改革を呼ばれるものである。
兼続の改革は、幕府の慶安の御触書のモデルとも言える徹底した農民支配を「生活管理」から薦める。
「郡中百姓役儀相定覚」という御触書である。
慶長年間に数度に亘って発令された。
特に5人組制度等は、後の幕府によって定められた農民支配の法令制度のモデルになった。
半農半武等を薦めて、結局、藩士のリストラを行わずに財政を維持する方法であり、これは一定の成功を収めたが、収奪される農民は堪ったものではない。あまりに厳しい年貢の取り立てに、藩主の支配を止めてあの苛政で知られる天領各地の方がマシで、天領にして欲しいとの悲鳴さえあったようだ。
また、最大の火種としては、全体の人口構成の中で、武士・官僚の占める割合が20%を越えたということである。
その様な火種を抱えたまま、年月が経過し、その後、継子断絶の咎を受けて、幕府から、延宝年間に下された30万石から15万石への減封措置によって、兼続が築いた農民支配体制でも藩政の維持が困難になった状況で上杉鷹山の改革が行われた。
この改革は、武士・支配階級のリストラと専制君主体制の構築、農民の保護施策、徹底的な倹約で、いわば、国全体の経営規模の縮小化による危機克服である。
この改革が成功したか否かについては、多くの外様が改易になって消滅する中で、一応は、上杉藩が幕末まで継続したという事実をみれば、成功であったとも言えるが、結局は、細々と生き延びて来たということに過ぎないのだろうか。
明治新政府になっても、幕府軍に味方した上杉家は厳しい仕置きを受ける。前の知藩知が投げ出した琉球・沖縄県の新政府支配の為に上杉家が派遣され、同じく華族の池田氏との対談の形式で、この作品では、上杉家の代々の改革を俯瞰していく書き方となっている。
江戸期の行政史を見るときに、どうしても幕政改革に目が向きがちであるが、上杉家の改革の様な大名家、それも、外様の藩政改革の歴史を見るというのも新たな視点を与えてくれるのではないかと思う。
江戸時代の地方史は、まさに藩政改革に明け暮れたのである。
結局は、幕藩体制による地域支配の矛盾の克服という課題であったが、その課題が克服される前に、欧米列強の外圧による維新を迎えてしまい、地域行政と一般人民との乖離という課題は、今なお、21世紀の現代日本社会にも燻り続けているのではないだろうか。
但し、兼続が亡くなるシーンが、米沢かどこかになっているが、史実は、江戸藩邸で隠居後、急逝することになっている。
兼続が果たした役割、これは、江戸時代の「農民支配」の規範を最初に文章化した点で歴史的意義は大きい。
たしかに「愛」は存在するが、現在の私たちが地域に対して持っている愛着や、人間愛とは異なり、やはり為政者としての愛である。
この『米沢藩の経営学』では、そういった点について詳細な記述がみられる。米沢藩(上杉氏)、米沢に移封後、兼続の改革の成果で、暫くは安泰が続くが、あの忠臣蔵の吉良上野介に藩主が「暗殺?」され、世継ぎが断絶、改易の危機に瀕する。老中保科の口添えで、上野介の嫡子が相続するが、領地・石高は、更に半減される。
吉良家の出身だけあって、新藩主は浪費癖もあり、藩政は危機に瀕する。どこかの国の財政同様に、ごまかしごまかしで数代続いたが、重定公の時代になって、ついに藩政が立ちゆかなくなって、幕府に「版籍奉還」を申し出る。
この様な状況を打破すべく、秋月藩から新しい藩主、上杉直丸が迎えられ、新藩主となる。これら、かの有名な上杉鷹山である。
上杉家の藩政改革は、兼続、鷹山の改革が二大改革を呼ばれるものである。
兼続の改革は、幕府の慶安の御触書のモデルとも言える徹底した農民支配を「生活管理」から薦める。
「郡中百姓役儀相定覚」という御触書である。
慶長年間に数度に亘って発令された。
特に5人組制度等は、後の幕府によって定められた農民支配の法令制度のモデルになった。
半農半武等を薦めて、結局、藩士のリストラを行わずに財政を維持する方法であり、これは一定の成功を収めたが、収奪される農民は堪ったものではない。あまりに厳しい年貢の取り立てに、藩主の支配を止めてあの苛政で知られる天領各地の方がマシで、天領にして欲しいとの悲鳴さえあったようだ。
また、最大の火種としては、全体の人口構成の中で、武士・官僚の占める割合が20%を越えたということである。
その様な火種を抱えたまま、年月が経過し、その後、継子断絶の咎を受けて、幕府から、延宝年間に下された30万石から15万石への減封措置によって、兼続が築いた農民支配体制でも藩政の維持が困難になった状況で上杉鷹山の改革が行われた。
この改革は、武士・支配階級のリストラと専制君主体制の構築、農民の保護施策、徹底的な倹約で、いわば、国全体の経営規模の縮小化による危機克服である。
この改革が成功したか否かについては、多くの外様が改易になって消滅する中で、一応は、上杉藩が幕末まで継続したという事実をみれば、成功であったとも言えるが、結局は、細々と生き延びて来たということに過ぎないのだろうか。
明治新政府になっても、幕府軍に味方した上杉家は厳しい仕置きを受ける。前の知藩知が投げ出した琉球・沖縄県の新政府支配の為に上杉家が派遣され、同じく華族の池田氏との対談の形式で、この作品では、上杉家の代々の改革を俯瞰していく書き方となっている。
江戸期の行政史を見るときに、どうしても幕政改革に目が向きがちであるが、上杉家の改革の様な大名家、それも、外様の藩政改革の歴史を見るというのも新たな視点を与えてくれるのではないかと思う。
江戸時代の地方史は、まさに藩政改革に明け暮れたのである。
結局は、幕藩体制による地域支配の矛盾の克服という課題であったが、その課題が克服される前に、欧米列強の外圧による維新を迎えてしまい、地域行政と一般人民との乖離という課題は、今なお、21世紀の現代日本社会にも燻り続けているのではないだろうか。
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